第28話 アキサ
祭日、オフィスに入ったとき、普段のような窮屈さを感じなかった。
多分、オフィスにいるのが僕ともう一人の彼だけだからだろう。
五月蠅い上司がいないだけで、いつものような、胃になにかが這いまわるような気持ち悪さがない。
休日出社という苦行においては、幸いなことだった。
「た、助かります先輩」
いち早くこちらに駆け寄ってきた野木は、僕の顔をみてほっと胸をなでおろしていた。
「なんかトラブったんだってね」
朝早くに野木から連絡があった。
彼を請け負っている案件で、今日のために非稼働中にしていたシステムへのリリース作業が行われたそうだ。その際にバグが発覚したというのが、事前に教えられていた説明だった。
「これです」
資料を手渡された。そこに目を通すと、障害内容が詳細に記されている。
すでに原因はわかっていて報告書も綺麗にまとめ上げられている。さすがだね、と僕は彼の肩を叩いた。
「でも、再試験の規模が大きくて……」
「二人でやれば終わるよ。使えるデスクを教えて」
普段とは違う座席に置かれたノートPCを起動する。
立ち上がりを待っていると、すぐ隣に座った野木が申し訳なさそうに言った。
「せっかくの休日なのに、すみません。今日とか、こっちきて大丈夫だったんですか?」
「うん、大丈夫」
特に用事もなく、寝て過ごす予定だった。それにこんなことには慣れっこだ。
当事者でないというだけで幾分か心にも余裕がある。むしろ当事者である野木の方はこういうことは初めてなのか、妙に焦っているように見えた。
普段は生意気な野木が、なんだか小動物みたいにおびえているのが可笑しかった。
「急な呼び出しに来てくれるメンバーがいなくて、来ていただいて助かりました」
「気にしなくていい。僕が手伝って終わると思ったから来たんだ」
「……あはは、終わらなかったら来てくれなかったんですね」
そんなことはないけど、多分やり方は変わっていたかもしれない。
「終わらない見積もりなら客先にエスカレーションするべきだよ。どうせ終わらないなら無理して成果物仕上げても品質は落ちるだろ? それだったら期限を延ばせるよう説得する方が今後動きやすいしね」
「それだと上司が文句言いませんか……?」
「言うね。でも気にしにないけど」
僕は笑いながら言った。
「笑い事じゃないですよ」
「深刻なことほど、笑い飛ばしてやるくらいがいいんだよ」
僕はそうやって今まで、つらいことを凌いできた。
「それよりヘタなもの納品して客の信頼落とすのが問題だと、僕は思うんだけどね……」
あまりそういう意図に、会社の人たちは気づいてくれない。
まあ、分かってくれるなんて期待はもうずいぶん前にあきらめているので、特に思うところはなかった。
「終わらせます。絶対」
野木が力強く返事をした。
「やる気になってくれたみたいでよかった」
雑談をしている間に、パソコンが立ち上がった。
ここからはしばらく集中しなければならない。一度深呼吸をしてから、僕はパソコンに向かって手を動かしはじめた。
しばし二人きりの静かなオフィスに、キーボードを叩く音だけが響いていた。
百件近い試験書を起こして、一つ一つ画面キャプチャ―を取りながら証跡を残していく。
おかしな挙動を見つけたらコメントを残して、その結果を野木に渡す。
そんな単調な作業を延々と繰り返す。
「そういえば、ずいぶん前ですけど」
昼を過ぎてしばらくしたあたりで、伸びをしていた僕に野木が話しかけてきた。
「すごい美人と一緒に飲んでましたよね、六条さん」
「……っ」
何も飲んでないのに吹き出しそうになる。
「い、いつの話だ……?」
「ほら、あれですよ。俺が合コンに誘った日です」
「ああー」
エレベーターで野木と鉢合わせた日のことだと、すぐに察した。
アキサと久しぶりに再会して、晩酌した日だ。
「あの人とはその後どうなったんですか?」
思い起こせば、あれから二ヵ月近い時間が流れていた。
アキサとは、今でも連絡を取っているけど――
「どうもしないよ」
特に僕らの関係に変化はない。
「あれって、六条さんの恋人ってわけじゃないんですか?」
「いやちがう、元恋人だよ……」
「え?」
なぜか野木が驚いた顔をした。
「もしかして、中学の時に付き合って一週間でフラれたっていう……」
「……一週間?」
そんなの、付き合ってるとは言えないだろ。
