第8話 嘘みたいな本当の話
翌朝は会議室で目を覚ました。
ここで目覚めるときほど最悪な気分は無い。
床に段ボールを敷いて横たわるだけというのもあんまりだし、早朝やってくる清掃業者の掃除機の音での目覚めも最悪だった。
こんな日が週に二度は起こる。
とりあえず顔を洗いにトイレに向かう。
鏡に映っている男の顔は酷いものだ。目の下にクマができて、生気がない。痩せこけて、虚ろで、今にも消えてしまいそうだ。
こんな状態で金曜日を迎えるのだけは避けなければと思った。
「六条君ちょっと……」
就業時間の十五分ほど前、人事部長が僕のデスクをたずねてきた。
「会議室に来てくれ、話がしたい」
こちらの返事を待つことなく、彼はオフィスに隣接する曇りガラスで覆われた個室に向かっていった。
なんの要件なのかはだいたい予想がつく。間違っても昇級とか、そんなポジティブな話ではない。
彼に追随するように個室に入った。
「今月の君の時間外勤務についてだが……上限を超えてる。何とかしてもらえないか?」
僕が申請した勤怠の内容が気に入らないらしい。
そんな話をされるのは三か月連続だ。もう聞き飽きた相談だった。
「同じ事業部でも君だけなんだぞ?」
人事部長は厳格な風貌の男だ。目の前に立たれるだけで威圧感を与えてくる。
この圧に押されて、先月も、先々月も彼の言いなりになってしまった。
「超過分は翌月に代休などを取って帳尻を合わせればいい。だから調整してくれないか」
全く同じセリフを先月も聞いた。
きっとそんな話をしたことなど、目の前の男はもう覚えてはいないだろうなと思った。いや、知ってて同じ理由で僕をたずねてきている可能性もあるか……。僕を三歩歩けば忘れる鳥頭だと思っているのかもしれない。
僕は、深く息を吐いた。
前回は疲れていたから、その案を受け入れてしまっていた。
実質、何十時間もサービス残業をしたことになる。
まともな企業で笑えてくるな。
「部長、仕事が残ってるんです」
そのときは珍しく、ほぼ徹夜明けの僕の頭にも言い分が出てきた。
しかしそう口にした瞬間、人事部長の目つきが厳しいものに変わった。
しばしにらみ合いが続いた。
仕事が終わらないと困るのはお前の方だろ、ということを頭の中で叫びつつ睨み返していると、彼は難しそうに頭を抱えて、唸った。
「何か残業が必要になる理由でもあるのか?」
珍しくまともな相談をするつもりらしい。
「ええ、今の案件にはリーダーがいません。欠員も出ている。作業量と人員が見合っていません」
そう端的に状況を伝える。
人がいない分、僕が多く仕事をしている。少なくとも僕はそう思ってる。
「渡利からは君が代理でリーダーになったと聞いたが」
ここで直属の上司の名前が出た。
これはある種の脅しだ。僕が話したことを後で渡利にも伝えるつもりなのかもしれない。
はぁ面倒だなとは思ったが、
「代理じゃなくてただの蔵上げです……。引継ぎも不十分。渡利さんにも相談しましたがろくに聞いてもらえません。本当に人が足りないんですよ」
現実問題として、人事がいくら注意喚起をしたところで、残業は減らない。
注意喚起で仕事は減らないからだ。
働き方改革? そんなもんになんの効力もない。
目の前のおっさんの頭を鷲掴みにして言ってやりたい。
仕事をするのはお前じゃない僕だ、って。
僕は悪くない。だから、それを主張し続ける。
それでも通らなかったとき、またいつもの悪い癖が出るかもしれない。
泣くもんかと、僕は気を強く持った。
精いっぱいの強がりってやつだ。
「その話は役員会に通そう。とりあえず君は決められた残業時間でやりなさい。いいね?」
はい、とは言わなかった。ただ視線を落として、静かにうつむいた。
まともな会社みたいなことを言う。でも実態は、こんなの立派なブラックだろ……。
時間外勤務の管理をなぜ従業員に強いるんだ。
何かの冗談じゃないかと思う。こんなものが、従業員の良識によってのみ左右されるなんて……。
「ところで、今日君は徹夜明けかな」
「……よくわかりましたね」
理由を察しているとは思えないが。
「無精ひげが酷い。できれば今日は明け休で帰りなさい」
優しい言葉だった。表面上は。
「金曜日は残れない用事があるんで、できるだけ頑張りますよ……」
人事部長は黙り込んだ。それ以上言えることもないんだろう。
「それじゃあ失礼します」
会議室を後にし、彼との朝の悶着はそれで終わった。
時間を無駄に浪費しただけだった。
とりあえず、仕事をしようと思った。
金曜日のことを考えれば、少しぐらいは頑張れる気がする。たぶん。
*
午後五時に会社を出た。徹夜明けから実に八時間が経過していた。
定時前なので珍しくまだ外は明るかった。
仕事のリカバリーの目途は立ってないけど、さすがに体調面で危機感を覚えた僕は、渡利の目を盗んで仕事を切り上げてきたのだ。
寝不足でふらふらする。
無理をしすぎて倒れたら本末転倒だ。今の僕に必要なのは体を休めることだ。
少しだけうれしいことがあった。
帰りの列車の中で、水戸瀬からLIMEのメッセージが入っていた。
といっても、なんだかヘンテコなキャラクターが手を振っているスタンプだ。
「呑気だな……」
寝不足でぶっ倒れそうな頭で、僕も猫が寝ているアニメスタンプを押して、スマフォを懐にしまい込んだ。
異性とLINEを飛ばし合うのは、妹以外では初めてだ。妹ともこんな風に無意味にスタンプだけでやり取りすることはあった。
水戸瀬は俺と同じ年齢なのだが、中学時代の彼女のことを思うと、案外そんな一面も似合いそうな気がしてくる。明るくて、笑顔が眩しい子だった。
今、どんなふうに成長しているのだろうか?
中学のころ、水戸瀬のことは良いなと思っていた。
片思いで終わるだろうとも、思っていた。
そんな高嶺の花である彼女と僕が、かつて恋人同士だった。
嘘みたいな、本当の話だ。
年を重ねることでどんなふうになるのかは想像できなかったけど、きっと今でも綺麗なんだろうなと勝手に思っている。
ただ、天は二物を与えずということわざがある。
彼女の性格については、まだよくわからない。
十五年ぶり……いや高校からだから十三年? とにかく元カレである僕に連絡を寄越す理由というのも謎だし、そもそも―――
「そんなに長く付き合ってたっけ……?」
なにか違和感がある。
「頭痛くなってきた……」
どうも水戸瀬のことを考えると混乱してくる。記憶と気持ちが食い違うことがある。
なのでどこかでセーフティがかかって、それ以上の思考を投げ出さざる得なくなる、みたいなところがある。
あいつから連絡が来てから、僕もおかしくなってきている気がする。
「今日は早めに寝よ……」
そう呟く。
近くの優先席に座っている中年女性二人が、こちらをちら見しながらヒソヒソと話をしていた。
きっと表情がコロコロかわる僕のことを不審に思っているのかもしれない。
嫌な現実世界から目を背けるように、車窓の外に目を向け、街に沈みゆく夕日を眺めた。
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