サルサ家の謎②
習慣というのは危険なものだ。狙われているものにとっては特に。
なので、新メルバ宇宙生物学研究所では出勤時間を特に決めないことにした。この状況下では当然の処置とも言える。行動の読める標的ほど倒しやすいものはない。
したがって、ハニーマスタードはチョコレートミントが出かける気になるまで自室で待つことになる。これは、まあ、いい。軍にいたときの、先の見えない果てなく続く待機にくらべれば天国みたいな時間だ。ハニーはアーモンドファッジを通じて調達した新品の自動拳銃を携えて、待った。
だがチョコレートミントは「出るよ」と連絡を寄越してから十分たっても部屋を出て来なかった。
実のところ部屋にいなかった。
「ごめん」チョコレートミントは悪びれもせず言った。「エッグ・ロスコが食べたくなっちゃってさあ。メッセ? 店から出るって意味」
アパートから歩いて五分、たまご料理で有名なオープンカフェの黄色いパラソルの下で、ハニーは頭をかかえた。自分から銃口の先に身をさらしていくやつをどう守る?
「朝ごはん食べた? ここおいしいよ。食べていく?」
「……いい……」
これは難しい仕事をうけ負ってしまったと痛烈に感じ入る。つくづくまいった、バカの警護とは。こいつは自分の危険を意識していると思っていたが。
「次からは外に出るとき言ってくれ……」
「なんで?」
バカの警護とは!「おれの次の仕事が葬儀の手配にならないようにだよ」
「おおげさだなあ、もう」チョコレートミントは肩をすくめた。「殺し屋もこんな朝っぱらから来ないって」
「いいから言うとおりにしろ」
「わかったよ」
通勤手段も日によって変えることにしている。今日はバスで行くはずだったが、バス停から離れてしまったので、店を出てそのまま歩いていくことにした。チョコレートミントは意外に健脚だ。ヒール音も高らかに朝の人ごみの中をすいすいと進んでいく。だけどあれもよくないよな、とハニーは思った。
「もっとかかとの低い靴はないのか? それじゃいざというとき走れないだろ」
「別にこれでも走れるけど」チョコレートミントは大きな瞳をひたとハニーに据えた。「あのさあ」
「なんだよ」
「そりゃあたしだって殺されたくないよ、でも、ただびくびくするのも違うと思うの。怖がってたら敵の思うつぼでしょ? なるべくふつうにしていたい」
「怖がれって言ってるんじゃない、備えろって言ってんだよ」
「あたしが殺し屋さんたちに遠慮する必要はこれっぽっちもないでしょ」
「そうだな、おまえがしてるのは配慮だ。どうぞ今狙ってくださいってな」
「靴くらい好きなの履かせてよ。それともハイヒールの女は守れないの?」
「こないだの爆弾女だって、ヒールを履いていなかったら、追いついてきたかもしれないぞ」
「どっちにしろビターにやられてたでしょ」
「あのな、口うるさいことを言ってるのはわかってる」
「あたしだってわがまま言ってることはわかってるよ」
「伏せろ」
ハニーはミントの肩をひっつかんでむりやり姿勢を下げさせた。銃声が聞こえたからだ。
耳をつんざく急ブレーキの音がそれに重なり、あたりは一時騒然とした。砂絵に息を吹きかけたように横断歩道から人が引いていく。道路のどまんなかでタイヤを射抜かれたアーマードトラックが立ち往生しており、襲撃者が連射する自動小銃の的になっていた。現金輸送車の白いボディに銃弾が雨あられと突き刺さる。
ハニーはチョコレートミントをうながした。「迂回して行こう」
ミントは異論なく、頭を低くしたまま後ずさりした。
警備会社のトーヤマ&ジョンソン社のワゴンがスリップしながら交差点へ入ってきて、武装した警備員をいっせいに吐き出した。ふたりは襲撃者たちが駆逐されていくのを尻目に、同様に遠回りを強いられた人々と「最近物騒ですね」と言い合ってからその場を後にした。
「遅い!」研究室に入るなり、ハニーとチョコレートミントはメルバの叱責に出迎えられた。「どこで油売ってたんだ!」
「タイムズスクエアで銃撃戦があったんだよ。そもそも来る時間自由でいいって言ったのボスじゃん」
チョコレートミントの反論を無視して、「これを見てよ」とメルバは壁の画面を指した。再生の仕草をすると、止まっていた映像が動き始める。「さっきまた誤報が出てさ」
