第1話 運命が動くとき
恨み、嫉み、憎悪……この世のすべての悪意を向けられて俺は生まれた。
ただ生きているそれだけで悪意を向けられ誰一人助けてくれる者などいなかった。
害意を持つ多くの者たちから自分を守り生きていくには手段など選んでいられない、そのために泥水さえ啜った。
俗世と隔てられた俺の世界は日に日に色を失い俺の元には薄汚れた着物だけが残った。
砂を噛むような日々はすべてがどうでもよくて、今日もまた目を覚ました自分の体をひどく憎く思った。
◇◇◇
ここは神に近しい大妖怪の妖狐が守る里だ。
大きな屋敷はその力を示すかのようにどこも隙なく磨き上げられ見る者が見れば神をまつり上げる大社にも見えるだろう。
そんなひと際贅を尽くした屋敷の片隅にすべての者から忘れ去られたような小さな蔵があった。
蔵の壁は所々ひび割れており、太陽の日が燦々と降り注ぐ刻でもじっとり暗く湿った空気が漂う。
蔵の入り口には大きな錆びた錠前が1つかけられており、普段から屋敷の者の出入りがないようだと分かる。
そんな誰も近寄らず忘れられた蔵の中で月天は生まれ育った。
月天の母は純血の妖狐だったが生まれつき誰よりも妖力が弱く外見も妖狐とは思えぬ黒髪に黒い瞳と人間のような風貌をしていた。
しかしある日、女の元に里の当主の使いが来て当主の側室として召上げると言い屋敷へと連れて行った。
すでに多くの妻を迎えていた当主は女を孕ませると、遊び終えた人形を捨てるかのように女に興味を示さなくなった。
悪意と敵意にまみれた屋敷の中で女は生きていけず、逃れるように屋敷の隅にある古びた蔵の中へと身を置くようになる。
屋敷の女たちの悪意は留まることを知らずついに女はたった一人、暗く寂しい蔵の中で子を産んだ。
子が生まれた日は蔵の小さな窓からも煌々と月の光が差し込む満月の美しい夜だった。
女は子を産むと蔵の中で息を引き取った。
女が残した子の名は月天といった。
姿は女に瓜二で黒い髪に黒い瞳と妖狐らしからぬ風貌をし、本来当主の血脈により受け継ぐはずの妖力や神通力を引き継がず忌避されて育った。
しかし、成長とともに容姿は見た者が息をのむほど美しく整い人間でいう5歳ほどになるころにはその容姿を使って屋敷の女たちを誑し込むほど成長した。
◇◇◇
屋敷の敷地の隅にある小さな蔵に女中が一人こそこそと辺りを気にした様子で近づいていく。
女はあたりに誰もいないことを確認すると蔵の鍵を開けて中へと姿を消す。
「あぁ……玉枝さん、来てくれたのですね」
蔵の中には見目麗しい姿をした童子姿の月天がいた。
「屋敷の者には内緒ですよ」
女はそう言うと新しい衣や食べ物、書物をいくつか蔵の中にある物入にしまい込んだ。
そんな女の側に月天は近寄り女の腰辺りに抱き着いて喜ぶそぶりを見せる。
女は月天の可愛さに心を奪われついつい余計なことを口走る。
「明日から屋敷に鬼の一族のご当主とそのご子息様がいらっしゃるようだから、蔵から出ないほうがいいわよ」
「鬼の一族って、何をしに屋敷に来るのですか?」
月天は幼子特有の透き通る裏表のないような瞳を女に向けて問いかける。
女は本来であれば話すべきではないことまでついつい口をすべらせる。
「なんでも、鬼のご当主様の跡取り息子の神通力を高めるために七妖参りをするためにしばらく滞在するそうよ」
女は少しばかり話過ぎたと思ったのか、話し終えると月天の頭をなでて蔵を後にした。
◇◇◇
豪華な牛車が二台お供の者を連れ上の国の中でも屈指の力を持つ妖狐の里へと入っていく。
その様は大名行列のごとく道行く者の視線を集める。
牛車と言っても牛が引いているのではなく引くのは牛鬼だ、妖怪の中でも高位にあたる牛鬼をこのように従える者と言えば鬼の里を修めるご当主以外にいないだろう。
それを見た者たちは表情をこわばらせ頭を垂れ道を開ける。
牛車はその威厳を見せつけるかのようにゆったりと進み一つの大きな屋敷の前で止まる。
牛車が止まると先ぶれの者が目の前にある屋敷から出てきて何やら話している。
少しすると屋敷の中から十数名ほどの従者と思われる妖狐が出てきた、さらにそれに続くように一人明らかに他の妖狐とは雰囲気の異なる黒狐の半面をつけた男が現れる。
男は先頭の牛車の近くまで来ると頭を下げ何やら話しかける。
「この度ははるばる妖狐の里まで来ていただきありがとうございます。ここからは当主の側使えである私めがご案内させていただきます」
男がそう告げると、牛車から一人の男が降りる。
男が降りると周りの空気がひどく歪んだように感じるほど圧倒的な妖気を感じさせた。
男は頭を下げる黒狐面の男を一瞥すると屋敷の方へ足を向けた。
黒狐面の男は妖狐の屋敷の従者に何やら耳打ちするとそのまま鬼の当主を屋敷内へと案内して姿を消した。
残された行列に参加していた者たちは鬼の当主の荷を運び込む。
黒狐の面の男と鬼の当主が屋敷へと入っていくともう一つの牛車に屋敷の者が何やら話しかける。
それに応えるように牛車から出てきたのは見目麗しい二人の童子だ。
一人はまるで生き血を硝子球に押し込めたような暗く深い緋色の目をしている。
もう一人の方は似た容貌をしているが瞳の色が淡く、その色は生き物の血を吸い上げて咲くと言われている狂桜のような薄紅色だ。
括袴に水干という姿からどうやらこの二人が鬼の当主が連れてきたご子息に間違いないだろう。
童子二人をいざなうように従者は屋敷へと足を向け、二人はその後を無言のままついていった。
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