ゴースト・ホテルで会いましょう②

 ドアのすぐ後ろにミントがいて、黙って奥を指した。カーテンは引いてあるが、端がパタパタとなびいている。「なんで窓開けたんだ?」

「どのくらい風弱くなったかなと思って……」

「………」

「そしたら、向かいにぼうっと立ってる人がいて……」

「姿を見たか?」

「よく見なかった……でもいたの!」

 ハニーは足音を立てずにベランダに近づき、そっと顔を出して外をうかがった。

「どう?」ミントがささやき声で聞いた。

「あれ、プロアじゃねえの?」

「うそ」

 半分雨に濡れながら、ハニーとチョコレートミントは向かいのベランダを凝視した。若い男の投映映像のようだ。たしかに暗いところでは実在の人間のように見えないこともないが、ずっと見ていればたまにちらちらとノイズが入るのがわかるはずだ。なにかを飲むような動きを繰り返しているので、ビールかなにかのCMだったのだろう。

「ごめん」ミントがぶぜんとして言った。

「いい」ハニーはすぐ言った。「警戒心があるのはいいことだ」

「あー、なんだろ、恥ずかしい」ミントは両手で頭をはさんだ。「初めて見るわけじゃないのに」

「疲れてるんだろ。早く休めよ」

「なんだか、この部屋落ち着かなくて」

「もう窓開けんなよ」

 部屋に戻り、一時間半後に起きるつもりでハニーは仮眠に入った。三十分後に目が覚めた。チョコレートミントからコールだった。「起きてる?」

「どうした?」

「いや、あの、ちょっと」歯切れ悪く言ったあげく、チョコレートミントはこう切り出した。「幽霊って信じる?」

「はあ?」

「今テレビ見てたらね、心霊特集で、ちょうどこのへんの話をしてて、なんか、前に火事があって燃えたホテルがあるんだって、逃げ遅れた人の幽霊が出るらしいの、それってここだったりしないかな? それでね……」

「あのな」ハニーはたしなめようとした。「おまえは退屈かもしれないけど、明日も仕事だし、今のうちに休息を……」

「ほんとごめん、でも、隣の部屋から変な物音がして……」

「変な物音?」

 チョコレートミントが言うには、隣の部屋からうなるような声と、壁に爪を立てるような不気味な音がするということだったが、ハニーが実際に聞いた限りでは、ただの隣人の立てる生活音に違いなかった。

「人ならざるもののたてる音でしょ?」

「単に歯ぎしりのひどい人だろ。言ってやるなよ」

「ハニー、幽霊見たことある?」

「さっきのはプロアだっただろ。火事が起きたホテルだってここだってわかってるわけじゃない……」じっとチョコレートミントが見つめてくるので、ハニーは参ったという仕草をした。「おれはないけど」

「けど?」

「前いた基地で出るって噂はあった」

「軍の? うそ」

「むかし、射撃の訓練中に事故死した兵士がいたんだそうだ。そいつは死んだあとでも訓練し続けているらしい。夜中に射撃場から、床をブーツで歩いたり、薬莢を落とす音が聞こえるんだと。それから、自分を誤射した同期を探す声がな」

「うわぁ、怖いよ」ミントが抗議した。「眠れなくなっちゃうじゃん!」

「それは前からだろ」

「あ、そうだった」

「ここに幽霊はいない」ハニーは言い切った。「ちゃんと休めよ」

 部屋に戻り、仮眠を再開して三十分後、またもやQフォンが鳴り響いた。

「どうした?」

「壁、壁の、部屋の壁が……」

「壁?」

 チョコレートミントが言うには、部屋の壁紙がめくれたところをのぞいてみると、焼け焦げたあとがあり、さらには小さく「助けて」と書いてあるということだったが、ハニーが検分する限り、ただのシミと傷でしかなかった。