映っているのはクイーンズの住宅街だった。どの画面も、角度は違えど赤い屋根の一軒家を収めている。
「ある程度の誤報はしょうがないんでしょ? センサーが、似たような大きくて黒いかたまりに反応しちゃうんだよね」
「でも、何度も同じ場所がひっかかるのは変だ。そもそも、そのような物体は見当たらない。センサーは何に反応したんだ」
その家はごくふつうの一軒家に見えた。芝生が敷かれた庭、色あせた郵便受け、古びた玄関のリース。
「気になってシステムをさかのぼって調べてみたら、一か月前から始まってた。もう九回も同じ場所で反応がある。ここまでくるとちょっと無視できないな」
「だれが住んでるんだ?」
ハニーは返事を期待していたわけではないが、メルバはよどみなく説明を始めた。すでに情報が手元にそろっているらしい。「サルサという一家が住んでいる。二世帯家族だな。夫婦とその子供ふたり、旦那の母親の五人暮らし。二年前のデータだけどね……特に変わったところはないな」
「あたし行って見てくるよ」チョコレートミントが言った。
もう部屋を出ようとしている。顔をしかめたメルバが指でくいくいと合図を送ってきた。ハニーはこの世のすべてのボディガードに対する尊敬の念を胸にかかえて後を追った。
ラリー・サルサ。二児の父親。四十八歳、医療器具の会社で製造部門の副責任者を務めている。趣味はゴルフで週末になると仕事仲間とゴルフ場に繰り出す。その妻ジョージーナ・サルサ、旧姓ハリス、四十五歳、生命保険会社で事務員のパートをしている。趣味は刺繍、ひと月に二回近所の縫物サークルに顔を出す。ラリーの母親ヘザー・サルサ、七十二歳、元プロテニスプレイヤー。ウィンブルドンの女子ダブルスでキャリア・グランドスラムを達成するも、翌年のひじの故障が原因で引退。写真と読書が好きな老婦人。ビル・サルサ、二十一歳。無職。エレン・サルサ、十三歳。中学生。ラリーとジョージーナ夫妻の子供。特筆事項はないが、強いて言えば、兄のビルは子供のころジュニアホッケークラブの選手だったし、妹のエレンは地元の絵画コンクールで銀賞を取ったことがある。
「普通の家だよね。おばあちゃんはすごい人みたいだけど」
ハニーとチョコレートミントは、ちょうど通りに出ていたレモネード屋台の前にたむろするふりをしながら、サルサ家の様子を遠巻きにうかがっていた。
周辺をざっと見て回ったが、ビターと見間違えそうなものはなかった。ビターがひそんでいそうな影や暗がりも、あやしい点はない。
「それもおかしな話なんだけど。カメラが感知できるほど大きく姿を現したビターなら、あたりを攻撃してるはずなのに」
ビターという生物は、普段はどこかに隠れていて、たまに出てきては人間に取りついて暴れ、ひととおりあたりを破壊すると満足してまたどこかに潜伏する、というのが一般的な仮説である。なぜそうするのかはわからないまでも、人を飲み込むのは破壊衝動を満たすためであり、そうでなければ人前に姿を現さない、普段はおとなしい臆病な生き物なのだと、メルバも考えているようだった。
「あと見ていないのは家の中だね」チョコレートミントはレモネードを飲み干し、ビンをごみ箱に放り込んだ。「ちょっと行ってくる」
「どうする気だ」
「大丈夫大丈夫。絶対上がりこんでみせるから。あっ、ついてこないで。すぐ戻るよ」
チョコレートミントは謎の自信をただよわせながらサルサ家に向かった。門を抜け、庭を突っ切り、玄関の前のインターホンを鳴らす。ドアが開いた。出てきた人間と少し話をしたのちに、有言実行、チョコレートミントは中に招き入れられた。
ハニーは彼女の戻りを待った。
腕時計を見たり携帯を触ったりレモネードをすすったりしながらの一時間が過ぎた。屋台の人間の不審げな目に対して堂々としていることが、だんだんと難しくなってくる。とうとう電話をかけてみたが、呼び出し音が鳴るだけで出ない。チョコレートミントは中でいったいなにをしているのだろう。しびれを切らしたとき、玄関のドアが開いた。
サルサ家に向かって歩き始める。チョコレートミントとスムーズに合流するためであり、別れ際のミントとサルサの家人の会話を聞くためでもあったが、すぐに「失敗した」と思った。庭に出てきたのはチョコレートミントではなく、赤茶色の髪の少女だった。この子がエレン・サルサだろう。スケッチブックをわきに抱えている。素知らぬ顔をして通り過ぎる前に、ハニーは彼女と目が合ってしまった。そのまま門の前に差しかかる。
