第23話 対岸の毒花と毒蝶 壱


「先生……」


 崩れ落ちそうな塔を安定させることは難しい。

 老朽化した部分の補強によって、別の部分に以前よりも負荷がかかってしまうのはよくあることだ。

 時間が経てば、その場所は崩れ、さらなる補強をせざる得なくなる。

 安定とは綱渡りである。

 左右のバランスが定着することはない。

 時間稼ぎでしかないのだ。

 しかしながら、綱渡りであるならば、その綱を渡りきることは可能であろう。

 どんなに歪であろうとも、不安定であろうとも、


「心配しないで。私の言うとおりにすれば、きっと大丈夫だから」


 私は、私の身勝手な望みによって発生した歪みを、補強すべき対象と捉えている。

 自分さえよければ、という考えは、きっと巡り巡って自分の身に降りかかる災いになると、信じているからだ。

 因果応報という言葉があるだろう?


「これはあなたにしか見えない端末」


 だから遂行しなければならない。

 まだ私が、私であるうちに。





           *


 化粧室から戻った夕霧さんは、メイクが落ちて、どこか見覚えのある少女の顔に戻っていた。

 化粧しない方が年相応で、正直ちょっとほっとしてしまう気持ちもあった。


「ごめんなさい……」


 だけど申し訳なさそうに頭を下げる夕霧さんは、涙声である。またそのまま泣き出してしまいそうで、慌てる。


「いや……僕の方こそごめん……!」


 元々、こんな風に泣かれるとは、考えてなかった。

 彼女とは今日顔を合わせるのも二度目だし、直接話をしたのは初めてだった。

 そんな人が自分の言葉一つで泣き出すだなんて、夢にも思わなかったのだ。


「もう、大丈夫です……」


 目に溜まったものを指で拭うと、洟をすすりながら言う夕霧さん。とても大丈夫そうには見えない。

 下に降ろされた手は、自身の服の裾を握りしめて、震えている。何かに堪えてるんだと気づいた。


「えっと……」


 なんと声をかけるべきだろうか。

 前途有望な若者に、社畜の僕がこの局面でかけてあげるべき言葉ってなんだ?

とにかくなにか、力になれることは無いかと思った。

 情緒不安定なのも、何か原因があると考えたからだ。

 もしかしたら家庭環境の問題とか……学友関係のもつれとか……。


「……っ」


 気づいたら自分の下唇を噛んでいた。

 恐ろしい想像をしてしまう。

 そういう状況に置かれた若い人間ってのは時として、傍にいる大人を無条件で頼ってしまうものなのだ。

 判断能力が欠如し、そんな弱みに付け込んで悪辣な男に騙され、後にとんでもない行為に及んでしまう。多感な年ごろの彼女ならありえない話ではなかった。

 

「な、なんか僕にできること、ある?」


 きっとなにか、僕の理解が及ばないところで、もっと大きな悩みがあるに違いない。出なければ、そんな、今日初めて会った男の前で涙を見せたりはしないはずなのだ。

 もしそうなら、彼女に手を差し伸べたときと同じように、彼女の力になるべきだと思った。


「なにか辛いことでもあるんだよね? 僕にできることならなんでもするよ?」


 放ってはおけないと思った。

 気丈に振舞おうとしていた彼女の瞳に、再び涙が溜まったのが分かった。


「今、なんでもするっていいました?」

「え? うん」

「あの、だったら」


 とりとめもなくあふれ出すものを指で拭いながら、


「友達に、なってください」


 彼女は絞り出すように、そう言った。


「ああ、わかった」


 それぐらいだったらお安い御用だ。

 友達――十以上も離れた女の子との間に友情は成立するのか、疑問に思うところはあるが……少なくとも僕が変な間違いを犯さない限りは問題ないと考えた。

 すると彼女は、突然僕の腕を掴んだ。その表情は、涙目ではあったけど、笑っていた。そのちぐはぐな表情の作り方が、妙に大人びていて、少し怖くなる。


「だったら」


 力強い声で、僕の耳に唇を寄せてくる。

 自分の心臓の音が大きくなった。


「この水戸瀬って人と、会わせてください」


 そして僕に、何かの液晶画面を突き付けてくる。

 それは僕のスマートフォンだ。自分の懐をまさぐって、すぐにそれが手元に無いことに気づいた。

 問題なのは、番号認証しているはずの画面ロックが外されて、通話履歴に残っていた水戸瀬の名前が映し出されていることだ。

 なんで暗証番号を知っている?

 いや、そんなものはさほど問題じゃないのかもしれない。


「友達なら、いろいろ教えてくれますよね?」


 赤く泣きはらした目で、笑っている。

 キスしそうなほど近くにある少女の瞳は、ずっと年下とは思えないほど鋭利で、危険な光を宿している。

 まるで獲物を前にした獣のような眼光だった。


 そんな少女の情緒に比べたら、きっとさほど問題じゃない。

 

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