第17話

 僕らは並んでベンチに座っていた。

 ちら、と真白さんの顔を盗み見た。

 その横顔はいつも通りというか、むしろすっきりしたような感じにも見えた。

 僕らは手を繋いだまま、肩を寄せ合って座っていた。

「たぶん、お兄ちゃんから事情はだいたい聞いてるよね」

「……うん。お父さんと喧嘩したって」

 頷いた。

 真白さんは少し笑った。

「前にも少し言ったことあるけど……わたしさ、本当にお父さんとすっごく仲が悪いの。普段はほとんど口も聞かないくらい。たまに話すことがあっても、だいたい喧嘩になっちゃうんだよね」

「……そうなの?」

 僕は自分の目で見た、真白さんのお父さんのことを思い浮かべた。

 確かに第一印象は怖そうに見えたけど……弱々しく浮かべた笑みが、どうしても頭から離れなかった。

 僕にはあの人が、そんなに怒るような人には思えなかった。

「うん。それに家族よりも仕事優先だしね。昔から、家にいることなんてほとんどなかったし」

 僕は真白さんのお父さんのことを思い浮かべた。

 ……確かに、第一印象はそんな感じだったかもしれない。

 でも、あの弱々しい笑みでそんな印象は全て消えた。僕の見てきた真白さんのお父さんは、何だか人の良さそうなおじさん、という感じだった。

「……お母さんが死んだ日だって、お父さんはいつまで経っても病院に来なかった」

「え?」

 振り返ると、真白さんは静かに怒っていた。

 僕が初めて見る彼女の顔だった。

 でも……それは一瞬だった。

 彼女の見せた怒りは、すぐに仕方ないという感じの笑みに変わった。

「……わたしのお母さんね、小さい頃に死んじゃったの。心臓の病気でね。移植をすれば助かる見込みはあるってお医者さんは言ってたけど、でも結局、ドナーが見つかることはなかった。でもね、お母さんはこれでいいんだ、って言ってたんだ。ドナーが見つかって自分が助かっても、それは誰かが代わりに死んだってことだから、だからこれでいいんだ――って」

「……」

「お母さんが危なくなった時、病院はすぐにお父さんに連絡をとった。でも、お父さんはいつまで経っても来なかった。お母さんがあんなに苦しんでたのに、お父さんは来てくれなかった。お父さんが来た時には、お母さんはもう死んでた」

「……」

「それからかな。わたしとお父さんがほとんど口を聞かなくなったのは。わたしにはお父さんのことが分からなくなった。お母さんが好きじゃなかったのかって。じゃあなんで結婚なんかしたんだって――そんな感じで、喧嘩することは昔からけっこうあったの。でもね、あの日はちょっと……いつもより言い合いになっちゃって」

 ……その時、彼女の手を通して〝何か〟が流れ込んできた。

 見たことのない光景だった。

 知らない家の中で、真白さんが誰かと言い合いしていた。

『お父さんってなんでいつもそうなの!? わたしのことなんてどうでもいいくせに、いちいち口出しなんてしないでくれる!?』

『口出しするなだと? 親に向かってなんて口の聞き方をする!?』

『うるさい!!』

 真白さんが一際大きな声を出すと、真白さんのお父さんは気圧されたように口を噤んでしまった。

 彼女の目からは涙が溢れていた。

『……もう嫌。こんな家いたくない。出て行ってやる』

 彼女がそう言うと、相手も声を荒げた。

『なら出て行け! もう戻ってくるなバカ娘!』

『……!!』

 真白さんは家を飛び出していった。

 そこで映像が少し飛んだ。

 とぼとぼと……と、夜の街を歩いている真白さんの姿が見えた。制服姿のままだ。

 雪が降っていた。

 地面にはうっすらと積もっていた。

 ふと彼女は立ち止まり、赤く腫れ上がった目で何も見えない夜空を見上げた。

『……お母さん』

 そう呟いた時だった。

 いきなり目の前が眩しくなった。

『――え?』

 ……そこで、映像は途切れた。

 ハッと我に返った。

 い、今のは……?

 まるで白昼夢でも見たようだった。

 真白さんの話は続いていた。

「……わたしは思わず家を飛び出して、運悪く雪でスリップした車に轢かれた。それでね、気がつくと地面に倒れている〝自分〟を見下ろしてたの。。何がどうなってるのかはよく分からなかったけど……でも、もしかしてこれが死後の世界ってやつなのかなって。そうするとね、あそこに〝光〟が見えるようになったの。ソータくんには見えるかな。あそこにあるんだけど」

 真白さんは空を指差した。

 もちろん、そこには〝光〟なんて存在しない。真っ暗な夜の空があるだけだ。

「……いや、何にも見てないけど」

「じゃあ、やっぱりちゃんと生きてる人には見えないんだね。ほら、たまに雲の隙間から太陽の光が地上に差し込んでくるのが見える時ってあるでしょ? あれって天使の階段って呼ばれることもあるって知ってる?」