何言ってんだ? という風に一蹴するところだ。
だって僕とアキサは――
「大学あがっても付き合ってたはずなんだが……」
「へっ?」
彼はさっきよりも素っ頓狂な声を上げる。
「いや、前に昼飯おごってもらったときは、一週間でフラれたって言ってた気がしますけど……」
おかしいなぁ、と腑に落ちない顔で頭をかいている。
笑って聞き流してもいい会話だと、僕はそう思ってた。
でもなぜか、一週間と言われた時、胸のあたりがぞくっとして、気味の悪い感覚に襲われた。いや、それすらも気のせいと呼べるくらいに些細なものだったのだが。
「あーでも聞き間違いだったかもしれないっす。俺もそこまでまじめに聞いてたわけじゃなかったんで」
「……最近、物忘れが激しいんだ」
「大丈夫っすか? まだ若いんだから、しっかりしてくださいよ~?」
「ああ、そうだね……」
気づいたら、キーボードを叩く手の動きが止まっていた。
画面に映るテストケースの項目に、無意識に一週間という文字を打ち込んでいた。
「でも元ってことは別れちゃったんですか? あんな美人だったのに、もったいない。なにやらかしたんすか」
「なんだっけ……。よく覚えてない」
「本当に、大丈夫っすか……?」
寝ぼけたような意識で、僕はふとその場にはいない女性のことを考えていた。
中学からはじまったアキサとの付き合いが、高校に上がっても、大学に進学しても続いていた。
それが真実のはずなのに、頭の中の一部に、何か靄がかかって見えない場所が存在する。
隅に追いやられていたものはなんだろう。
それはいらないものなのだろうか。
「いつまで付き合ってたんだっけ……?」
今までのアキサとの思い出について考えた。
でもそれは決して郷愁を抱くような気持ちのいいものではなく、頭の中に煩雑にモノが投げ入れられているような不快さがあった。なんで忘れていたんだろうという戸惑いと、他人が入り込んできたような気味の悪さが同居している。
いくつか断片的に増えた記憶を頭の中で整理しながら、数日前のアキサとのやり取りのことを考えていた。
『覚悟しておいてね。逃げようとしても、逃がさないから』
水戸瀬――アキサが言った意味を反芻する。
アキサ……?
頭を抱えながら、明確に、恐怖を覚えはじめた。
洗脳、という二文字が頭に浮かんだ。
「大丈夫ですか……?」
野木がその言葉を繰り返す。繰り返す。
「ちょっと、トイレ」
立ち上がって僕はスマフォを手にオフィスを抜け出した。
誰もいない静かな廊下。受付嬢のいない受付ロビー。
じっとしていられず、スマフォから彼女の名前を探し出して、通話ボタンを押した。
耳に入るコール音を聞き入れながら、考えた。
アキサと、夕霧さんのこと――
夕霧さんが、アキサに対してマイナス感情を抱いていたこと。
夕霧さんが言っていた『旦那』という言葉の意味。
何か突拍子もないことに巻き込まれている気がする。
「なんででないんだよ……」
コールに反応はなく、しかたなく通話を切って、今一度考える。
自分の中でアキサへの感情が膨らんでいる。
まるで自分のものじゃないみたいだ。
いつか、こんな違和感もなくなって、本物になってしまうかもしれない。
その本物に身をゆだねてもいいのか、抗うべきなのか。
そうなったとき、彼女は僕を問題なく受け入れてくれるんだろうか。もし彼女にそこまでの好意が無かったら、僕は耐えられるだろうか。
無理だ。
今だって、彼女とのことを考えるだけで胸が絞めつけられる。
彼女を失うことの悲しみの深さを、僕は知っている。
だって僕は、一度彼女に傷つけられてるんだ。
そのとき懐にあったスマフォが震え出した。
アキサからの折り返しかと慌てて確認したが、表示されている名前が目に入った瞬間、ため息が漏れた。
僕は感情を即座に殺し、通話ボタンを押す。
『六条、今家か? なんか野木の方がトラブったんだって?』
冷たい口調で一方的に話し始めた。
上司の渡利だった。
その野太い声と威圧的な態度で、現実に返ってくる。
「先方から今日中に対応してほしいことがあるって聞いたんだが、お前何か知ってるか? 状況を教えてくれ」
現実ってのはいつだってこういうのだ。
『ぼーっとしてないで何とか言えよ!』
僕は放心しながら、渡利の声に耳を傾けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます