チョコレートミントは眠らない②

 頭の後ろで手を組んだ姿勢で、待合席のやわらかいいすに座らされる。人質の過半数は銀行員だ。客は自分を含めて八人。強盗のひとりはカウンターにどっかりと腰を下ろし、もうひとりは銀行の支店長らしき男を伴って店の奥へ消えた。片方が人質を見張るあいだに片方が金を詰めるという役割分担のようだ。残った男をひそかに観察する。声質と筋肉の感じは二十代後半から三十代か……というのも、強盗たちは帽子とサングラスにサンタクロースのようなつけひげまで着けていたからだ。

 ハニーは自分の後ろに座っているだれかをひじでつついた。「ん、なに?」と返ってきた声は若い女のものだ。

「おい、これ、連続銀行強盗か」

「たぶんそうね」と女。「報道されてる犯人の特徴といっしょだもん」

「特徴って?」

「帽子、白ひげ、グラサン。ニュース見てないの?」

「今日この街に来たばかりなんだ」

「あらそう。NYCC市にようこそ。そしてお気の毒さま」

「そこ!」強盗ががなる。「おしゃべりをやめろ!」

 ハニーは口をつぐんだが、見張りが女性銀行員に近寄ってじろじろながめ始めたのをきっかけにまたささやきかけた。

「なあ、人質はどうなる?」

「あいつらに聞いてよ」

 言い換える。「報道の連続銀行強盗は、人質をどうするんだ?」

「わかんない。けが人はいたけど、死人は出てない」女は早口で続けた。「でも、今までは警察や警備が来る前に逃げてたから」

「包囲されたらどうなるかわからない」

「そう」

「さっさとお仕事が終わるのを願うしかないってことか」

「そういうこと」

 銀行強盗どもが手早く金を奪い終えるのをおとなしく待つのがベストだと、ハニーは結論を下した。相手は今分断されているので制圧できなくもなさそうだが、こちらは丸腰だ。第一、注目を浴びてしまう。流れ弾でけが人などが出るのもまずい。二人組が去り、警察が来るまでの間にそっと抜け出せればいいが。警備会社はともかくとして、警察沙汰に巻き込まれるのを避けたかった。もし殺し屋用口座を作ったことがばれでもしたら、いやその前に、殺し屋がそう簡単に国家権力の前に姿を現していいはずがない。待てよ、むしろ最後まで残るべきか。まず間違いなく、両足義足の男を銀行員は覚えている。そういえばおまわりさん、あの人がいないんです、どこに行ったんだろうなんてやられたらやっかいだ。つくづくめんどうなことになった。ハニー、あなた、ここぞというときに貧乏くじを引いてしまうようですね、と友人のおもしろがるような声がよみがえる。やっぱりわたしがついていないといけませんね。

 いけないいけない、と背筋を伸ばす。横に座る男の貧乏ゆすりに身をまかせていると、どうしても思考がはやる。右どなりのサラリーマンは汗をかき、体をふるわせて、おびえている。哀れなほどだ。それに比べて背中側の女は堂々としている。「やだ、爪が割れてる」と小声で悪態をついている。

 支店長を連れた強盗が戻ってきた。ふくらんだ大きなバッグを二つ抱えている。見張り役の男とうなずき合う様子から、女の話の通り、じきここを出ていくのだとわかった。

 ちょうどサイレンが聞こえてこなければ、そうなったはずだった。

 フロアをさっそうと横切っていった強盗たちがばたばたと引き返してくる。両腕を下げかけていた人質一同はまた両手で天をついた。

「だれだ?」強盗がわめいた。「だれが通報しやがった!」

 勝ち誇った顔を隠さなかった支店長を銃の柄で殴り、強盗は血走った眼を人質たちの上に走らせた。外からスピーカーのハウリングが聞こえ、野太い男の声が首都第一銀行セントラル支店のフロアを蹂躙した。

「こちらはセキュリティ・サービス、トーヤマ&ジョンソン社の機動捜査隊だ! 犯人に告ぐ。この銀行はすでに包囲されている。人質を解放しろ。今出てくれば命は保証する!」

 明らかに強盗たちは対話する気がなさそうだった。

 見張り役の強盗が口汚い悪態を吐き出しているのと対照的に、金を持った強盗は冷静だった。一度目を閉じてすーっと深呼吸すると、ぱちりと目を開ける。ああ、嫌な感じだ、とハニーは思った。あれは覚悟を決めた、いや、ただ単に決断を下した目だ。行き止まりから引き返して別の道を進む決断。彼らはプランAからBに移行するだけだ。より一層の度胸と引き金と、そして血を伴うプランに。

 背中側からひとり言とも取れる声がする。「ちょっと、どうすんのよ」

「うるせえぞ!」見張りが一喝した。後ろの女がビクッとしたが、彼女に向けた叱責ではなかった。ハニーは右をちらりと見た。

 くちびるからうめき声をもらす、となりの男は明らかに具合が悪かった。尋常じゃない汗の量だ。病気だろうか。おいあんた平気か、と背中に手を当てて、驚いた。冷たく、湿っていて、ぷるぷるしている。このぷるぷる触感はなんだ、と顔を上げると、男はゼリー状の物質にじわじわと包まれていくところだった。

 それが一連の奇妙な出来事の始まりだった。



 おののいた老婦人のかぼそい悲鳴が上がった。銀行員がはじかれたように立ち上がっても、客が後ずさりを始めても、強盗はなんのアクションも起こさなかった。ハニーも男から離れようとする人の輪に加わり、彼らと一緒にぽかんとしてそれを見つめた。

 ゼリーは透き通る炭色だ。男の服から湧いてくるようにも、分裂して増え続けているようにも見える。血の気の引いた顔をくるみこむと、ゼリーはすっかり男の全身を覆ってしまった。男の影がひとまわり、ふたまわりと大きくなる。体表が揺れ、てらてらと光る。彼が立ち上がると、天井に頭がつきそうになった。顔を覆うゼリーの一部ががっぽりとくぼむ。

 そいつが声なき咆哮を上げた。

「ビターだ!」という叫び声をハニーは聞き分けた。

 ゼリーの怪物が太い腕を振り回すと、六人掛けのいすが吹っ飛んで観葉植物をなぎ倒した。まともにくらった強盗が壁に激突し、ごみ箱に投げ入れ損ねた紙くずのように床に落ちる。ぶん殴られたスプリンクラーが水をまき散らし始め、その場のパニックに拍車をかけた。

 泡を食って逃げまどう人々の隙間から、床を拳銃がすべってくるのが見える。ソファを飛び越え、体を丸めて転がり怪物の足元を抜けた。銃を拾う。起き上がると同時に構えた。わけがわからなくてもこれだけはできる。火星人を殺すのと同じように、自然に胸を狙って引き金に指をかけ――そこで「だめえ!」と金切り声が上がらなかったら、引いていた。

「それじゃあだめ!」とフロアの反対側から若い女がわめいた。壁とソファのあいだにはさまれている。「中の人が死ぬの!」

 ハニーは体を沈め、怪物の振り向きざまの一撃をよけた。「他にどうしろって言うんだよ!」

「これ!」

 女はハンドバッグに手を突っ込み、なにかをつかんで投げてよこした。

 キャッチする――銃の形だ――軽い! グリップを握り――再び怪物に向け――それがなにかもわからないまま――撃った。

 怪物が動きを止めた。

 息もできない数秒間の末、男を覆っていた炭色のゼリーが溶けた。水で泡を洗い流すように、ぽちゃぽちゃと床に落ちる。固く目を閉じた男が、がっくりとひざをついて倒れ込んだ。

 静寂にサイレンの音だけが浮いていた。

 救急車を、と銀行員が声を発したのを機に、人々はいっせいに行動を始めた。気絶した強盗たちを拘束するもの、けが人に手を貸すもの、自分の荷物を探すもの、倒れた植木鉢を起こすもの。

 ハニーは動かなかった。ひとつの感覚に気を取られていた。それは匂いだった。男を撃った後に立ちのぼった、強烈と言ってもいいほどの、甘い匂いだ。

「ありがと」という声にはっとした。若い女が目の前に立って、にっこりとほほえんでいる。「それ、返してくれる?」

 背中合わせになっていた女だ。

 ハニーはその銃を返した。改めて見ても、おもちゃの銃にしか見えなかった。ポップな色をしたプラスチックのピストルだ。なぜこいつで怪物を止められたのか、あの化け物はなんなのか、この銃でいったいなにを打ち出したのか、そういう疑問を全部後回しにできるほどの理由が女の顔にはあった。

「あたしの顔になにかついてる?」と女。

「髪に大きいほこりが」ハニーは正直に教えた。

「うそ」女が髪をはらう。大きな目にコケティッシュな口元。

 ハニーは標的の頭についたほこりを取ってやった。髪型が変わっているが、間違いない。この女だ。

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