第2話
再び屋根に上がった兵助は遠見筒で炎が上がる三十丁の町を見ていた。
裸眼で眺めていた時とは違い街の様子が細かく見えた。
各町の火消が三十丁に終結している。
類焼を防ぐために、まだ燃えていない隣近所の家を打倒し始めている。
打倒される前に少しでも家財や食料を運び足す者、家を倒されまいと火消に掴みかかり蹴倒される者もいた。火元から少し離れた家には、これでもかと水をかける。戸板や屋根にもしっかりと水を沁みこませる事で火の粉による飛び火する事を防ぐのだ。
当時の消防は火を消す意識は無い。とにかく類焼を防ぎ被害を最小に抑える事が火消の役目とされていた。
火事場はいつでも悲惨だ。
兵助は切ない思いに目を伏せた。
そして、何気なく火が上がっていない荒川を挟んだ風下の村を見た。
兵助の村から更に風下に当たる隣の村だ。そこには剣術道場がある。
火事場の悲惨な光景をみた反動と言うべきか、何となく楽しい思い出しかない道場の景色に目をやった。
新月の夜には暗闇が広がり道場の屋根が見えるはずもない。
しかし、不意に道場の屋根が見えた…。
道場から更に風下で爆発が起こったのだった。
遠見筒で見ていた兵助には爆発の閃光の中に忍び装束を着た者達の姿がはっきりと見えた。
「火つけか!!」
短くつぶやくなり屋根から降りた兵助は腰に大刀を提げて猛然と走り出した。
走りながら、今しがた目撃した者どもの事を考察している。
「忍び装束だった。しかし妙だったのは頭には傘を被っていた。しかも面頬をつけているように見えた。数は四人」
兵助はまっとうな商人であり忍者や武士に詳しいわけではない。しかし、忍者が傘を被り面頬を装着するなど聞いた事が無い。
「三十丁の火事も放火か?
そうだとすれば今見た悲惨な火事は劣りであり、この方角での火事に本当の狙いがあるのか?」
ここまで考えると怒りが更に膨れ上がった。
兵助にとって火事は敵なのだ。
ユキの父を奪ったのも火事だった。あの笑顔しか見せないユキから一時でも笑顔を奪ったのは火事だったのだ。
「奴ら、許せん」
一層速度を上げて火の手が上がった村に走った。
道場が見えて来たころ兵助は冷静に戻っていた。怒りは剣を曇らせる事を兵助は知っている。
どんなに格下の者と対戦しても冷静を欠いている時には一本取られるのである。
ましてや相手は見えただけでも四人いた。もしかすと、もっと人数がいる可能性が高い。
「殺すしかない」
道場の横を通り抜ける時には覚悟を決めていた。
手傷を負わせる程度の攻撃では背後からの反撃に合い十中八九、兵助が死ぬ。
不意に二つの足音が聞こえた。
一瞬、後ろからの攻撃に備えたが、よく知った声が聞こえた。
「おい兵助」
「ひょうすけ」
兵助は自宅から道場までのを汗一つ流さず走ったが、二人の声を聞き始めて立ち止まった。
声の主は、武家の三男で佐太郎と言う。佐太郎は兵助が修行した道場の門下生だ。
先月十八歳になったばかりだが道場に入ったのは兵助よりも1年早かった。
もう一人は、佐太郎の弟で与太郎だった。まだ十歳になったばかりだ。
「兵助、血相変えてどこまで行く?」
佐太郎はすでに刀を腰に提げていた。
この二人も遠見筒をもって火事を見ていたらしく、これまた大刀を腰に兵助が走って来る兵助をいち早く見つけた。
「この火事、放火だ。奴らをこらしめてやる。」
兵助は軽く言った。
できれば、この兄弟を連れて行きたくない。
「火つけする様な奴等だ。二三発殴って番屋に突き出してやる」
「ふん、二三発ねぇ。」
佐太郎が腰に提げた大刀をチラりと見ている。
佐太郎に嘘は通用しないと思った。
「助太刀するぜ?」
「おいらも」
佐太郎はともかく与太郎を連れて行くわけに行かない。
兵助はいかにも重要な事を話すように与太郎に言った。
「与太郎、頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」与太郎は真面目な顔で聞いている。
「まずは道場に置いてある笛を持って、あの杉の木に登ってくれ。お前さんは夜目が効くかい?」
「はい、よく見えます」
与太郎は自分も仲間に入れてもらえたと感じたらしく言葉遣いまで変わっている。
「そうか!ではこの道を登って来る者が現れたら空に向かって笛を吹いて知らせてくれ」
「私は見張り役ですね」
武士の子らしい物言いで頼もしく感じた。
「そうだ、俺たちは強いが背後から襲われるのは困るんだ」
「わかりました」
「それから笛を吹くのは奴らが通り過ぎて角を曲がってからだ。
笛を吹いたら笛は地面に投げ捨てて木の高い所に登るんだ。
絶対に降りてはダメだぞ。いいな?」
「はい、わかりました」
もう道場の中へ走り出している。
「与太郎、しっかり着物を着こんでおけよ」
兵助の細かい作戦を聞いていた佐太郎は涼しい顔で微笑んでいたが内心は緊張に包まれていた。
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