高校時代のぼく?

 ぼくはなんのとりえもない子供だった。

 背丈は平均以下だし、表情に覇気もない。

 運動は苦手で、勉強も学年順位は下から数えたほうがぎりぎりはやい。


 どちらかというと動き回って誰かと遊ぶよりも、一人でじっとしている方が好きだった。


 シュ、とか口で言って蹴りをしてくる人間ってのは、はたから見ると相当痛いんじゃないだろうか。

 ふとそんな風に思いながら、その足の軌道を目で追っていた。


「よっしゃあ、大命中!」


 蹴りっていうのは当たり所によっては、意外と鋭い音がする。

 とくに格闘技の有段者とかになると、蹴りのフォームっていうのはよく洗練されていて、鞭か何かでたたきつけたみたいな音がする。

 荒井健太はキックボクシングをやってた。


「……」


 ニヤついた笑みを浮かべながら、膝をついたぼくのことを見下ろしていた。

 ここ一年でずいぶん大柄な体系になって、すごむと息が詰まるくらいに怖い顔つきになる。

 その横にいる取り巻き二人も、健太と似たような顔つきで、ぼくのことをまるで檻の中の猿でも眺めてるみたいな目で見てた。

 うんざりする。あまりにも理不尽で、まるで夢でも見てるみたいだ。


「おい立てよ。まだ練習途中だろ」

「あは……はは、勘弁してよ」


 卑屈な笑いになっていないか、無意識にそんなことを気にして三人の顔色を伺っているのに気がついて、悲しくなった。

 

「なになに? 俺のお願い聞いてくれないの? 俺ら友達だろ?」


 こいつはたぶん、ぼくのことを嫌っているんだと思う。

 入学以来からの同級生だし、一時は友達のような付き合い方もした。

 今じゃそんな片鱗はまったくない。


「おら立てって」


 なんの脈絡もなく蹴りが飛んでくる。今度は心臓が飛び出るんじゃなかろうかという強い衝撃が背中を襲った。


「ほら、立たないと顔に当たっちゃうよ」

「わ、わかった、立つから」


 間髪いれずに次の蹴りが来る。今度は宣言どおり後頭部を狙った一撃だった。

 さすがに身の危険を感じでとっさに手でガードする。


「は? おい」


 綺麗に決まらなかった蹴りに、健太は明らかに不機嫌そうに顔を歪めた。


「ご、ごめん」

「ごめんじゃねーよ。練習台がなんでガードすんのよ」

「なあケンちゃん。もうよくね?」


 後ろでだべっていた取り巻きが携帯をいじりながら言った。


「さすがに顔蹴ったらセンコウがうるせーぞ」

「いや、なんかさー、こいつの顔見てるとマジイライラすんのよ」


 イライラするって、そんなの、どうすりゃいいんだよ。

 そんなこと口にする度胸なんてもちろんない、すっかり負け犬根性が染み付いている。

 健太は舌打ちをするとぼくの肩を突き飛ばした。

 尻もちをついたぼくに「だっせぇ」というセリフを吐いて背中を向けた。


「このままサボってどっかいかね?」

「いいね」

「じゃあさ――」


 楽しそうだよな、ほんと。


 中一の終わりぐらいからだろうか。

 何に感化されたのかはわからないが、教室に急に髪を染めたりピアスをつけたりする連中が増えた。

 健太たちがまるで親に与えられた玩具で遊ぶみたいに、ぼくにちょっかいを出し始めたのも、ちょうどその頃だと思う。

 なにがいけなかったのかはよくわからない。

 最初は変に抵抗していたのが悪かったんだろうか。からかわれて顔を真っ赤にしていたのが面白かったのか。

 涙が出るのをごまかすために、怒鳴り声をあげたのも良くなかったのかな……。

 いずれにしても、こんなくだらない日々がずっと続いている。


 しばらく床を見つめてから、思い出したようにゆっくりと立ち上がる。

 足の痛みが強烈で思わず顔を歪めた。裾をめくってみると右足太ももに大きな痣ができていた。

 埃まみれになった制服を手で払うと、とぼとぼと緩慢な足取りで自分の教室に向かう。

 

 傷は大したことはない。時期に治る。

 けど、心の傷は癒えない。


 教室に入ると一瞬だけシンと静まり返って、奇異の視線が向けられた。

 それだけでまた泣きそうになるけど、ぼくは奥歯を噛みしめて必死にそれに耐えた。

 ボロボロのぼくにみんなは一瞥を置くだけで、すぐに友人同士の談笑に花を咲かせはじめる。

 無言のままに自分の席に着く。


 魚っぽい生臭さが鼻についた。窓際であるその席には、外と隔てるように水槽が置かれている。

 水槽の中身はクラスで飼育している金魚だ。

 魚の臭いが年中する、最もはずれの席だ。


 金魚が水面でパクパクと苔をついばむ様は、なんだか哀れに見えた。





            ・

            ・

            ・


「タケル?」


 すぐそばで声が聞こえた。

 目を閉じていたぼくには、そこがどこかもすぐには把握できなかった。なんだか柔らかい場所で仰向けになっているのが辛うじて分かったぐらいだ。


 目を開けると、そこはベッドの上だった。すぐそばにはベッドに腰を掛けた制服姿の女の子がいて、なにやら神妙な様子で目を細めていた。


 水戸瀬秋沙――

 彼女は見たこともない可愛らしい制服を着ていた。

 きっと地元の公立高校のものだ。


「や、久しぶり」


 彼女はぼくの腕に手を置いて、はにかむように笑った。

 あまりに不釣り合いな存在なので、ぼくのそばにいてくれているというだけで、なんだか現実味がなかった。


「帰宅してからずっと寝てたの? 体調悪い?」

「いや……」


 寝ていた……?

