兵助の剣 -疾風と炎編-

星島 雪之助

第1話 兵助

江戸に乾いた寒風が吹く時期がくると人々が恐れる事がある。

それは火事だ。

村には至る所に防火水槽が置かれ、所々に広い道を作り延焼を防ぐ工夫がされていた。

それでも火事が起これば一帯が焼け落ちる事は珍しくなかった。

江戸の町からそれほど離れていない兵助の村も同じで、頻繁に起こる江戸の火事に巻き込まれぬよう防火の意識は高かった。


兵助は十九歳になった。

商売人の家に生まれたが兵助には剣術の才能があった。

少し小さな体で生まれた兵助は、ひ弱で七歳になるまでは何度も死にかけ「今夜が峠です」と二度言い渡されたが生き延びた。

七歳を迎えたのを機会に剣術道場へ父親に連れて行かれた。稽古を重ねるうちに徐々に体は強くなった。

今では道場一の腕前と評されている。兵助は、とにかく道場へ通い稽古を重ねて来たのだが5年前から家業の旗問屋で働くようになり、最近は店の者たちに信頼を預けられるようになっていた。


二月の最も冷え込む夜、あの大火は起こった。


この日の昼過ぎに強い風が吹き始めた。

村の者たちは、日が暮れる前に家々の窓を固く閉ざし火の始末をした。

村の世話役たちが防火水槽の水を確認し、神社にある線香の火まで念入りに消して回っていた。

当然、兵助も店回りの戸を立てて使用人達にも用心するように伝えた。

台所の女達は兵助が様子を見に行く前に夕食の支度を終え、水甕を満水にして備えていた。

「さすがだな」と感心している所へユキが声をかけた。


「兵助さん、今日は早めに戸締りしましょうね」


ふり返るとユキが、いつもの笑顔で立ったていた。

ユキは真面目な顔をしている時も笑顔に見える女だった。

口角が上がっているからなのだが、いつでも機嫌のよい顔に見える。

年は十六歳になったばかりだった。


「何か良いことでもあったのか?」

兵助はユキを見ると同じことを言う。

「まぁたー! なにも良い事なんで無いです。今日は早く火の始末をする為に忙しかったんですから」

ユキが口を尖らせて見せたが、やはり笑顔に見える。

「お前、女子おなごで良かったな。」

「どうして?」

「男だったら、なめられるからな。そんなに、いつも笑っていたら」

「笑ってません」

兵助はユキとの、こんなやり取りが好きだった。


兵助とユキは来春に祝言が決まっていた。

十九歳と十六歳の結婚は、当時では決して早くない。どちらかと言うと晩婚と言えた。

ユキが父親に連れられて初めて旗染物屋にやって来たのは十四歳の時だった。

兵助の方は、剣術三昧から家業の修行に重きを置きはじめて三年目入った頃の事だった。

突然、客間に呼ばれてユキを紹介された。

兵助は少々気後れしたがユキを見て一遍に気に入った。

二人の親は旗問屋と呉服屋だから縁談で互いの商いを大きくする算段が付いていたのだろうが、若い二人は互いに顔をチラチラと盗み見しては恥ずかしがるばかりだった。

この縁談は、すぐに決まり翌々月に祝言をあげる運びとなったのだがユキの父親が仕入れの為に出向いた京の町で火事に合い死んでしまった為に延期となった。

この時ばかりは、いもつ笑っている顔のユキから笑顔が消えた。

縁談も無かった事になりかけたが兵助は頑として破談を拒みユキだけでなく母や呉服屋の奉公人まで全て引き受けると言い張った。

元々、大所帯だった兵助の家はさらに多くの人間を養う事になり呉服の分野にも商いを広げる為、祝言の日取りは未定のまま二年が過ぎた。

そして兵助はすっかり旗屋の主として貫録を身につけ、商いも軌道にのったと判断し来春の祝言を決めた。


「ユキ、春には祝言だな」

兵助は決まっている祝言のことを言った。

「はい、春には祝言ですね」

ユキも幸せをを噛みしめるように返事をした。



この日、兵助の村から離れた江戸の三十丁辺りから火災は起こった。

(現在の墨田区にあたる地域)


まだ誰も気づかぬうちに兵助は胸が騒いで屋根に上がっていた。

初めは煙だけが立ち上がっていたが赤い炎が上がりはじめた頃に、火事を伝える半鐘はんしょう(火消の鐘の音)が日暮の村にも聞こえて来た。

兵助の住む集落は蓮尺町れんしゃくちょうと呼ばれる商人の町で、風上には中尺町、大尺町と言った新たな町が生まれ賑わっていた。この界隈の商人は、江戸の武家の者を客とする商売人なのだ。

当然、まわりの家々も屋内には多くの売り物を抱えているのだから、火の位置と風向きには敏感だった。

半鐘の音を聞きつけて、皆が屋根に上り火事の様子を見ていた。

兵助の考察では、乾いた北風が強く吹いていたが集落は風上にあたり尚且つ荒川を挟んでいることから火は届かないだろうと思った。

しばらくの間どの商人達も同じように観察していたが、火の位地と風向きを確認すると寝床へ戻って行った。


「兵助さん」


見るとユキが羽織を持って庭に出て来た。

丁度、身体が冷えた頃だった。

近所の者も戻った事だし床に入ろうかと思いながら屋根から降りた。

「ありがとう。寒い寒い。」

兵助はユキから羽織を受けとり母屋に入っていった。


「まだ部屋に戻りませんか?」


そう声を掛けられて不思議に思った。

母屋に入ったにも関わらず兵助は片手に遠見筒(望遠鏡)を持っていた。

「あれ?」自分でも不思議に思ったが、なんとなくバツが悪くて再び火事を眺める事にした。


「ユキ、火はこちらには来そうにないから先に床にはいりな」


受け取った羽織に袖を通しながら遠見筒を懐に入れた。

「はい」眠そうな目をしたユキは、やはり笑顔に見える。

「おやすみ」

ユキが寝所に下がる姿を確認し兵助は庭へ出た。

その時、無意識に大刀を手にした自分に再び驚いた。


「なにかある・・・」


その核心だけが胸にあった。

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