ゴースト・ホテルで会いましょう③

 止める声を聞かずに、ハニーは窓を開け放った。雨風がびゅうっと吹き込み、カーテンをバタバタと揺らした。ベランダに出て上を見ると、黒い影の端が消えるところだった。「屋上だ!」

 ベランダの手すりに足をかけ、窓枠を伝って壁を登る。屋上のフェンスに手がかかると、壁を蹴り、一気に体を引き上げた。屋上は給水タンク、階下への出入り口のほかに、物干し竿があった。強風ですべて倒れている。

 モルタルが雨水で黒光りする中、ハニーは先ほどの影を探した。

 ぱしゃりと水たまりが波立った。その痕跡を目で追う。

「どう?」チョコレートミントがQフォンから連絡を入れてきた。「おばけいる?」

「おまえも来てみろ」

「やだよぉ! 憑依されたらどうするの?」息を飲む音がする。「もしかして、もうされてる?」

 また水が大きくはねた。

「ミント、おまえの武器を持ってきてくれ」

「え、なに? 聞こえないよ……」

 目の端でなにがが動き、ハニーは振り返って、飛び掛かってきたビターを避けた。

 いつも見ているものに比べると、各段に小さかった。せいぜいクッションくらいの大きさだ。弱々しく、風が強く吹くと震えてちぎれそうだった。なぜそうなのか気づいた。人を飲み込んでいないからだ。

 誘い込まれたのだろうか? それほどの知能はあいつらにはないはずだ。なぜか人に反応する、それだけだ。窓を叩いたのも単純に人の気配に惹かれるまま来ただけのこと、だと思う。だが、自分は今メルターを持っていない。

 ミント、ともう一度Qフォンに呼びかけたかかけないかのうちに、ビターが再びジャンプした。

 とっさに下がろうとしたとき、ハニーの後ろからだれかが飛び出してきた。そいつが持っていた板のようなものでスパンとぶん殴られ、ビターは水たまりの上に力なく落ちた。

「お客様! おけがはありませんか?」

 コンシアージュが叫んだ。彼が構えているのはお盆だった。

 屋上のドアが開いていて、チョコレートミントが水をはね散らかしながら走ってきた。メルター・シューアンドホイップで一発撃ち込むと、ビターは水と見分けがつかないくらいに脱力し、モルタルの上でだらしなく広がった。

「なんだぁ」ミントが胸をなでおろす。「ビターだったんだ」

 実在する寄生型エイリアンを怖がらず実在しない幽霊を怖がるチョコレートミントの神経構造に疑問を抱きながら、ハニーは採集作業を済ませた。「助かったよ」

「いったいなんだったんですか?」コンシアージュは困惑を隠さず言った。彼はルームサービスの料理を運んだ帰りにミントと鉢合わせたらしい。事情もよくわからないまま、屋上への扉の鍵を開けてくれたのだった。

 チョコレートミントが驚く。「宇宙生物ですよ。テレビで見たことないですか?」

「は、不勉強で申し訳ないです」

「よく知らないのに立ち向かったの? 勇気があるんですね」

 コンシアージュは照れたようにほほえんだ。「お客様の安全が第一ですから」

 廊下の明かりがついた。電源が復旧したようだ。

「さあ、中に入りましょうか。また濡れてしまいましたね。お茶をいれて差し上げましょう」

 ふたりはそれに賛成した。

 雷鳴が遠のいていった。



 朝になると、雨はもう降っていなかった。窓から見える快晴にチョコレートミントは喜んだ。

「昨日の天気がうそみたい!」

「なんだか疲れたな」

 ハニーはそうこぼしたが、ミントはいつもどおりもう回復しきっていた。「おばけはいなかったし、ビターは二体採れたし」

「それは?」

「これねえ」チョコレートミントは指二本で銀色のものをつまんでいた。「部屋の前に落ちてたの。コンシアージュさんのネクタイピンじゃないかな。届けてあげようと思って」

「昨日のお礼も改めて言わないとな」

 チェックアウトの手続きをしにフロントに行くと、ひげのコンシアージュはおらず、代わりに退屈そうな顔をした若い女性スタッフがいた。

「これ、落ちてました」ミントはピンを渡した。

 若いフロント係はしげしげとそれをながめた。「うちのものだわ。ありがとうございます」

「部屋の前で拾ったの。たぶん、コンシアージュさんのだと思う」

「コンシアージュ」彼女ははて、という顔になった。「うちは家族経営で、コンシアージュは父ひとりですが、昨夜は出ていませんで」

「お父さん、黒髪で、口髭の、ダンディな感じ?」

「いえ、父は髪ないので。それだとハリーおじさんみたい」

「ハリーおじさん?」

「十四年前に火事で亡くなってますけどね」

 フロント係は自分の背後の壁を指し示した。小さな額に男性の写真が入っている。それはまぎれもなく、昨日見たコンシアージュの写真だった。

「亡くなった?」

「台風ジェフリーのとき、うちに雷が落ちて、屋上と八階が燃えたんです。深夜だったのもあって、八階のお客さんは逃げ遅れて……おじが助けに行ったと聞いています。でも、全員……」フロント係は首を振った。

「で、でも……」チョコレートミントがうわずった声で言った。

「となりの部屋の人も見てるはずだ」ハニーは助け舟を出した。

「そうよ、となりの部屋の人にも聞いてみて!」

 フロント係は眉根を寄せ、手元のタブレット端末を操作した。「となりですか? いえ、昨日八階に泊まっていたのはおふたりだけです。となりの部屋に人がいたんですか?」

 ハニーとチョコレートミントは顔を見合わせた。

「あ、あの……失礼します」

 チョコレートミントは青ざめた顔でフロントを離れた。ハニーも後に続いた。外は台風一過で雲ひとつなかったが肌寒かった。速足でホテルを出てタクシーをつかまえ、CMの亡霊たちのあいだを抜け、フェリーに飛び乗ってスタテン島を出るまで、ふたりは一度も振り返らなかった。

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