第16話 逢坂ちひろ

 荒井健太は、僕が中学時代、一番はじめに友達になった男子だった。

 友達といってもお互いのことについては何も話したことなんてなかった。

 ただ形式的に、友人という役をお互いに演じていたにすぎないのだと思う。


 彼は僕の預かり知らぬところで質の悪い友人に恵まれ、身に着けていた古いアクセサリーを放棄するように、僕を排他した。


 まだ水戸瀬と付き合う前の一年二学期の終わり。

 体育の時間、僕は同じクラスだった荒井と取っ組み合いの喧嘩になった。

 発端はグラウンドに向かう前の昇降口で、荒井が僕のズボンを背後から強引に引き下ろしたのが原因である。


 今思えば完全に子供のいたずらだが……周りには女子もたくさんいたし、そうやってさらし者にされた僕は頭に血が上って、荒井に殴りかかったのだ。

 それで逆に殴り返された。


 取っ組み合いといっても、僕は泣きながら相手の身体にしがみつくのがやっとで、一方的に殴られただけだった。

 鼻を殴られて、血が止まらなくなった。

 それでも荒井はへらへら笑っているだけだった。


 まわりも、パンツ姿で暴れる僕に、嘲笑を向けていた。

 女子たちが「やだぁ」とわめいていた。

 悲しくて、悔しくて、めそめそと泣くことしかできなかった。


 担任の長谷川先生の引率で保健室に連れて行かれた。

 怪我の原因を長谷川が問い詰めることは無かった。面倒なことには関わらなりたくなかったのだろう。

 僕のズボンをずり下したあの悪ガキも、何食わぬ顔で授業に参加しているに違いないなかった。悔しくて、また涙が出た。


 そうやって運ばれた保健室で、机に向かって勉強をしている背の低い女子と出会った。

 それが、僕と逢坂のはじめての出会いだった。




           *


「知り合いがいてよかったぁ」


 嬉しそうな笑顔を見せる女性を隣に置いて、僕は何事かと考えている。

 緊張で、変な汗をかいていた。

 そんな胸中などお構いなしに、隣に立つ彼女が僕の肩に頭をぶつけてくる。


「なに黙ってんのよ」


 どうやら実体のない幽霊というわけではないらしい。

 僕よりも頭一つ分ほど背の低い女の子、にも見えるが元同級生なんだよな? たぶん……。

 いろいろな角度から彼女の身体を見回してみるが、別段透けているところも見当たらない。


「って今度は何? なんでじろじろみるの?」

「わ、わるい……」


 慌てて目を背ける。


「というかどうして電話したのに折り返してくれなかったのよ」


 逢坂の言葉で、先日のヒナとのやり取りを思い出した。


「逢坂なはずないと思って……」

「あ、ひどいなぁ、あの頃唯一の知り合いってタケル君ぐらいだったから連絡したのに」

「……」


 逢坂は、中学一年の終わり、春休みあたりから登校拒否になった。

 経緯について詳しくは聞いてなかったけど、学内で彼女が他の女子に過剰な嫌がらせを受けていたことは本人から聞いていた。

 逢坂は一年の半ばくらいに僕の地元に引っ越してきた転校生で、始めこそはその物珍しさから彼女の周りにも人が集まっていた。

 でもなんというか彼女は、バカなのだ。

 物覚えがあまりよくなくて、意味もなくへらへらと笑う癖があった。

 長いこと病気での入院生活をしていたことがあって、勉強面で周りの生徒についていけていない状態だったらしい。

 これも当時、逢坂本人から聞いた話だ。


「でもびっくりしたー、タケル君中学の頃はニキビだらけでガキっぽいイメージだったのに、見違えたよね」

「……あの頃はストレスがやばかったから」


 その歯に衣着せぬ物言いはむっとなるけど、懐かしい感じもする。


「お礼を言いたい人がいたから今日は来たんだけど、わたし友達少ないし。でも君が行くなら行こうかなって思って、連絡したの」


 それは、光栄に思ってもいいのだろうか。

 少し反応に困る。


「じゃあ……なんで今日は来たんだ? 結局連絡取れなかったし、僕が来る確信はなかっただろ?」

「いや、今日もここに来る直前に尊君の家に電話したんだよ。またヒナちゃんが出てくれたの」

「でもヒナからは何も聞いてない」

「君が同窓会に行ったって聞いて、慌ててこっちに飛んできたんだ」

「そういうことか……」


 どうやら行き違いがあったみたいだ。

 逢坂はそう口にすると、照れたような顔で壁に預けていた体をこちらにずらしてきて、トンと、もう一度肩がぶつけてくる。


「久しぶりだね、15年ぶりくらいだ」

「ああ……」


 もう認めるしかない。

 逢坂は生きてる。

 いやそもそも、死んでいるなんて、どこでそんな思い違いをしていたのだろう。


「なんで泣いてるの?」

「あれ? いや……ちょっと……あくびかな」


 言われて、左右の瞳から流れ落ちているものに気づき、慌てて指で拭った。

 ただクラスメイトと再会しただけなのに、逢坂を見てると、胸の真ん中あたりがじくじくと疼いてくるのだ。

 彼女との思い出は、嫌なことばかりの中学時代の中でそれなりの癒しになっていた。

 でも今日までの一五年間、再会したいと思ったことは今まで無かった。

 まあどこかで元気にやってるだろう、とふとした瞬間に思い出すことがあったぐらいだ。



 でも、死んでしまうだなんて夢にも思っていなくて――



「今度は難しい顔してるね」


 まただ、またありもしないことを考えていた。

 心配そうに見つめてくる逢坂に、僕は笑いかけた。


「ひ、久しぶりだな……生きてたか?」

 

 それを見た逢坂は呆れたように笑いかえしてくる。


「あたりまえじゃん、ちゃんと生きてるよ」


 そしておもむろに掌を突き出す。戸惑いながらも、昔のことを思い出して同じように掌を向けた。するとあの頃と同じように、そこに自分の掌を合わせてくる。

 重なった彼女の掌は、僕よりも一回りほど小さかった。


「へぇ、あの頃は同じくらいだったのに、おっきくなったねぇ」


 彼女は嬉しそうに笑う。

 そんな屈託のない笑顔を見てたら、

 気づけば、胸の内に渦巻いていた不可解な喪失感は、どこかへ行ってしまっていた。


 こんな場所でも再会を喜べる相手がいる。

 今はもうそれだけでいい気がした。

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