チョコレートミントは眠らない④
丸々二週間を、ハニーは女の尾行に費やした。
朝起きると、軽くストレッチをして、指先をほぐし、足を着け、動作のチェックをする。朝食を取りに行く。ホテルで取ることもあるし、外に出ることもある。それから女を探しに行く。ファッジに発信器をもらってから、ぐっと楽になった。女のバッグに滑り込ませてある。
行動を見張り、立ち寄る店と時間帯をメモしていく。彼女が喫茶店や劇場などに居座り始めるタイミングでいったん離脱し、自分の食事や休憩を済ませる。ホテルを変えるときはその手続きもする。夜中、眠らない女は遊びまわるかネットカフェでじっとしているかどちらかの行動をとるので、それを見極めてから引き上げる。女が夜を徹して動くときはできる限り尾行を続けた。
NYCC中を特に決まりもなくふらふらしている女を定点から狙撃するのは難しい。それでも、十四日間の中で見えてくる行動パターンがある。その中で最善の位置を決める。
それがブロードウェイ沿いのとあるビルだ。テナントが撤退した十二階から狙える距離に、彼女がよく立ち寄る人気のベーグル屋がある。
「標的が次そこに行ったら決行する」
「立ち寄らなかったらどうする」
「絶対行く」ハニーは断言した。「二週間で四回もあの店のチョコベーグルを食べてる。ポイントカードを持っていて、あと少しでポイントがいっぱいになる。ポイントがたまると、店のロゴの入ったトートバッグがもらえる。それを狙っているらしい」
「もらえずに死ぬなんてかわいそうだなあ」
「あんたが殺せって言ったんだろ」
「それはそれ、これはこれ。じゃ、
電話を切り、部屋着にしているTシャツとハーフパンツに着替え、ハニーはベッドにひっくり返った。
首からかけたチェーンを引っ張り出す。認識票が下がっていた鎖だ。今はロケットを着けている。それをしばらくながめ、服の中に戻した。もうすぐ新しい仕事と生活が手に入る。あの戦火の星から遠く離れて。ひとりでに笑いが漏れる。ずいぶんと感傷的になったものだ。戦場働きをしていたころ、いやその前からかもしれない、なによりもそういうものからは縁遠かった。それがどうだ、今や感傷にすがることだけが、生きている意味であり目的だ。友人の形見を肌身離さず持つことと、感情にまかせて泣いたり怒ったりすることにどんな違いがある?
「ないでしょうね」と友人は言うだろう。「でも、それが人間の正常なあり方でしょう?」
思考を打ち切って、ハニーは体を起こした。これ以上、いない友人と仮想の話を続けるのは不毛だ。こんなのは、ただの、空想にすぎない。あいつならこう話してくれるという、勝手な思い込みでしかない。
なんとなくテレビをつけると、ニュース番組をやっていた。「NYCC市でまた“ビター”騒ぎです。午後四時ごろ、ウォールストリートで黒い怪物が暴れる事件がありました」
壊れた車や亀裂の入った道路が映し出される。きつい印象の女性リポーターが目撃者に話を聞いている。
「この謎の生命体は、NYCC市在住の四十代女性の体を乗っ取り、今日もけが人十六名という被害を出しました。ビターは二十分ほど暴れた後、ふいに姿を消したとのことです。事件に伴い、NYCC市警は一帯を封鎖しましたが、先ほど解除され、渋滞は緩和に向かっています」
ニュースは次の話題(車のリコール)に移った。こんなもんかとハニーは思った。奇妙な怪物だろうが、危ない宇宙人だろうが、市民にとってはもう目新しくない事象なのだろう。ハリケーンや火山の噴火みたいに。しばらくチャンネルをそのままにしていたが、ビター関連のことはそれ以上流れないようだった。