「こんにちは」ハニーは声をかけた。
「ハーイ」とエレン。
「サルサさんちはここ?」
「そうよ。お兄ちゃんに会いに来たの?」
「え?」
お父さんかお母さんはいるかという質問を用意していたハニーは驚いた。
「就職カウンセラーの人でしょ」エレンは眉をひそめた。「違うの?」
「違わないよ」ハニーはガス管の点検業者に扮するという計画を即座に捨てた。「当てられてびっくりしただけ」
「見くびらないでよね」浅くため息をつきながらエレンは言った。おとなしそうだが頭のいい子供という印象だ。「入ってちょうだい」
門を開けてくれた。少女の後について、芝生を両断する白い石の道を踏んで玄関にたどり着く。一軒家と庭というのはやはり古き良き家庭の夢だ。芝生はやや荒れているものの、土のついたシャベルと木の苗がすみっこに放り出してあり、近々手入れしようとする意思が見てとれる。
玄関でエレンは「ママー!」と大声を出したが、返事はなかった。入ってすぐのところに階段があり、リビングはすこし奥のようだ。棚の上には家族写真がたくさん飾られている。老女がひとりで写っている写真の前に、小さな花瓶が置かれ、しおれた花が刺さっていた。ヘザー・サルサはすでに亡くなっているのかもしれないとハニーは思った。
さて、運よく家に入ることができたが、ここから先はいちかばちかだ。二年前のデータではサルサ家の長男は無職だった。まだ職を得ていないのなら、就職カウンセラーとやらのやることはいくつか思い浮かべられる。
「お兄ちゃんは二階だよ。あなたに会うかはわからないけど」
「彼には会えない?」
「家族にも会おうとしない人が、見ず知らずの他人と会おうとするとは考えにくいと思わない?」
兄のビルは引きこもりらしい。「お兄さんに最後に会ったのはいつ?」
「わかんない」エレンは耳の下で髪の毛をひねり回しながら言った。「前はたまにしゃべってたけど、最近は全然。もう一か月くらいは顔も見てないかも。そろそろ声も忘れそうだわ」
廊下の奥で人影が動き、ハニーはぱっとそちらに目をやった。相手もこちらを見るなり声を上げる。「だれだおまえは!」
「パパ」エレンがハニーの腰を押しのけて前に出る。「カウンセラーの人だよ」
「カウンセラー?」
影になっていた廊下から出てきてくれたおかげで、男の姿が徐々にあらわになった。前髪がだいぶ後退して、疲れた印象を隠し切れない中肉の男がハニーを見て小さな目をしばたいた。
「就職カウンセラーのワトニーです」ハニーはすかさず偽名を名乗った。「息子さんのことで参りました」
「ああ……NYCC市の……」男はつぶやいた。明るいところで見ると日焼けしているのがわかった。ラリー・サルサに違いない。「電話してから来るように、前の人には伝えたつもりでしたが……」
どうやらうまいことに、担当者が変わるタイミングだったようだ。はあ、すいません、などと適当な返事でお茶をにごすと、父親もまた「息子がお会いできるかはわかりませんが」と断ったあとで不承不承、ハニーをリビングに通した。お役所はこれだから、とつぶやく声が聞こえる。
リビングでは中年の女性がいすから立ち上がるところだった。「ジョージーナ」とラリーが声をかける。「就職カウンセラーの方が来てくれた。ワトニーさん、妻だ」
まあこれはどうも、と返すジョージーナ・サルサは、どこかぼんやりとした目をしていた。顔色もあまりよくない。「どうぞ座って。コーヒーを入れますね」
「エレン、テーブルの片づけを手伝いなさい」とラリー。
エレンは素直に働き始めた。テーブルに出ていたコーヒーセットを運んで行くのを見て、ハニーは背にうすら寒いものを感じた。カップは三つだった。手つかずのスティックシュガー。エレンはブラックを飲まないだろう。ラリーと、ジョージーナと、あとひとり。一家の父親は平然といすに座り、席をすすめてくる。
チョコレートミントはどこへ行ったんだ?
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