 あたりを見渡すと、そこが自分の自室であることに気づいた。

 窓からは西日が差しこんでいて、部屋全体を茜色に照らしている。


 じゃあさっきまで見ていたのは、何だったのだろう。

 夢にしては嫌にリアルで、体の節々がまだ痛む気がする。


「なんでここに……?」


 とにかく、なんだか酷く目覚めが悪くて、喉もカラカラだった。

 か細い声で言うと、彼女はおかしそうに笑った。


「今日は暇だったから遊びに来たんだよ。妹ちゃん可愛いね? ハイハイしながら迎えてくれたの。というかなんで連絡してくれないのよ。私たちまだ付き合ってるよね?」


 陽光に照らされた彼女の茶色い髪がキラキラしてる。そんな子が、こんなにもぼくの近くにいることが信じられなかった。


「まさか、浮気してたんじゃないでしょうね?」


 斜め上のことを言われて、慌てふためく。


「そんなのできるわけないって……」

「じゃあなんで連絡しないの?」


 寝起きで朦朧としていた意識が、徐々にはっきりしてきた。

 高校受験に失敗し、ぼくだけ遠方の私立に進学してしばらく、彼女と連絡を絶っていたのは事実だった。

 彼女の顔色をうかがいながら、慎重に言った。


「け、携帯持ってなくて……」

「連絡しようと思えば家の電話でもできるじゃん」


 一転して険悪な空気だった。

 彼女の言う通りだ。

 でもぼくは、もう彼女にはとうの昔に愛想をつかされていると考えていたのだ。

 同じ公立高校に入学させるために熱心に勉強を見ていた男が、ひとり落第してしまったのだ。失望されたと思っていた。恥ずかしくて、顔向けできるわけがない……。


「迷惑かなと思って……」


 ぼくなんかに連絡されても、イライラさせるだけだと思っていた。

 むしろまだ別れてない、なんて言葉を投げかけてもらえるなんて、思ってもみなかった。


「勝手に決めるな」


 水戸瀬はぼくをおでこを指でピンと弾いてくる。結構痛くて、思わず額を手で押さえた。弾かれた場所がヒリヒリする。


「というか、私が逆の立場ならどうするのよ? タケル、私が受験失敗したら捨てるの?」

「いや……そんなこと……しないよ」


 むしろ逆にほっとするかもしれない……。その完璧さ故、弱みの一つでもあった方が可愛げがあると、そう思っていた。

 我ながら最低な思考だ。


「じゃあそういうことだよ。私だってタケルを捨てたりしない」

「いや、全然ちがう……。水戸瀬は絶対もっとましな男を見つけられるし……」


 スポーツは苦手だし、成績だって悪い。いつ捨てられても仕方がないスペックなのは明らかだ。


「私がそんな理由でタケルを捨てると思った? 馬鹿なのあんた」


 ぐっと、ぼくの腕を握る手に力が入る。

 正論、なんのだろうか。でも彼女の期待に応えることができなかったのは事実だ。

 ぼくは、裏でさんざんいじめにあってるような底辺だし……。


 だから、本気にならないようにしてきた。期待しないようにしてきたんだ。

 水戸瀬は、ぼくのお腹の上にのしかかってきた。

 思いのほか重くて、ヒキガエルみたいな声が出る。


 両側の頬を手で押さえられて、彼女の端正な顔が間近に迫ってくる。

 そんなシチュエーションにドキドキしてしかるべきなのに、彼女の目にはわずかに涙がたまっていて、それどころではなくなった。


「私から会いに来たんだから……わかるでしょ?」


 水戸瀬の声には、悲しみの色がにじんでいた。


「これからは、週に一回は連絡して。それで月に一回は会おうよ」

「はい……」


 彼女はそう言って、ぼくの頭を抱きしめた。

 こうしてハグをされるのは、ずいぶん久しぶりだ。


「あの……動けないんだけど……」


 突然のことで驚くが、彼女の身体が小刻みに震えているのが伝わってきて、ぼくもその背中にゆっくり手をまわした。


 胸の動悸が激しかった。

 まるで耳の中に突っ込んだイヤフォンから流れているみたいに、ドクンドクンと、心臓の音が絶え間なく鳴り響いている。


 ぼくはそれを、恋だと思おうとした。

 恐怖だとは思いたくなかった。


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