サルサ家の謎③

 うそをつくコツは、うそをつかないことだ。矛盾ではない。断定を避ける。本当のことと混ぜて話す。偽りではないと言い切れるだけの範囲から出ないことだ。ということで、ハニーができる就職カウンセリングは軍隊を勧めることに尽きる。設定をそこに寄せていくと、就職カウンセラーワトニーは軍隊出身で、軍を志望する若者や将来どうしたらいいかわからない子に自分の経験を踏まえてアドバイスをするという役回りになった。ついでに、市役所の勤め人ではなく、退役軍人の会を通じて仕事を斡旋されたということにしておく。前任者のことやカウンセリングの詳細などを訊かれたときのための予防線だ。

「ビルを軍隊に入れる気はないんだが」

「あくまでも選択肢のひとつとして考えていただければ」ハニーは階段のほうをちらりと見た。「本人のお話も聞いていませんし」

「すみません、さっきから何度も呼んでみたんですが」ジョージーナの言葉はふわふわとしてつかみどころがなく、無視してもまったく問題なさそうだった。無力さ加減が哀れを誘うほどの女だ。「出て来なくて」

「担当者として挨拶だけでも」

 ハニーはきっぱりと言った。ビターシステム誤報の謎の答えとチョコレートミントをつれて戻らなければ。一階はトイレを借りるふりをしてあらかた見て回ったが特に変わったものはない。なにかあるとすれば階上だ。二階を見ずに帰るわけにはいかない。

「わたしが呼んで来よう」と言ってラリーが席を立ったのと同時にハニーも立ち上がった。当然のような顔をして後をついていくハニーを、ラリーはちらりと見ただけだった。ジョージーナもひたひたと階段をのぼってくる。

 一行はその部屋の前に立った。幼い字でビルと書かれたネームプレートは年季が入っていた。古びてふちがはがれたプロホッケーチームのロゴシールがべたべたはってある。昔はスポーツ少年だったビル青年がなぜ外に出ることをやめてしまったのかは、両親との会話の中でうすうす見えていた。学校、思春期、心の問題という単語にプラスして、大会、レギュラー、ケガというキーワード、このあたりでおおよその検討はつく。

 ラリーがドアをノックする。「ビル、就職カウンセラーのワトニーさんだ。あいさつに見えた」

 中からはなんの返答もなかった。ハニーも声をかけたものの、だれもいない部屋に向かって話しかけているのではないかという思いがぬぐえなかった。気配が感じられない。

「無理もないというか……わたしたちもしばらく息子とは話していないんです」

「最後に話したのはいつです?」

 記憶をたどる長い間が開いた。「少なくとも二年前です」

 同じ家に住んでいてそんなに長く会話せず過ごせるのかと驚いていると、ラリーはプレートのシールを指先でなぞりながら話を続けた。「人に関する記憶の中で、最も早く忘れるのはなんだと思いますか?」

「なんですか?」

「声だそうです。亡くなった親戚の声が思い出せなかったりしませんか? 声、顔、そして思い出という順番で忘れていくんです。思い出はあざやかです。いつまでも……しかし声は違う。常に聞いてないと忘れてしまうんですよ。こんなこと、息子が口を利かなくなったころには思いもしませんでしたが」

 なにも本人が聞いているかもしれないところでそんな話をしなくてもよかろうにと思っていると、ポケットで携帯がふるえた。上司からです、と言いおいてハニーは電話に出た。「はい、ボス」

「様子はどう?」メルバのぶっきらぼうな声が流れてくる。「ミントが電話に出ないんだけど」

 ハニーは話しながら部屋の前から離れた。ラリーが下に降りているという仕草を見せたので、軽くうなずいて応じる。

「あー……はい」

 メルバは状況を察したようだ。「今、中にいるの?」

「そうです、ご両親と話をしてて……」

「長男の引きこもり相談員とでも名乗ったわけ?」鼻で笑うような声が入る。当たらずとも遠からずなのがまた小憎たらしい。「ビターはいそう?」

「今のところはまだ」

「注意したほうがいい。防犯カメラの映像を解析したら、センサーがどこに反応しているかわかった。おそらく、窓だ。窓の内側でビターみたいな大きな影が動いているのが確認できる。ベランダに出る窓に映ったのが三回、あとは二階の東側の……」

