チョコレートミントは眠らない③
急ぎ足の女のあとを追って、ハニーは銀行を出た。どやどやと警備会社の連中が突入してきたどさくさにまぎれ、うまく抜け出すことができた。それは幸いだが、と新たな疑問が頭に浮かぶ。この女も治安関係者に関わりたくない? どういうわけで? まあ、殺し屋に狙われるくらいだ、と自分を納得させる。なにかしら後ろめたいことがあっても当然か。
女はデパートに入り、ファッションと雑貨、それに化粧品のフロアを周回した。下ろした金でショッピングか。あの騒ぎの中できっちりと現金を引き出しているしたたかさにハニーは舌を巻いた。靴売り場で十足くらいの靴を試したが買わずに店を出ると、向かいのカフェでドーナツを食べて一息入れる。別のビルに入り、服売り場でたっぷり三十分は悩んだ末にグレーではなくブルーのワンピースを買った。また雑貨屋に寄り、マニキュアを数本買いこみ、ほくほく顔で外に出て、一ブロック歩いた先の本屋にふらっと入り、新刊コーナーをチェック、雑誌をいくつか立ち読みして、ファッション誌と風景の写真集を買い、駅に行ってコインロッカーに戦利品を預け、街灯のつき始めた大通りを闊歩し、目についたイタリアンで夕食をとった。帰宅と思いきや、細い路地を急に曲がってひっそりと看板を出しているバーで物思いにふけりながら二杯飲み、やっと帰宅と思いきや今度は騒がしいクラブに飛び込み、大学生のパーティーに交じって踊り、その集まりが解散した後ひとりで夜の公園を散歩し、ブランコをこぎ、今度こそ帰宅と思いきやネットカフェに入り、シャワーを浴びたあとはひたすら漫画を読み続け、空が白み始めたころに腰を上げた。ベーグルの店で朝食を食べ、テイクアウトしたコーヒーを片手に大移動を始めたと思ったら映画館に吸い込まれ、二時間後に目を赤くして出てきた。早めのランチは
「なんなんだあの女は!」
ハニーは電話の向こうにかみついた。
「すまんすまん、それを説明し忘れていたな。あの女は眠らないんだ」
「へえ!」
のんきな声の調子に殺意が沸き上がる。三十時間ぶっ続けで女の買い物につき合わされて気が狂いそうだった。
「まあ落ち着けよ。なんか食べたか?」
相手が言うか言わないかのうちに、部屋のチャイムが鳴った。ウェイトレスが入ってきて、ハニーの顔におびえながらルームサービスですと言ってお盆を置いて逃げ帰る。湯気の立つヌードルがありがたい。電話をスピーカーにしてデスクに放り出し、しばらく先輩の話すがままにした。
「あの女は眠らない」彼は繰り返した。「一日中起きて行動している。たいていは好きなことをずっとしているようだ。かれこれ二か月近く、そういう生活をしている。少し前までは研究員の仕事をしていたんだが、ひまが出たようだ。なぜ眠らないのかはわからない」
わからない? と脳内で聞き返す。麺をすするので忙しい。相手はちゃんとその相槌を予想していたようだ。
「こちらとしては、特異な体質としか結論が出せない。NYCC市では最近妙なことばっかり起きてな、悪いがこういうことも飲み込んでくれ」
妙なことって? 野菜をまとめて口に入れる。
「他に言っとくとすれば、そうだな、ビターはもう見たか?」
驚く気配が伝わったのか、そのまま説明が続く。「あれは一年ほど前から出現し始めた、謎のモンスターだ。宇宙人だと言うやつも地底人だと言うやつもいる。環境の変化で突然変異したなにかだって言うやつもな。ありとあらゆる説がある――要するにまだよくわからん。突然現れ、人にまとわりついて暴れる。ビターというのは、飲まれた人が、口に入ったとき苦かったと発言したせいで、ネット上で急激に広まった名称だ。ビター・バグとか、ビター・モンスターとか呼ばれている」
咀嚼する合間に、ふうんとだけ返事をする。
「出現のタイミング、生息地、生態、なぜ人につきまとうのか、自らが暴れているのか、人を暴れさせているのか、未だ一切不明ときた。銃弾や刃物では止められない。それどころか、ゼラチン質の体をすり抜けて内部の人間にだけダメージを与えてしまう。ひと通り周辺を破壊した後どこかに消えてしまうようだ。対策が見つからないので市民は非常に困っている、という状況でな。おまえも遭遇した時は逃げることだけ考えろ」
対策がない? 眉根を寄せる。ではあの女が持っていたピストルはいったいなんなんだ? あれが銀行の武器検出装置に引っかからなかったのも、今にして思えば不思議だ。対策不能の怪物に効く武器が、脅威として認定されないとは。一方で義足はアウト――これは戦場で使われていたものだし納得はできるが。判定基準に問題があるのか、それともやはりあのおもちゃのような銃がイレギュラーなのか。
そのあたりの事情が、女が狙われる理由につながるのでは?
