大学時代のぼく?
「もう少しね……」
アキサは電車の窓から見える、日没の空を眺めている。
子供みたいに座席に膝をのせて、窓の縁に身を乗り出していて、普段よりもはしゃいでいるように見えたのに、急に静かになってそんなことを言ったのだ。
「なにが?」
「こっちの話」
夕刻、ぼくとアキサを乗せたゆりかもめ線のモノレールは、お台場の方向に走っていた。
お台場――なんて誰かが話しているのを耳にしたぐらいで、何があるかなんて全く知らない。夜景が綺麗、とかだろうか?
午前中の講義が終わってすぐに、観覧車に乗りたい、とアキサが携帯に連絡してきたのがきっかけだった。
普段とは違う車内の雰囲気にぼくは緊張していた。そんな中で、アキサは涼しい顔で外を眺めている。
沈黙のひと時だった。
付き合って五年近く経つ。
たまに彼女のおかしな行動に振り回されることもあるけど、喧嘩らしい喧嘩もしたことが無かった。
順調な付き合いなんだと思う。たぶん……。
「若いころってよく相手の人の振る舞いとかに目を光らせたりしたのよ」
アキサは窓の外をぼんやりと眺めながら言った。
彼女にとって大学生ってのは若くないんだろうか。ふと浮かんだ疑問を口にする前に、アキサは続きを話しはじめていた。
「また携帯見てる、とか。今、違う女のこと見てたでしょー、とか。私にとっては日常会のつもりだったんだけど、よくそれで相手を怒らせて喧嘩してた。
なにもかも馬鹿らしくなって……気づいたらもう別れる決心がついてるの。いつもそんな感じで長続きしないのよね」
アキサは自嘲気味にわらう。
無意識にポケット越しに自分の携帯に触れた。今も、ぼくは試されてるんだろうか。外の景色に夢中な彼女からは、そんな様子は見受けられない。
「ぼくらは、全然喧嘩しないよね?」
不安から出た言葉だった。今の彼女も、何かを我慢して、ぼくの恋人なんて状況に甘んじているんじゃないかと思ったからだ。
「タケルは全然そんなことないよ!」
不安は筒抜けだったらしく、彼女は笑みを浮かべてぼくに振り返った。
「タケルと付き合ってた頃が一番楽しかったの! キミはいつも私のことみてくれてたし、私に嫌われないように頑張ってるのがわかったから――」
アキサの表情が、突然曇る。
「だからその分、あの映画での初デートは残念だった……」
映画……。
「初デートは水族館だったはずだけど」
不意にアキサがぼくの肩に寄りかかってくる。そのままぼくに顔を寄せて、やわらかい微笑を浮かべた。
その表情があまりにも魅惑的で、思わず恥ずかしくて目を背けてしまう。
「そういう人、そのあとに出会った人のなかには一人もいなかった」
反対側の窓、ちょうど海の上を走るゆりかもめからは、水平線に浮かぶボートの群が見えた。
夕焼けが海を、真っ赤に照らしている。
「だからやり直すならさ、タケルがいいなって思ったの」
アキサの言ってる意味が、上手く呑み込めなかった。
でもそれ以上、彼女が続きを話すことは無かった。
ゆりかもめが目的地に到着するまで、ぼくと彼女はずっと黙っていた。
東京テレポート駅についてすぐ、少し離れた場所にあるバレットタワーの大観覧車が目に入った。
彼女は目を輝かせてそちらに歩き出したので、ぼくも置いていかれないように後を追った。
彼女は、ぼくの恋人だ。
紛れもない事実である。
でも、ふとした瞬間、その姿が泡のようになって消えてしまうようにも思えた。
事実なのに、実感がないのだ。
長い間付き合ってきた恋人なのに、手を握ったことだってあまりないように思う。
「どうしたの? いこうよ」
少し先を歩いていた彼女が振り返る。
ネオンが灯りはじめた町の情景をバックに、その大きな瞳が爛々と輝いて見えた。
ぼくはその瞳に吸いよされるように、ゆっくりと足を踏み出そうとした。
その時、いきなり足に重さを感じて立ち止まる。
ぐっと地面に押さえつけられるような負荷かかかって、ぼくは停止せざる得なくなった。
脚にくっ付いてきたそれは、とても幼い女の子だった。
「なに……?」
その小さな頭に声をかけると、女の子は泣きそうな目をこちらに向けた。
足を掴む手にさらに力を入る。
突然のことで頭が混乱する。
凄く、小さな子だ。今年5歳になる妹よりは辛うじて年上だということはわかる。近くに母親の姿が無いか見回したが、彼女一人だけのようだ。
迷子か何かだろうか?
「どうしたの?」
アキサが女の子に気づいて戻ってきた。
置いていかれなかったことにほっとしたが、女の子はぼくの足を抱きしめたまま離れない。そのままアキサから隠れるようにぼくの背後に回り込んだ。
「タケルさん……」
女の子が、ぼくにしか聞こえないような小さな声で囁いた。
「過去の女とあたし、どっちをとるの?」
頭上を見上げた彼女と、視線が交差する。そのとき、彼女の目の下にある小さなほくろに気づいた。特徴的な泣きぼくろだ。
涙目で何かを訴える彼女の表情が、そのときやっと、記憶にある誰かと重なったような気がした。
その誰かとは、まだ出会ったことが無いはずなのに。
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