 ハニーは単に二階の間取りをつかもうと視線を巡らせただけだったが、廊下のはじの方で暗い色の床に浮かぶような淡いグリーンのものについ目が止まった。

 ひっくり返ったチョコレートミントのハイヒールの片方だった。

 ほんの数秒のことだったが、ハニーは目を止めすぎた。はっと顔を戻すと、驚くほど近くにいたジョージーナ・サルサと視線がかち合った。彼女が無表情に一歩距離を詰める。なにかが腹に当たった。

 バチバチッと音を立てて電流がほとばしり、ハニーは床にくずれ落ちた。

 体の自由がきかない。スタンガンをスカートのポケットに突っ込んだジョージーナは、ハニーの図体を押したり引いたりしながら廊下を動かしてゆき、息子の部屋のドアを開けて中に押し込めた。 

 ビルの部屋はすこぶる暗かった。窓も閉め切っているのかほこりっぽくよどんだ空気が肺に入る。首もうまく回らないのでよく見えないが、ジョージーナはハニーの足元でごそごそとなにかをしていた。怒りにかられたものの、見えない力でぎゅうぎゅう押さえつけられているように手足が動かない。「おい」声はなんとか出せた。「足にさわんな!」

 ガチャガチャと金属のこすれ合う音が聞こえ、ハニーはたいへん肝を冷やした。暗闇の中、女のけぶるような瞳がハニーを最後に一瞥すると、バタンとドアが閉まった。 

 囚われのチョコレートミントがそこにいた。靴をはいている方の左足から鎖が伸びて、スチール製の棚につながっている。自分に付けられたのもあれかと、ハニーは苦々しく理解した。

「なんで来ちゃうの?」チョコレートミントはおかんむりだ。「ふたりとも捕まってどうすんの?」

 言い返すことはせず、ハニーはあたりに目だけ走らせた。ドア側の壁にそびえ立つスチール棚にはAV機器やパソコン用品がぎっしり詰め込まれ、はみ出したコードがジャングルの植物のようにうねっている。部屋の右手には勉強机があり、ノートパソコンが開きっぱなしになっていた。机の上も汚い。ぐちゃぐちゃに積まれた雑誌の上にヘッドホンが鎮座している。そのさらに奥はベッドが置いてあった。ベッドの上でもの言わず座り込んでいるのはビル・サルサくんその人だろうが、ビターに身体をすっぽりくるまれているとなればそれも致し方ないだろう。ビターのか、ビルのかわからないが、とにかくどちらかの呼吸に合わせてゼリーの肉体がふるふる揺れていた。

「なんだあれ」

「あたしだって知りたいわよ! 二階を調べようとして開けたドアが一発でビンゴ! そこをあのお母さんにやられて、もう!」自分でしゃべっているうちにヒートアップしてきたミントは金切り声を上げた。大声に反応しているのかビターが大きくふるえる。「どうすんの?」

「静かにしろよ」

「状況わかってんの?」ミントは鎖をじゃらじゃらと鳴らした。「腹立つなあ!」

「ふたりとも熱くなることはないだろう」ハニーはより落ち着いた口調を心がけた。「興奮すると、周りが見えなくなる。ピンチに怒鳴りあってもしょうがないだろ。プロは取り乱さない」

 チョコレートミントはなにか言おうとしたがやめ、ふーっと荒々しく息を吐くと両手をぱたんと床に落とした。ふたりはベッドの上でわだかまるビターの球体に近い姿を眺めた。

「あいつはなんで襲ってこないんだ?」

「わかんない。変だよ。暗いからかな? 夜はあんまりビターが出ないし。そういうことかも」

「母親はどういうつもりなんだ」

「えさだって」

「なに?」

「なんでだか今は落ち着いてるけど、ビターはあたりを攻撃するものでしょ? つまり、あれがはしゃぎだしたら、あたしたちが遊び相手になれってさ。まあ、口封じの意味もあるだろうけど」

 ふたりとも対ビター銃はかばんの中で、ふたりともかばんを居間に置いてきてしまっていた。メルバの反応が憂慮された。のこのこ家に入っていって捕まったなんてばれたら、メルバになんて思われるか。

