第27話 僕には飛べない羽がついてる
あの泣き顔が忘れられない。
鏡で何度も見てきた自分の泣き顔に比べたら、彼女の泣き顔に込められた絶望と悲壮の念が桁違いであったことがうかがえた。
その原因が、自分にあるのだろうかと、考えずにはいられない。
日が経つと嫌なことなんてたいてい忘れられる。
いつもならそう割り切ってこれていたのに、今回はどうやらそうもいかないらしい。
あれからまた二週間ほど経ったが、身に潜むネガティブな感情は薄れるどころか、より深いところで悲鳴をあげている気がする。
夕霧さんがその後どうなったのかは知らない。連絡が途絶えてしまっていた。LIMEでメッセージを送っても既読すらつかない。
水戸瀬とも、LIMEでやり取りをするぐらいで、顔を合わせるようなことはしていなかった。
色々なことが整理できないままで、だいぶ時間が経ってしまっていた。
考えることを怠けて、また元通りの生活に戻ろうかとも考えた。
以前のような仕事に忙殺されるだけの日々だ。
だって仕事は、どんなに考えても、考えても、上から理不尽に注がれてくるものだから。
社会はそういうものだから。
でも、もう慣れていたと思ったのに、いざまたひとりぼっちになってみると悲しい気分に苛まれた。同じ生活なのに、なんだか空っぽになってしまったような空虚な時間を過ごしているように思えた。
日ごとに、あれはすべて夢幻だったんじゃないかと思うようになった。
何かを失ってしまったという喪失感だけが、腹の内でぞわぞわと徘徊しはじめた。
僕はそんなナイーブな性格だっただろうか。
どうなに理不尽なことがあったって、次の日には普通に仕事ができていた。
でも今は、デスクに座ってパソコンを前にしても、水戸瀬や夕霧さんのことがちらついて集中できない。
そんな繊細な人間じゃないだろと、自分で自分を笑い飛ばしてやりたかった。
――――いくつか考えるようになった。
違和感の正体について。
考えるたびに、記憶の混濁からか頭痛に苦しめられることもあったが、辛抱強くそれに抗った。
水戸瀬と付き合った期間。
夕霧さんとの見覚えのない会話。
逢坂ちひろの生死――
ずっと答えは出ない。
水戸瀬から「会って話したい」という端的なメッセージを受信したのは、そんなときだった。
前みたいなコミカルなスタンプが貼られるようなことはなかった。
もちろん誘いを受けて、また休日に会う約束をした。
単純に会いたかっただけじゃない。そろそろ彼女には答えを出すべきだと思ったからだ。
恋をするのにもエネルギーがいる。
随分前にそういう事実に気づいた。
相手を失って、もう一度違う誰かを好きになる労力というのは、とんでもなく大きい。
相手に困らないイケメンならいざ知らず、それが凡庸でなんの魅力もない人間ならなおさらだ。
人と出会って、好きになって、告白して、承諾してもらう。
恋を成就するのはあまりにも、多くの課題がありすぎる。
だから、大半の人は、その工程のどこかを省こうとする。完全さを断ち切って、手ごろな幸せを得ようとするのかもしれない。
それで幸せになる人もいるだろう。
案外、そういう人がほとんどかもしれない。
僕が卑屈に気にしているだけで、世界は、本当はもっと単純であったかいのかも。
でも僕は、どうしても他人の好意というものが信じられなかった。
僕にとって恋愛は、非常に難儀で、そして価値のあるべし、というものだった。
凡庸な僕が持ってはいけない価値観の類だ。身の丈に合わないと決めつけて、恋愛を価値あるべしと崇めて、遠ざけてしまった。
今そんな僕に、好意らしきものを抱いてくれる人がいる。
*
「何かしてるよね?」
日中の太陽の下で、公園のベンチに水戸瀬と並んで座っている。
鳥のさえずりや、子供たちの喧騒が耳に入った。
