第29話 イリュージョン


 会社を出る頃には日は落ちていて、あたりは暗くなりはじめていた。

 そんな薄暗い空を見上げて、大きなため息を吐く。


 その後の作業は滞りなく済み、無事に野木の案件の問題は解決した。

 渡利から問い合わせのあった件についても、事実を洗えばそこまで致命的なものでもなかった。

 ただ客先と渡利が電話で揉めたらしく、説明をするために色々と過去の資料をあさる羽目になった。

 初めから知っている人間がやればそれほど難しい対応は必要なかった。

 渡利が客先との会話で問題を重大化させ、現場を混乱させただけだ。


 そのしりぬぐいをした僕に、あいつは「よくやった」と言い放っただけだ。

 自分がしでかしたことなんて考えちゃいない。


 幾分か早い帰宅ではあったけど、やっぱり平日仕事をするよりもどっと疲れた気がする。

 そんな暗澹あんたんたる気持ちで最寄り駅に向かっていると、見覚えのある人影を見かける。


「どうも」


 その人影は僕を見つけると深く頭を下げた。

 夕霧理だった。

 駅周辺はネオンの光で昼間のように明るかったけど、彼女の周囲は薄暗くて、すぐそばに近づくまで気づかなかった。


「こんなところで何してるの……?」

「タケルさんをまってました」

「そんな恰好で補導されるよ。早く帰りなよ」


 そう言って、彼女の横を通り過ぎようとする。

 今にもパトロール中の警察が駆け寄ってくるんじゃないかと、気が気ではなかったのだ。

 ところがそんな僕の手を、あろうことか彼女は掴んで引き留めた。


「待ってください」

「……」


 まさか、この前の件の腹いせだろうか。僕を警察に突き出すのが目的?

 仕事の疲れもあって、頭が回らない。


「お父さん、近くにいるんで大丈夫です」


 それは大丈夫とは言わない。


「お父さんに勘違いされるよ……」

「紹介しますよ?」

「冗談きつい……」


 僕の腕をがっしりとつかんでいる彼女の指を、ゆっくりと外していく。夕霧さんは最後まで抵抗していたけど、最後の指を外すことに成功し、「それじゃ」と言ってその場を去ろうとした。