「この棚、ふたりでひっくり返してみる?」と、だいぶ頭が冷えてきたらしいチョコレートミントが提案した。「重そうだけど……ああ……」ハニーが靴を脱いで右の足首を外し始めたのを見て、ミントは言葉を止めた。「便利だね」

 かせからするりと足を抜くと、ハニーは自由の身になった。足首から先をまた元通りつけ直し、チョコレートミントの方ににじりよる。こっちはどうやって外そうか。と、ドアをノックする音がした。

「お兄ちゃん」エレンのためらいがちな声だった。「起きてる……?」

 ビターがぴくりと反応したので、ハニーとチョコレートミントは思わず硬直した。

「ねえ、お兄ちゃんはもうお部屋から出て来ないの?」ドアがコトンと小さく音を立てた。エレンが背中をドアに預けて話しかけている様が想像できた。「前はときどきわたしと遊んでくれたのに……。ねえ、たまには出てきなよ。おばあちゃんが施設に行っちゃったのが悲しいの?」

 そのとき、ビターの体表が大きく波立った。球体が激しく揺れ、ひと回り大きく体をふくらませた。

「ハニー!」とささやきながらチョコレートミントは腕をゆさぶってきた。うまくいく保証はないものの、ハニーはナイフを引っ張り出して、足かせのカギをこじ開けにかかった。

 エレンは中の気配を感じ取ったのかもしれない。「だれかいるの……?」とかかった声にまたビターがざわめく。

「あの子黙らせて!」とミント。

「無理だろ」ハニーはピッキングに集中した。

 もはやビターは形を保ってはいなかった。天井につくかというほど丈を伸ばし、でろでろとベッドの下まで垂れ下がり、壁さえも覆い始めていた。ときおりマグマのように、ぼこりと一部が突出しては元に戻る。

「お兄ちゃん、入ってもいい?」

 ビターがじわじわと空間をうめていく。パソコンの乗った机が侵食されたのを目の端でとらえる。したたるビターがじりじりと迫っている。

「こんなところで死ぬわけにはいかないのに」チョコレートミントが小声で叫んだときだった。ミントの足かせがカシャンと音をたてて外れた。

 ドアを引き開けて外に転げ出た。背後からみしみし、バキバキと破壊音がした。チョコレートミントは驚き立ちすくむエレンを急き立てて階段へ向かい、ハニーはミントの靴をひろってから後を追った。ビターはドア枠いっぱいにおさまってぼこぼこと体を泡立たせていたが、表面張力でこぼれないコップの水のように、少しずつに廊下にはみ出してきていた。

 反対側の部屋からジョージーナが飛び出してきた。「ああ、ビル! あなたたち、ビルになにをしたの?」

 同じ轍は踏まず、ハニーはくり出されたスタンガンをよけてからたたき落とした。ジョージーナは一瞬魂が抜けたように棒立ちになったが、身をひるがえして今にもビターが出てこようとしている部屋の前に駆け寄った。「ビル! 出て来ないで! あなたはそこにいていいのよ! ビル! お願い! 部屋に戻って! 戻っていいから!」

 一度だけ振り返ると、大きく膨れ上がったゼリーのかたまりの前に、ジョージーナが両手を広げて立ちふさがっているところだった。ハニーが階段を下りている途中で、ジョージーナの声はぷっつりととぎれた。

 階段の下でハニーはチョコレートミントに鉢合わせした。彼女はリビングからバッグを取ってきていた。かばんを引き受け靴を渡してやる。階段を見上げると、ビターの黒い影が踊り場に見えた。階段を伝ってゼリーがぼたぼたと落ちてきている。

「いったん外に出よう。先に行け」

 うなずいて進んだミントが急に止まった。

 ゴルフクラブを握ったラリー・サルサが玄関に立ちはだかっていた。「ふたりともリビングに戻ってもらおう」

「あんた、ビターに乗っ取られた息子を部屋に閉じ込めてたの?」チョコレートミントが詰問した。「一か月もずっと隠してたの?」

「ビルは病気なんだ」うわごとのようにラリーが言った。「治るまでベッドにいなければ」

「バカ言わないで!」ミントが叫ぶ。「ビターの中にいる人がどれだけ苦しいかわからないの?」

「おまえたちは怪物など見ていない。おまえたちはこの家でなにも見なかった」

 ラリーが一歩前に出たので、ハニーとチョコレートミントは一歩後ずさった。前門の狂人、後門のビター。ハニーはラリーから見えないように気を配りながら、ミントのかばんにそっと手をすべり込ませた。指先でミントの対ビター拳銃を探す。