小さな男の子と女の子が二人、噴水の前で追いかけっこをしている。それを遠くで見守っている夫婦がいた。すぐ傍にはベビーカーが置かれ、そこでは手足をバタバタを動かしている赤ん坊がいる。
近隣の公園での、日常的な風景だった。
「水戸瀬は、たぶん僕に何かしてる」
「……どうしてそう思うの?」
「色々おかしなことばかり起きてるからだよ」
水戸瀬の用事を無視して、僕はそう切り出していた。
彼女は不服そうに顔をしかめていたけど、でもなにより初めに彼女には伝えておきたいことだった。
「だから、やっぱり水戸瀬とは付き合えない」
僕の答えに、水戸瀬が深いため息を吐いた。
「本当にめんどうくさい男に成長したよね。普通の女だったら、もうめんどくさい無理! ってなってるわよ」
「申し訳なく思う……」
おそらく相当に呆れられただろう。でも不思議と、苦ではなかった。当然だよなと、笑い飛ばせるぐらいにはまだ、余裕があった。
「大人になるって、つまんない奴になるってことなんだろうね」
水戸瀬がそんなふうにぼやいた。
「大人になったら、視野が狭くなって、偏った考え方しかできなくなるのよ。そういう社会に囲まれてしまえば、子供っぽさなんて抑圧されて、バカなこともできなくなるのよ」
「どういうこと?」
「あんたもつまんない大人だったってこと。そんなの気にせず、今まで通り好き勝手に生きてれば楽なのに……」
水戸瀬はムッとした顔で僕を睨んだ。
彼女らしい反応だな、と思った。
「なに笑ってるのよ……」
いつの間にか口元が緩んでいたみたいだ。
水戸瀬をさらにイラつかせてしまった。僕は頬を引き締める。
「私だってどうせ、残り物のめんどうな女よ」
ふんと鼻を鳴らして、水戸瀬は遠くの方に視線をやった。きっと僕と同じ、仲睦まじい夫婦の姿を目で追っている。
そんな自虐的になるなよ。
「水戸瀬なら大丈夫だよ。なにせ僕にはないものをたくさん持っている。そんな致命的な問題なんてないよ」
「……いや、わかってないなぁ」
彼女はこちらに向き直って、苦笑いを浮かべた。
「私にはタケルしかいないんだけどなぁ……」
水戸瀬は、途端に目じりを落とし、残念そうにうつむいた。彼女の表情が、しょぼくれた感じに見えた。
そんなことはないだろ、とは言えなかった。
再三にわたって言ってきた言葉が、もしかしたら彼女を傷つけてたのかななんて思ってしまったからだ。
「私は……ああいうのがさ、フィクションだなんて認めたくなかった」
彼女が向けた視線の先に、さっきの老夫婦がいる。
今になって気づいた。水戸瀬も、もしかして僕とおんなじなんじゃないかって……。
「やっぱりあんたは昔の方が可愛かった」
彼女はそう言ってあきらめたように肩を落とした。
そうだな……。時間は残酷だ。どんな人間も、醜く老いていく。心も体も。
きっと僕にはもう恋愛は無理なんだ。
かろうじてできていたのは水戸瀬と付き合っていたあの頃だけなんだ。
あの奇跡みたいな瞬間だけだ。
いずれにしても、もう取り返しはつかない。
傷ついたまま成長した僕には、飛べない羽がついてる。
その羽ではもう、恋愛なんて空には飛び立てない。
ここからどんな経験を積んだって、面倒な性格が変わることはない。
そんな僕が、水戸瀬と釣り合う男になる日も来ないんだ。
「あたし、タケルを守るよ」
妙に思いつめた表情で、水戸瀬が声を漏らした。
「守るって、なにから……?」
尋ねるが、彼女は応えず、妙に納得したような顔で立ち上がった。
僕に向き直ると、
「覚悟しておいてね。逃げようとしても、逃がさないから」
微妙に会話がかみ合わないこと言って、彼女は公園の出口に向かって歩き出した。
「…………あれ?」
今しがた、水戸瀬とのことは決着がついたと思っていたのだが、妙な雰囲気で話が中断されてしまった。
残された僕はただ茫然と、立ち尽くすしかなかった。
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