浮かんできた推論は放っておいて、ハニーはひたすらフォークを動かした。早く腹をふくらませてひと心地付きたいのと、殺し屋になるのに知りすぎは禁物だと先日教わったばかりだからだ。
「ところでおまえは尾行を打ち切ったわけだが、大丈夫か?」
「まあ……何度も使うカフェがあるのがわかったし。ロッカーに荷物を預けるのも確認したから、そこを張れば。あとはBBとかいうSNSのアカウントも特定した」
「それはベイカーズ・バスケットっていうNYCCの若者に人気のコミュニティだな。いや、さすがだよ。今どこ?」
「ホテル・ファラング」妥協の末に選んだ今日の寝床だった。
「なら今日はもう休んで、明日からまたよろしくな。おっと、例のやつを送ったぞ。寝る前にそれだけ受け取ってくれ。じゃ」
十分後、再びチャイムが鳴った。今度はポータードローンが、荷物が届いていると言ってスーツケースを渡してくれる。開けて思わず感嘆の声を漏らした。ぴっかぴかのスナイパーライフルがこちらを見上げて、さわってもらうのを今かと待っていた。
……優しい声がする。
「ハニー、起きてください」まどろみの中、名前を呼ばれている。「朝ですよ。起きてください」
がばっと身を起こした。
火星遠征軍第七基地の寮だ。やわらかい黄金色の光が部屋に差し込んでいる。ああ、よかった。あのクソみたいなホテルは夢だったのだ。NYCCより火星のほうがマシだなんて、おれの深層意識は奇妙だな。この部屋にも窓はないが、窓型の照明が地球の朝を再現している。その偽の朝日をあびて、友人がベッドの脇に立っていた。
「今日は装備点検の日ですよ。みんなもう起きて食堂に行きました」
「起こしてくれてありがとう」
「どういたしまして。うなされていましたよ。大丈夫ですか」
「変な夢を見た」ハニーは寝床から降りた。「おまえの足が――なんでもない。装備点検?」
「ファッジ指令が楽しみにしていたじゃありませんか。点検が終わったらバーベキューをするとかで」
そうだった。どうして忘れていたんだろう。廊下を並んで歩きながら、ハニーは首を回して凝りをほぐした。「バーベキュー初めてなんだっけ?」
「はい。みなさんの故郷ではよくやる催しだそうですね」
「催しっていうか、外で料理して外で食べるってだけのことだよ。大勢で」
「興味深い。ハニーは料理するんですか?」
「おれよりうまいやつがいっぱいいるよ。昔からおれは火おこし係とか皿配り係とかにさせられて」
「なるほど、役割分担があるんですね。わたしはなに係をすればいいんでしょうか? 心配です」
「なに係でもうまくやるだろ、おまえなら」
「そう言ってくれるのはハニーだけですよ。ところで、ハニー、あなた、足をどうしたんですか?」
「足?」と聞き返したところでガクンとつんのめった。あわてて踏み出そうとした足がなく、そのまま転ぶ。
足が!
腿の途中で無残にちぎれた両足を見て、ハニーはあえいだ。床を這い、友人の名を呼んで、見上げて息が止まりそうになった。燃えている。ドンと大きな音がして、爆風がその姿を吹き飛ばす。ばらばらになって地面に落ちる。ああ、ああ、足はどこだ? 空気が熱い。こいつを連れて逃げなければ。待ってくれ、燃えてしまう、早く拾い集めなければ。だれか来てくれ、だれかいないのか? どうして足が動かせないんだ、感覚はあるのに、こんなにも痛みが体を貫くのに! なんだ、あるじゃないか、ひざで立てるぞ、足首も曲がる。いや、これはおれのじゃない、見覚えがある、この機械の足は、これは――。
そこで目が覚めた。
暗闇の中で、ハニーは荒い息を落ち着かせようとした。両手はひざの上に置いていた。義足をつけたまま眠ってしまったのだ。時計の光る文字盤が夜明け前を示している。エアコンが静かにうめき声を上げた。
ハニーは起きだした。照明をつけ、ぬるい水をコップ一杯飲んだあと、スーツケースを開けて座り込む。中身を取り出し、狙撃銃を組み立てた。すぐに分解して、また組み立てる。バラす。時間を計ってもう一度。お粗末なタイム。もう一度。さっきより六秒早くなった。もう一度。二秒縮まる。もう一度。一秒。もう一度。もう一度。もう一度。
朝が来る前に、タイムは現役のころのそれに戻った。
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