「助けてって読めるでしょ?」

「そうかぁ?」ハニーはたずねた。「おまえ、幽霊だめなの?」

 チョコレートミントはもごもごと言った。「あんまり得意じゃない。映画とかなら大丈夫なんだけど、実際にいるって思うと……ハニーは?」

「幽霊はフィクションで楽しむもんだろ。実際にいても怖くない」

「どういうこと? “実際にいたら”が怖いんじゃん」

「……おれが前にいた官舎にな、首を吊った兵士の」

「やめてよぉ。ひゃあっ!」

 突然の奇声に、ハニーは壁からミントの顔に視線を戻した。

「首に冷たいのが触った!」ミントがわめいた。「おばけがあたしを連れてこうとしてるんだ! いやああ!」

 雨漏りだった。

 フロントを呼びつけても状況は変わらなかった。バケツを持って迅速に参上し、平謝りした後で、コンシアージュは首をひねった。「このフロアは他の階よりも新しいんですが」

「なぜ?」

「改修工事をしたんですよ。前に火事で焼けましてね」

 ハニーはチョコレートミントのうめき声をさえぎった。「ほかに部屋を用意してくれないか?」

「たいへん申し訳ございません。今夜は満室でして……」

 あくびをかみ殺し、込み入った話は明日にしようとハニーは言った。

 コンシアージュは深々と頭を下げたあと、同じ階の被害の様子を調べると言って、隣室のドアを叩いた。眠そうな目をした金髪の青年――あれが歯ぎしりの音源か――と話し始めたのを尻目に、ハニーは室内に向き直った。

「もうやだあ」チョコレートミントがぐずる。「うちに帰りたい!」

「しょうがないだろ。おまえはおれの部屋を使えよ」

「ハニーは?」

「こっちの部屋で寝る」

「やめなよ呪われるよベッドも濡れちゃうし明日の朝不審死してたらどうするの?」

「じゃあエレベーターホールのソファで寝てくるよ、これでいいだろ」

「よくない待ってやだ無理」チョコレートミントが渾身の力で上着をつかんできた。「置き去りにする気? 呪われた部屋のとなりに? ボディガードなのに?」

「幽霊相手にどうしろっていうんだよ」

 チョコレートミントは泣きそうな顔になった。「やっぱり幽霊いるんだあ」

「いねえって! じゃあなんだ? 一晩中起きて見張ればいいのか?」

「ううん、おばけの気配がしたら楽しい話とかして、あとあたしにわからないようにさりげなく倒して」

 この命令に難色を示したハニーとチョコレートミントの押し問答が五分ほど続いた。

「あのなあ」ハニーはつい言ってしまった。「こっちはおまえと違って、ちょっとは眠らないといけないんだよ」

「好きで眠れないんじゃないよ!」ミントが叫んだ。「ハニーのバーカ!」と捨てゼリフを吐いてバスルームに駆け込み、三十秒後に飛び出してきた。「鏡にひびが! いきなり! ポルターガイストだ!」

「手抜き工事だろ! 雨漏りもそう! 手抜き工事!」

 けっきょく同じ部屋で休むことになったときにはふたりともうんざりしていた。眠らない自分にはベッドは必要ないとチョコレートミントが言ったが、ハニーはかたくなに辞退し、ひとりがけのソファを二脚並べてさっさと横になった。

 三十分後、揺り起こされてハニーは飛び起きた。「今度はなんだ!?」

 チョコレートミントは驚いて後ずさった。「なにって……。うなされてたよ。大丈夫?」

 汗ばんだ額に手をあて、そのまま髪をかき上げる。どんな夢を見ていたのか思い出せない。

「続きって?」

 意味がよくわからずオウム返しに聞いた。「続き?」

「『続きを聞かせてくれ』って言ってた。なんの夢見てたの?」

 そのとき、バリバリ、ドーンという音と共に雷が落ちた。

 部屋の明かりがふっと消えた。

「やだ、停電?」

 ハニーはとっさに銃に手を伸ばした。「ミント、じっとしてろ」

 闇の中だったが、バァンという音でミントが飛び上がるのがわかった。窓ガラスが叩かれた音だった。普段は考えられないほどかぼそい悲鳴がミントから上がった。「そ、外……」

 稲光がひらめいた。

 カーテンの向こう、窓の外になにかがいる。その影がゆらゆらと動いていた。影が縦ににゅっと伸び、するりと上へあがっていった。

「な、な、なに、今の」チョコレートミントの蒼白な顔面が見えた。「見た? 見たよね?」

「ああ。少なくとも幽霊じゃねえよな」

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