番外編 トレーニーズ
「へえー」チョコレートミントはフロアにずらりと並ぶ器具を見回して言った。「いっぱいあるんだねえ」
ハニーとチョコレートミントはトレーニングジムに来ていた。見学である。研究所で間違ったスクワット(膝が爪先より出ていた)を実施するミントに黙っていられなくて口を出してしまったのが運のつきだった。
「ほら、あたしって、大女優だし、世界のファッションリーダーだからさぁ。夏に向けて体つくってかなきゃ! って思ってるんだけど、そういうの教えてくれるジムってどうやって探すの?」
「普通は、職場か家のどちらかから近いところを選ぶ」
「いくつかあるんだけど」
「見学してみて良さそうな方にすればいいだろ」
「なにが『良さそう』なのかわかんないよ」
「そりゃ、利用者とインストラクターの雰囲気とか、器械が充実しているかとか、プールがあるとかないとか、更衣室にシャワーがついてるかとか、スタッフが怪しい健康器具を押し売りしてこないかとか……」
と、なんだかんだあって、彼女のジム選びに同行することになってしまったのだった。
案内係のインストラクターは先に来て待っていたが、利用者に何か意見を求められてそちらの対応をしていた。彼の仕事が終わるまで待つことにする。
「男の人が多いんだね」ミントがひそひそと話しかける。「それも、なんか、本格的って感じの」
ハニーがミントの目線をたどると、壁際でバーベルトレーニングに励む男たちに行きついた。練り上げられた筋肉がバックプレスの動きに合わせて躍動している。
「時間帯にもよるだろうが、本格的なトレーニングもできるところらしいな」
「あたしみたいな初心者が来て大丈夫かな?」
「もちろん大歓迎ですよ!」インストラクターが戻ってきた。ニコニコしながら、「ここはプロの方も利用されるジムですが、ええ、ゼロから教えるのも、他に代えがたいやりがいがあるというものです。ほら、あちらの方も、先月から入会されたばかりですよ」
あちらの方、と手で示された方を見ると、ショルダープレスで両肩をゆっくり上げ下げしている殺し屋ニッキーがいた。
ハニーはチョコレートミントに言った。「ここはやめよう」
「やあ!」ニッキー・スペンスがほがらかに挨拶した。「きみもここのジムなのかい? あ、彼女が護衛中の?」
「行くぞ、ミント」
「なんで? 友達がいるならいいんじゃない?」
「友達じゃない、あれは殺し屋だ」
「殺し屋じゃない」ニッキーは立ち上がり、タオルで器具と手をごしごし拭いてからチョコレートミントに握手を求めた。「はじめまして、ニッキー・スペンス、探偵です」
「今こいつがやったみたいに、トレーニング器具は使った後拭くのがルールだからな。よそでも一緒だ。帰るぞ」
「おいおい、帰っちまうのか?」と特徴的なだみ声が響いた。「冷やかしはお断りだぜ」
アブドミナルのトレーニングマシンから殺し屋ソルトが声をかけてきていた。「お嬢ちゃん、初めてなら、おれがいろいろと教えてあげよう」
「ミント、無視しろ。残念ながら、ジムにはああいう下心丸出しで接触してくる変なやつも出没する。気をつけるに越したことはない」
「あの人は?」
「あれは正真正銘殺し屋だ。さ、二件目の見学に行くぞ」
「そんな下心はまったくないが、おれはソルト。職業は殺し屋だが、今はただの肉体改造おじさんだ。あっちのラットプルダウンにいるのが相棒のヴィネガー」
背筋を鍛える手を止めず、口ひげの男が片目をつぶってくる。「ようこそ、筋トレの世界へ。お嬢ちゃんは好きな筋肉の部位とかあるか?」
「それって自分の? それとも他人の?」
「ミント、反応するな。こんな殺し屋だらけの場所になんかいられるか。行くぞ」
ソルトがあきれた顔をした。「依頼も受けてないのに殺すかよ。一銭にもなりゃしねえだろ。それにここはジムだぜ。筋肉を鍛える以外のことはする気にならねえよ」
「受けても殺すなよ、人として」ニッキーが口をはさむ。
「おまえが言うなよ。また辻斬りしたらしいじゃねえか」
「あれは正当防衛で」
