第17話 色々と奇妙である

「最初、鼻から血を流す尊君を見たときはすごくびっくりした」

「逢坂のあれはびっくりじゃなくて、むしろ怖がってただろ」


 逢坂との話題は自然と中学時代の思い出話になっていた。


「僕を見た瞬間に、保健室の隅に逃げ出して、ものすごく警戒してた。あのときのお前は、まるで化け物でも見てるみたいな目をしてたぞ」

「だってグロかったし」


 保険医の先生の処置で血止めをしてもらい、ベッドに寝かされるまで、逢坂は胸に抱いた教科書をぎゅっと抱いたまま、僕を睨んでいた。

 思えば第一印象は最悪だっただろう。


「でもそのあとベッドでしくしく泣いてたよね?」

「……そうだっけ?」

「あんな泣き虫なくせに、よく殴り合いの喧嘩なんてできたよね」

「それはいいだろべつに……」


 なにが悲しくて自分の黒歴史を話題にしなくてはいけないんだ、と思った。

 まあそれぐらい、逢坂との思い出は苦い経験と隣り合わせだったんだ。


 あの頃の自分は、悔しくて、自分の感情を押さえられないぐらいにガキだった。

 同級生に殴られて心身共にボロボロになった僕は、ベッドに寝かされて、冊子が閉じられて一人きりになったとき、たぶん哀しさがぐっと押し寄せてきたんだと思う。


 声を殺して泣き出した。

 そんな自分を初対面の逢坂にさらすことになったのは、哀しい黒歴史の一つだ。


「でもあれが無きゃタケル君に話しかけようとなんて思わなかったよ」

「なんでだよ……」

「あのとき私に何されたか覚えてる?」


 正直、思い出したくもない。


「あ、それは覚えているときの顔だね」


 逢坂は人差し指を立てて、悪戯が成功したときみたいな顔をしている。

 本当は、今でもはっきりと覚えている。

 逢坂は泣いている僕に近づいて――


「頭を撫でてあげたのよね。そしたらさらに大泣きしちゃって」


 うるさい。顔が熱くて、死にたくなる。

 嫌でも覚えてる。頭に彼女の手を置かれたとたん、情けない気持ちが溢れて、なおさら声を出して泣き出してしまった。


 女の子の前でパンツをずり下された後に、友達だと思ってた男子にボコボコにされて、あげく保健室に来たら女の子になでなでされた後の号泣である。

 なんだこの悲劇は。

 あんな情けない姿は、後にも先にもあれ以上のものなんてない……。


「同い年なのに、子供みたいだったよね」

「お前はまるでお母さんみたいだったよ……」


 彼女はむっとした顔で僕を睨んだ。

 表情豊かな逢坂を見てると、なんというかまるで変ってなくてほっとした。

 そういえばこいつは臆病で人見知りのくせに、一度気を許した相手の扱いはとことん雑な奴だった。


「そういえば話題に上がったタイムリーな荒井健太くんは、今はトラックの運ちゃんで、二児の父親なんだって」


 急な話題転換に、いきなり胸にパンチを食らった気分になる。


「……なんか複雑だな」


 女子の前で僕のズボンをずり下した悪ガキが、結婚して子供までいるという事実に戦慄する。


「君を蹴飛ばしたり馬乗りしてた人たちも、奥さんがいたり、起業して成功したりしてるみたいだよ」

「面白くないなぁ……」

「ふふ、だよねー」


 逢坂は同意しているが、妙に楽しそうだった。


「まあでも、人生そんなものだよ」


 人生そんなもの。簡潔だけど、なんとなく胸に残るフレーズだった。

 考えてみればそうだ。

 僕に酷いことしてきた連中は揃いも揃って社会では成功していて、僕自身は苦渋を味わうようなことばかり経験している。

 本当にそんなものかもしれない。

 なんだか憤りを通り越して、笑えてくる。

 割とどうでも良くなってきたみたいだ。


「なんかほっとした……」

「なに? なんでよ」

「いや、逢坂は全然変わってなくて」

「あ、それはバカにしてるでしょ? 絶対してるね」


 僕は否定せずに、ただ笑い返した。


「あれからどうだ? 元気でやってたのか?」

「うわつまんない質問。こうして生きてここにいるんだから、元気に決まってるじゃん」


 即答だった。

 眩しい笑顔で、羨ましくもあったけど、祝福したい気持ちが強かった。

 辛かった中学時代の、唯一の同胞みたいに思っていた。そんな彼女が今幸福なら、これほどうれしいことは無いのかもしれない。


「仕事辛いし、嫌にもなるけどさ。もう家族もいるし、頑張らなきゃって思うよ」

「へぇ」


 昔から人見知りだった逢坂にそういう相手がいるのは意外だと思った。


「そっかぁ……お前ももう母親ってやつなのか?」

「母親? ああ、まあそうだね」


 なんだか自分事のようで、とても感慨深い気持ちになる。


「何人いるんだ? 写メでも見せてくれよ」

「え? やだぁ恥ずかしいよ」

「なんだよ。もったいぶるなよ」


 なんか周りが見たら勘違いされそうなやり取りだな……。

 逢坂はためらいながらも「しょうがないなぁ……」などと言いつつ結局スマフォから写真を開いて見せてくれる。

 どんな可愛い写真が出てくるかと期待していたら、掌の上に乗る一匹のトカゲの姿が確認できた。


「見せる写真を間違ってないか?」

「? 間違ってないよ。うちのペットのマモルちゃん」


 ペット?


「ヒョウモントカゲモドキって種類なの。かわいいでしょ?」

「……そうか?」


 さっきの感慨深い気持ちが、宙に投げ出されてしまった。

 というか、トカゲなのか違うのかハッキリしない名前だな……。

 アラサーにもなってトカゲの写真を嬉しそうに見せるなんて、彼女の近況がとても不安になるが、それは僕も他人事ではないので言わない。


 せっかくうるっと来ていたのに、感動がひっこんでしまった。

 まあでも、元気であることは変わりないのでよしとしようか……。


「ちひろ!」


 急に背後から声がして飛び上がる。

 振り向くと、見知った顔が少しばかり息を乱しながら立っていた。


「水戸瀬?」


 まだ忙しいはずの水戸瀬だった。

 用事は済んだのだろうか。いいタイミングだなと再会を喜ぼうとしたのもつかの間だった。彼女は一瞬僕を認め、それから気まずそうに視線を逸らした。

 なんだ?


 すると今度はずんずんとこちらに近寄ってきて、隣にいた逢坂に詰め寄った。


「なんでここにいるの!?」

「アキサちゃん、こっちに来て大丈夫だったの?」

「いいからこっちに来て!」


 水戸瀬は一方的にそう言うと、逢坂の手を引いてその場から立ち去ろうとした。


「ちょっと水戸瀬? 急になに――」


 事情を聞こうとした僕の声には耳を貸すことなく、水戸瀬は逢坂を連れて広場の方に行ってしまった。取り付く島もなかった。

 一人静かな廊下に取り残される。


「な、なんだ……?」


 何が何だかわからなくて、あっけにとられてしまっていた。


 でも、一瞬垣間見えた彼女たちのやり取りから察するに、二人は知り合いっぽかった。

 それに逢坂は水戸瀬のことを『アキサちゃん』と下の名前で呼んでいた。ある程度の親密さがうかがえる。


 けど、中学時代の二人に接点なんてあっただろうか……?

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