「天使の階段?」

「そう。そういう〝光〟がね、今もあそこから地上に向かって差し込んでるの。あの〝光〟を通るとね、天国に行けるんだよ?」

「天国……?」

「うん。わたし、実は一度そこまで行ったんだけど……追い返されちゃったのよね。お前はまだ死んでないからダメだ、って。最初は何言われてるのかよく分かんなかったんだけど……慌てて戻ったらさ、わたし死んでなかったのよね。ベッドに寝かされててさ。もう笑っちゃうよね、ほんとさ。とんだ大恥かいたよ」

 彼女はなんだか自虐的な笑みを浮かべた。

「……結局、わたしは死んでるわけでもなく、生きてるわけでもなく、こんな中途半端な状態になっちゃったんだよね。もちろん、誰にもわたしのことなんて見えない。声だって届かない。何をしたって無駄……だから、ここに座ってただぼうっとしてるしかなかった。それ以外にすることなんてなかったから」

「……」

 ……そうか。

 そうだったのか。

 だから、真白さんはずっとここにいたのか。

 つまり――

「ま、これはさ、きっとわたしへの罰なんだろうね」

「……罰?」

「そう。わたしさ、ソータくんの前ではずっと猫被ってたけど……本当はすごい性格悪いんだ。だって小さな時のわたしは、お母さんが死ぬくらいなら、見知らぬ誰かが死ねばいいって本気でそう思ってたんだから。だからきっと、これはその罰なんだよ。そう思うとさ、まぁこうなったのも当然なのかなって。だから、これでいいんだよ。これでいい――そう、これで」

 これでいい。

 それはまるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

 ぎゅっと真白さんが僕の手を強く握った。

 彼女は僕を見て、僕のよく知っている笑顔を見せた。

「でもね、そうしたらさ、ある日突然、君が声かけてきたんだもの。あれは本当にびっくりしたなあ……何か話しかけられてるような気はしたけど、どうせ気のせいだと思ってた。でも、気のせいじゃなかった。君はわたしを見て、わたしに声をかけてくれた。君とふれあった瞬間、わたしの世界が変わった。本当に、奇跡みたいだった」

 彼女が泣き笑いのような顔で僕を見ていた。

 その顔が、雪の中で泣いていた女の子と、どうしても重なって見えた。

「……真白さん」

 彼女の手を通して、色んなものが伝わってきた。

 胸が苦しくなった。

 痛いくらい締め付けられて、涙が出てきてしまった。

「え? ど、どうしたのソータくん? なんで泣くの?」

 真白さんが慌てた。

 でも、僕は流れてくるものを止めることができなかった。

「ごめん、ごめん真白さん……僕がもっと早く君に声をかけてたら……もっと早く、この手を握ってたら……本当にごめん」

「そんなのソータくんが謝ることじゃないよ」

「……僕さ、本当は去年の秋ぐらいから、君がここにいるのを見かけてたって、前に言ったよね?」

「うん」

「……最初は本当に何気なく、可愛い子がいるなって思っただけだった。それからここを通る時に、いつも君がいることに気がついた。ずっと何してるんだろう、って思ってたんだ。ここ、本当は通る必要なんてないのに、わざわざ通って君のこと見てたんだ。あんな子と付き合えたら楽しいだろうなって、そんなこと考えてたんだよ」

「……ソータくん」

「はは、僕ってバカだよね……」

 思わず自分で自分に笑ってしまった。

 僕は彼女の気持ちも境遇も何も知らず、一人で脳天気にそんなことを考えていたのだ。

 もし時間が戻せるのなら、僕はそんな自分をぶん殴ってやりたかった。

 僕は乱暴に涙を拭った。

「ねえ、真白さん。それじゃあ……真白さんは、僕とわかれた後、いつもどうしてたの?」

「あー、えっと……それは」

 真白さんはちょっと口籠もった。

 僕はすぐに「まさか」と思った。

「……もしかして、ここにいたの?」

「うん、まぁ……」

「次の日に僕と会うまで、ずっと……?」

「まぁ、そんな感じかなぁ」

 はは、と彼女は笑った。

「だって、他に行くところもないしね。ここで寝て、朝になったら起きて、君が来るのを待ってた。まぁ幽霊なのに寝るのかって言われそうだけど……眠くはなるんだよね。自分でもやっぱりよく分からないんだけどさ。あはは」

「……!!」

 気がつくと真白さんを思いきり抱きしめていた。

 うえ!? と彼女は驚いた声を出した。

「ど、どうしたのソータくん!?」

「……ごめん。ごめん、僕なんにも知らなくて、一人だけ浮かれてて……」

 拭ったはずの涙がまた出てきた。

 止められなかった。

 僕には真白さんに触れる資格も、抱きしめる資格もない。

 それでも彼女を離したくなかった。

 ……彼女はここにいる。

 ここにいるんだ。

「……もう、泣き虫だなあ、ソータくんは」

 真白さんは優しく僕を抱きしめてくれた。

 僕が泣き止むまで、真白さんはずっとそうしてくれていた。

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