「騒がしいぞ」と別の声が割って入った。
スミスマシンで追い込みをかけられ、汗で光る上半身の筋肉、その持ち主こそ殺し屋ジャンドゥーヤだった。たくましい上腕筋と八つに割れた腹筋は年齢を感じさせないどころか、顔とのアンバランスさすら見せている。
「ここは己を鍛えるところ」とジャンドゥーヤが重々しく言う。「己の筋肉の声にのみ耳を傾けるべきだ。お嬢さん、こちら、空きますが」
「ああいうふうに、人気のマシンは譲り合って使う。ちなみにあの人は復讐の仕事しか受けないイカれた殺し屋だ」
「おじいちゃんも」ハニーの解説にチョコレートミントが慄く。
「人間だれしも、これからの人生で、今日が一番若いのだぞ」心なしかジャンドゥーヤがミントを見る目は優しげだ。「入会するなら歓迎する。筋肉を鍛えている者はみな同志だ」
ミントのセリフは「おじいちゃんも筋トレを?」ではなく「おじいちゃんも殺し屋なの?」という意味のはずだが、それを指摘する前に騒ぎが起こった。
「見つけたぜぇ、チョコレートミント!」
大柄な男が入り口に立ち、まっすぐミントを指さしていた。「おれは殺し屋グリーンティー! 今日がおまえの命日だぜ!」
ハニーは近くにあったバーベルのバーを取った。「新しいやつが来ちゃったじゃねえか!」
「無粋な」とヴィネガー。
「なに考えてんだ?」とソルト。
「神経を疑うね」とニッキー。
「ここは神聖な場所だぞ」とジャンドゥーヤ。「チャンプ、仕事はよそでやれ」
「向こうに言えよ」
殺し屋は行く手を阻んでいたインストラクターを片手でどかそうとしたが、まったく動かなかった。津波の中立ち続ける大樹のような体幹、皮膚の内側にみっしり詰まった筋繊維、そして身長二メートル近い天性の肉体、インストラクターはそれらをすべて持っていた。
ふたりは互いをまじまじと見つめ合った。
「……なかなかじゃねえか」と殺し屋。
「お客様困ります」とインストラクター。「ほかの方の迷惑になりますので」
殺し屋はおもむろに上半身の服を脱いだ。こちらも見事なボディだ。山脈のように切れ上がった上腕二頭筋・三頭筋、鋼のような密度の大胸筋、そして雄々しく隆起した僧帽筋が、これまでの並々ならぬ努力を語っている。
インストラクターもタンクトップを脱ぎ去った。ミントの「なぜ……」というつぶやきは、ふたりを囲むジム利用者たちの歓声と掛け声でかき消された。いつのまにやらジム中の全員が集まってきている。
「筋肉でカタつけろ!」ジャンドゥーヤが一喝するとトレーニーたちがそうだそうだと同意する。
殺し屋がいきなりフロントバイセップスのポーズを取ると、囲みは盛り上がって口々に叫んだ。
「ナイスポーズ!」
「デカい!」
「仕上がってるよ!」
負けじとインストラクターもポーズをキメる。
「肩、最高!」
「ナイスバルク!」
「キレてる、キレてるよ!」
ヴィネガーが「ターンライト」と合図を出すと、二人は回転して見せる方向を変えた。
「僧帽筋が威嚇してる!」
「ゴリラ!」
「ナイスカーフ!」
「腹筋グレネード!」
「肩に月面探査機乗ってんのかい!」
「背中が第三宇宙ステーション!」
ハニーが声を上げるとチョコレートミントがびくっとした。
インストラクターと殺し屋がそれぞれモストマスキュラーでポーズを決めると、観客は最高潮に盛り上がり、拍手の音がフロア中に鳴り響いた。言葉は発さずとも、互いに尊敬の光を目に湛え、固く握手を交わす両者を見ながら、観客のだれかが皆の心の内を代弁するように「明日からもっとがんばろう」とつぶやいた。トレーニングは基本的に孤独な作業である。だが、己と戦う中で目にする、同じように努力を続ける者たちの存在は、時に大きな勇気となるのだ。
「いい勝負だった」拍手しながらハニーがしみじみと言った。
チョコレートミントは淑女であったので、大人の態度で応じた。「そうだね」
後日、チョコレートミントは近所のホットヨガスタジオに入会した。
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