「お父さん、警察官なんですよ」


 逃げようとした足が止まる。


「もうすぐ仕事が終わるらしいので、ついでにここで待ってるんです。電話したらもっと早く来てくれるかな?」


 無視して歩き出そうとしたが、不意に頬に冷たい何かを当てられた。

 冷たいペットボトルのコーヒーだった。


「お話し相手になってくださいよ。悪いようにはしませんから」


 その時初めて、彼女の顔を視野に入れた。最初に会った時のような清楚で大人びた雰囲気はどこにもなかった。

 化粧した顔に、長いまつげ、長袖のパーカーの下には露出の激しい英字のシャツを着ていて、目のやり場に困る。両耳にある銀色のピアスだけが、以前と同じだ。

 年相応の彼女のやんちゃな部分を如実に表しているように見えた。端的に言えばギャルだ。多分僕が一番苦手なタイプ。


「……なんか、印象変わったね」

「派手にフラれちゃいましたからね」

「やけくそってわけ? 非行に走った娘を見ている気分だよ……」


 ため息交じりに言うと、彼女はクスリとした。


「幻滅しました?」

「幻滅ってほど君のことしらないよ……」


 そう指摘すると、彼女は楽しそうに笑った。


「そもそも元々こういう恰好なんですよ。あの日はたまたまオール明けで寝不足で、お化粧もしてなかっただけです」


 あの日とは、多分はじめて彼女と会った満員電車でのことだろう。


「次に会った時も割と落ち着いた服装だったと思ったけど」

「あれは、勝負に負けそうだったので、攻めに出たんです」

「僕のどこがいいわけ……?」


 まったく理解できないのはそこである。

 そもそも、電車でたまたま手を貸しただけの男だ。


「その認識は甘いですよタケルさん!」


 すると彼女はなにやら口調を強めて人差し指を僕に突き付けてくる。


「あたしくらいのJKは、ちょっとしたイベントで簡単に惚れちゃうんですよ。あ、いいなぁ、なんて思ったら次の瞬間はもうその人と頭の中でデートしてます」

「もう付き合う気でいるのもすごいな」


 でも、そういう感情の在り方は、わからないでもなかった。

 中学時代のアキサだって、僕を好きになった理由が『走ってる姿がかっこよかった』なんていうしょうもないものだった。女とはよくわからない生き物なのである。


「だけどそういうのは、長続きはしないだろ」


 そういう惚れ方をしても、すぐに中身を知れば我に返る。

 若いころの恋愛っていうのはそれぐらい移り気だと思う。夕霧さんにも心当たりがあるのか、心外そうな顔はしていなかった。


「たしかに、そういうところもありますよね。女の子って」


 なに他人事のように言ってる。


「でもタケルさんとはそれだけじゃないですよ」


 彼女は器用に片目だけをつぶって僕に笑いかけてきた。


「最初はからかうつもりで関わったんですけど、普通に中身も好きになっていったんです」

「どこに惚れたんだよ」


 信じられたものじゃない。僕は強い口調でたずねた。


「なんか反応が初心なおっさんだなぁって思って、それが楽しかったんですよ」


 まるで過去のことを話しているような言い方だった。

 何かを思い出すように、目を細めて――僕の思い込みかもしれないけれど――うっとりしているように見えた。


「普通の人とは違って、なんか全然、エロい目で見てくれなかったのもポイント高かったし」


 なんの話だ。


「そうかよ。満足したか? 僕はそろそろ家に帰るぞ」


 強引に話を中断して、手元にあったコーヒーを飲み干した。


 その場を去ることに決めた。もう決めたんだ。

 今日は祭日、明日は仕事! 子供の戯れに付き合えるほど僕も暇じゃないんだ。


「……」


 しかし、当然だけど、夕霧さんは僕を服の袖をしっかり握りしめているので、まあ逃げることが叶わない。

 どうやら本気で解放する気がないらしい。


「タケルさんって、その年になっても童貞でしょ?」

「……急になに?」


 童貞に童貞とか、なんてひどいことを言うんだろう……。


「私が初めてだって言ってましたし」


 どうやらとんでもない言いがかりをつけて、僕を貶めるつもりらしい……。

 平静を装いつつ応えた。


「生憎そんな会話をした覚えはないけどな……」

「でしょうね。だって未来の話だし」


 またおかしなことを言い出す。

 僕はため息を吐いて彼女に向き直った。


「もしかしてアキサと組んで僕をだまそうとしてる?」


 降って湧いた思い付きだった。

 でも、口にしてみるとそれなりにしっくりくる。記憶の混乱については未だに説明はつけられないけど、アキサと夕霧さんが僕に接触してきた理由としては騙す以外の目的が無いように思えた。僕をだまして何が手に入るんだって感じだけど。


「ちょっとまってください。今、アキサって言いました?」


 ところが夕霧さんは妙なあげ足をとってきた。


「つい先週までは水戸瀬って呼んでましたよね?」

「え?」


 そうだっただろうか。

 僕の中では彼女のことを『アキサ』と呼ぶのは普通のことだった。

 でも……言われてみれば、妙な違和感が湧きあがってくる。

 彼女のことを下の名前で呼び捨てなんて、つい先週までは声に出していないような気がする。

 考えに浸っていると、夕霧さんが下からにゅっと顔を乗り出してきて、こちらの顔を覗き込んだ。なにやら品定めするように、僕の足元から頭の先まで見つめてくる。

 くすぐったくなる視線だった。


「タケルさん、もしかして、あの女と寝ましたか……?」

「え?」

「セックスしたのかと聞いてるんです!」

「急に何!?」


 公共の場で話す内容じゃないぞ。

 あたりを思わず見回すが、幸い僕たちの会話に耳を傾ける人はいなかった。


「……いや、してない」


 小声で返答する。

 少なくともそんな濃密な記憶はない。

 どこかに二人で出かけたり、それなりに悩みを打ち明けたりもしたけど、そこまで深い仲には進展しなかったように思う。

 夕霧さんは一瞬ほっとしたように肩を落とすが、すぐにキッと僕の顔を睨んできた。


「で、水戸瀬って人とまだ付き合ってるんですか?」

「え? いや……大学の頃に別れたと思ったけど……」


 それも混濁した記憶の断片なので、信じていいのかは自信がなかった。


「また延びてる。あの人何回も戻ってタケルさんをたぶらかしてるんだ……」


 長い爪を加えながら、悔しそうな顔をする夕霧さん。


「戻ってたぶらかすって……」


 まるで彼女が時間遡行でもしてるような言い回しである。

 時間遡行――自分で考えても荒唐無稽だとは思うが……、知覚できない方法で、自分の心が操作されているような気配は感じている。

 それは些細な違和感だけれど……。


「意識できない間に、自分が変わっていくって、怖くないですか?」


 夕霧さんのその言葉に、心の中を読まれたようでドキリとする。


「タケルさんは、本来の人生で幸せになるべきなんです」

「本来のって……?」

「私とのこれからの未来の話です。だって、あんな人の介入なんかなくっても、タケルさんはこれからあたしと幸せになれたんですから」


 夕霧さんは胸に手を当て、私を見て! と言わんばかりに顔をぐっと近づいてくる。


「どうでもいいことだけど、その見た目で敬語は似合わないね……」


 本当にどうでもいいことを声に出していた。



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