まだ夕食には早い時間だった。ルームサービスのメニュー表を開いたが、ざっと見てまた閉じる。ため息が出た。なにか飲もうと腰を上げる。部屋に備え付けのポットでインスタントのコーヒーを入れ、一口飲んだとたんに、意識が遠のいた。しまったと思う暇もなかった。
昏倒したハニーが次に目を開けたのは夜中の八時だった。カーテンの隙間から見える窓の外がもうすっかり暗く、かがやくネオンが起きたばかりの脳みそにしんどい。
右手と左手がそれぞれベッドの頭に手錠でつながれていた。取り乱す必要はない、ベッドに縛り付けられるのは初めてじゃない。さんざん病院で経験済みだ。そう思えば、強い薬を飲んだとき特有の頭の重みも気にするほどのものではない。ヘッドボードに背中を預け、両足を投げ出す形で座っている。そこで足のほうにだれか立っているのに気づいた。
近くで見て初めて、今日着ていた服は、銀行強盗の日にデパートで買ったワンピースだったのだとわかった。
「わ、起きちゃった」と眠らない女が言った。
女の手にレンチが握られているのを見て、ハニーは無抵抗のまま殴り殺される自分の姿を想像したが、彼女は今すぐそうする気はないようだった。
「ハァイ」女が軽くあいさつした。「前にも会ったよね?」
女の顔を無言で見返す。
「悪いけど、あなたが何者かわかるまで、こうさせてもらうね」女はレンチを軽く振ってヘッドボードを指した。
肩をすくめたかったが、両腕を上げている状態では難しかった。おまえこそ何者だと言いたいところだ。「どうしてここがわかった」
「あたしのこと尾行してたでしょ」それだけでは不足だと気付いたのか、女はさらに説明を加えた。「最初に発信器に気付いたの。一週間くらい前かなあ。えーと……知り合いに発信器の逆探知ができる人がいて、そしたらこのあたりのホテルにあちこち泊まってる人だってわかって……その知り合いに頼んで、あなたが部屋にいない間にコーヒーに仕掛けをしてもらったの。ポットが使われたらあたしに連絡が来る仕組みもね」
――ほんとに何者なんだこの女は……。
「で、お兄さんだれ? 銀行のときにあたしにひとめぼれしちゃった?」
そのふざけたような口調から、この女には狙われる理由がちゃんとわかっているのだと確信した。こっちがどこまで知っているのか図りかねているのだ。
黙っていると、女がベッドに腰かけた。間近で顔をのぞき込んでくる。
「ただのストーカーじゃないよね? そんなに悪い人には見えないけど、お兄さんなんだか変わってるし。この足も」
ぞっとした。
レンチを持った手が義足に触れそうだ。
「足にさわるな」ハニーはうなった。「一ミリでも傷つけてみろ。ぶっ殺してやる」
「怖っ」女はぱっと立ち上がり、大げさに身ぶるいしてみせた。「そんなふうに言わなくたっていいじゃん。そもそも毎日つけまわしてきたのはそっちでしょ? 知らない男にストーカーされる女の子の気持ちがわかる?」
「自分の胸に訊いてみろってんだよ」ハニーは冷笑した。こういう事態を想定して、先輩は自分に依頼の詳細を教えなかったのだ。拷問されようが自分から出るのはせいぜい仲介業者のファッジの名前くらいだが、それにしても、最初からこんなにしくじってしまうなんて。
「ハァ?」女が怒り始める。「あたしなんにも悪いことしてないし! ひどくない? 無言電話なんかかけたりして」
「電話?」
「さっきかけてきたでしょ!」
「それはおれじゃない」と言うのと同時に、部屋のブザーが鳴らされた。ノックの音もする。
いやな予感がした。
「もう、こんなときになによ!」とドアに向かう女に、出るな、と怒鳴ったが、遅かった。
激しく短い問答ののち、まず眠らない女が後ずさりしながら現れ、次にスーツを着たドレッドヘアの男が現れた。手に拳銃を持っていた。
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