「サルサさん、あれは倒せるの! あたしたち、もう何度もビターを捕まえてる」

 チョコレートミントの言葉は逆効果だった。

「ビルに手を出すな!」ラリーは吠えた。「わたしの息子だ!」

「危害は加えない! とにかく、今は外に……」

「リビングに戻れ!」ラリーは絶叫してゴルフクラブを振りかざした。

「パパやめてよ!」

 割って入ったのはエレンだった。目に涙をためている。

 娘にラリーがひるんだすきをついて、ハニーはミントを連れて廊下を駆け戻り、リビングに飛び込んだ。エレンを突き飛ばし、後を追って一歩踏み出したラリーは、階段からなだれ落ちてきたビターに頭から丸のみされるかたちになった。

「エレンちゃん、こっち!」チョコレートミントが叫び、よろよろと走ってきたエレンを捕まえた。

 引き金を引く。

 砂糖の弾が標的にぶちあたり、ゼリーの怪物は身震いして体をひと回り小さく縮ませた。完全に液状化させるには攻撃が足りないとみえる。まともに弾が当たったとはいえ、階段の下方と玄関を埋めつくす大きさだ。

「なんか最初見たときより大きくねえか?」

「複数とああなるの! 暴力性も増すから早く倒さないと」

 ミントのリボルバーはあと四発撃てる。これでどれだけ削れるか。

 壁を這い、周りから囲い込むようにリビングに侵入したビターは、家具や置物を片端からひっくり返していった。テレビ台がケーブルを伸びきらせてななめに倒れ、ソファーは伏し、棚は中身をまき散らしたあげく裏側についたほこりをあらわにした。

 ミントがリビングの窓を開けて庭に出た。二発撃って牽制してから自分も降りる。

 ビターはためらうように、興味をなくしたように、荒れた室内でたたずんだ。吹き込む風でたなびくカーテンが体表をくすぐっている。またゼリーのあちこちがぼこぼこと泡立つ。家全体が、吹き荒れた破壊の嵐の余韻だろうか、きしむような音を立てている。

 窓ガラスにべたりと黒いものが付いた。壁を伝ってきたビターの体組織だ。「ミント、もっと下がれ!」

 ビターに銃口を向けると、エレンが「やめて!」としがみついてきた。「待って、カウンセラーさん! お兄ちゃんを助けて!」

 泣き顔のエレンの頭をぽんとたたくと、ハニーは彼女を引きはがしてチョコレートミントに預けた。

 開いた窓からぬっと姿を見せたところに正面から一発、溶けて庭へどっとなだれ落ちる瞬間に一発、ハニーは弾丸を撃ち込んだ。

 沸騰するように激しく泡がはじけたあと、ビターは芝生の上でぱしゃんと脱力し、やっとおとなしくなった。

「はあああ」チョコレートミントが大きく息をついた。「危機一髪だった」

「早いとこ出るぞ」ハニーは近所を気にしながら言った。

「あの子はどうする?」ミントはエレンを指さした。エレンは、ビターから解放され、気絶して倒れている家族を揺り起こそうとしていた。「置いていって平気かな」

「しょうがないだろ。じきに人が集まってくる。いいのか?」

 ビターの体を専用ボトルで回収し(携帯電話も見つかった。ジョージーナが持っていたのだろう)、エレンに見とがめられないよう、ふたりはこそこそと家の正面へ回り込んだ。途中でチョコレートミントが転んだ。「あいたっ!」

「なにしてんだ」

「なんかここだけ地面がやわらかい」

 起き上がったチョコレートミントは手のひらをじっと見た。けがでもしたかと声をかけると首を振るものの、青ざめた顔をして、泥だらけの手を見せてくる。指の間に赤茶色の長い髪の毛が一束、土と一緒にからみついていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る