第3話 佐太郎

日下佐太郎くさか さたろうと言う男はいない男だった。

少なくとも家族の中では透明だった。


佐太郎の母は農家の次女で銭の為に奉公に出された女だった。

名はアサと言った。不幸な事に彼女は美しい女だった。

佐太郎の父は武家の嫁がいながらアサに手をつけてしまった。

しばらくしてアサが妊娠を告げるとアサは実家に返されてしまった。


アサは日下の家と縁を切り、生まれてくる子を育てる決心をして産んだ。

日下の冷たい態度には心から傷ついたが、少なくとも佐太郎が生まれて三年の間、母子は幸せだったに違いない。


しかし日下は、噂に生まれた子が男と聞いて幸せに暮らしていたアサから息子を奪いにやって来た。佐太郎の祖父は一応、断る口上を述べたが予定されていたかのように銭を受け取って幼い佐太郎を日下に渡してしまった。

アサは、ただ男達を恨むしか方法がなかった。


戦国時代とは言え不義の子の人生は、だいたい不幸に決まっていた。


日下の家に入った佐太郎は成長するにつれて母に似ていった。

白い肌や切れ長の美しい目元は近所でも噂される程の美貌だった。

そんな愛人に瓜二つの子供を愛せる義母ははは居ない。

もっと悪いのは佐太郎を連れ戻った父も本妻に気を使い、連れ帰った息子を可愛がってはくれなかった。しかも「女子おなごの様だ」と蔑んで見せた。

ついには佐太郎をトラと言う老婆に世話をさせて佐太郎に構わなくなってしまった。不自由な暮らしではなかったが、佐太郎はこの家にいない男になってしまった。まるで透明な子供だった。


佐太郎は四つの初夏、トラ婆さんに連れられて道場へやって来た。

女子おなごの様な子だ」と蔑むさげす日下を黙って見ていたトラが悔しくて連れて来たのだ。

「佐太郎殿、トラは強い佐太郎殿を見とうございます。」

そう言って何年も送り迎えをしてくれた。

佐太郎がトラに為に強くなろうとしたことは言うまでもないが、十歳になる前にトラは死んだ。

その頃には佐太郎が道場通いで、家に居ようと居るまいと家族は気にも留めなくなっていた。


長い間、透明だった佐太郎をこの世に呼び戻したのは兵助だった。

年齢が近い二人は出会った時の背丈は同じぐらいだった。しかし兵助の弱々しい姿は風邪一つもらった事の無い佐太郎には滑稽こっけいいだった。

顔は青白く、時に咳が止まらなくなり稽古けいこの列から離れて倒れていた。倒れると決まって次の日には兵助の父親が「道場通いを辞める」と言ってくる。

しかし2日もすると「熱は下がりました」と言って兵助は一人で道場に現れた。

佐太郎は妙な親子だと蔑さげすんでいたし、兵助の事も今に現れなくなると決めつけて気にも留めずにいた。しかし半年程した頃に、兵助は佐太郎の籠手を打った。

同年代の門下生に一本を取られたのは久しぶりだった。

驚いて兵助の顔を見た。

「佐太郎さん、一本です」

兵助は狙っていたと言う自身満々の笑顔だった。

面白いヤツがいる。そう思った。

この時の笑顔が佐太郎をこの世に呼び戻した。

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