4,繋いだ手を離さない

第16話

「……」

 混乱していた。

 頭がうまく働かない。

 さっき病室で見たものが、未だに信じられない。

「ほら」

 目の前にカフェオレ缶を差し出された。

「あ、どうも……」

 受け取ったカフェオレの缶はとても温かかった。

 お兄さんが隣に座った。彼はブラックコーヒーだった。

 カフェオレに口をつけた。

 それで少し、心が落ち着いた。

「……混乱してるかい?」

「ええ、そりゃもう……訳が分からないですよ」

「それはボクも同じだ」

 お兄さんがコーヒーに口を付けた。

「……真白さん、いつからあそこにいるんですか?」

「去年の2月ごろだ。その頃からずっと、真白は意識不明の昏睡状態――ようするに植物状態だ」

「去年の? じゃあ、それって一年以上前、ってことですか?」

「ああ、そういうことだ」

「いや、ちょっと待ってください……僕、今年の2月ぐらいから真白さんと毎日会ってたんですよ。それに昨日だって――」

「そう、確かにそうだ。ボクだって見たよ。だから混乱してるし、こうして君と会ってるんだ」

「……」

 頭の中がこんがらがった。

 ……真白さんが1年以上前から植物状態?

 じゃあ、僕が会っていた〝彼女〟はいったい誰なんだ?

 ベッドで眠っていたのは、間違いなく真白さんだった。見間違えるわけがない。

 僕のよく知っている、あの真白さんだったのだ。

「……その、どうして真白さんは?」

「事故だよ」

「事故?」

「ああ」

 お兄さんは頷いてから、少し思い返すように遠くを見た。

「……あの日、父さんと真白ましろが喧嘩してね。それで真白ましろが家を飛び出して行ったんだ。あの時はこの辺にしては珍しく、雪が降った日だった。そのせいでスリップした車が歩道に突っ込んで、たまたま歩いていた真白ましろが巻き込まれたんだよ」

「……そんな」

「一時は本当に生きるか死ぬかだったけど、何とか一命はとりとめた。でも……それから一年以上、今も目を覚ましてない」

「……」

「身内の恥を晒すようだけど、真白ましろと父さんは昔からあんまり仲が良くなくてね。よく喧嘩はしてたんだ。でも、あの日の喧嘩はいつもとはちょっと違ったみたいでね……僕は家にいなかったから具体的には知らないけど、真白ましろはそれで家を飛び出して、事故に遭ってしまった。あれ以来、父さんは本当に後悔してる。自分のせいで真白ましろがあんな風になってしまったんだ――ってね。昔から忙しい人で、家にはほとんどいなかった。家族よりも仕事を優先する人だった。でも、今はどれだけ忙しくても、絶対に真白ましろのお見舞いに来るんだよ。今日みたいにね」

 僕はさっき見た、真白さんのお父さんの顔を思い出した。

 最初は怖い人かと思ったけど、弱々しく見せた笑みでその印象はすぐに変わった。

 ……疲れた顔だった。

 そう感じた。

 喉が、口の中が、からからに渇いていた。

 僕はカフェオレを一口飲んだ。

「……でも、それじゃあ僕が会っていた真白さんは、いったい誰なんですか?」

「……分からない。でも、あの子は確かに真白だと思う。ボクが真白を見間違えるはずがない。でも、真白は1年以上前からずっとここであの状態だ。だから普通に考えて真白であるはずはないんだが……葉月くん、お願いがある」

「お願い?」

「ああ、僕を〝彼女〟に会わせてくれないか? 〝彼女〟はいま、どこにいる?」

「それは……」

 スマホで時計を確認した。

 ……もうとっくに日が暮れている。

 でも、もしかしたらまだ〝彼女〟はあそこにいるかもしれない。

 僕は少し考えてから、お兄さんにこう言った。

「……すいません。その、僕自身もちょっと混乱していて……明日また、改めて連絡させてもらっていいですか?」

 お兄さんは黙って、真っ直ぐに僕を見ていたけど、

「……分かった。じゃあ、ボクの連絡先を教えておくよ」

 と、そう言ってくれた。

 僕はお兄さんと連絡先を交換した。

「今日は本当に、いきなり悪かったね。家まで送るよ」

「あ、いえ、そんな悪いですよ。こっからだと遠いですし」

「遠慮しないでいいよ。ボクが無理言って来てもらったんだから」

 と、お兄さんは甘いマスクにイケメンスマイルを見せた。

 ……これが本物のイケメンというやつか。

 格の違いを見せつけられたような気がした。

「……えと、それじゃあ駅まで送ってもらってもいいですか?」

「わかった。どこの駅だい?」

「城北駅です」

 ……僕はこの時、言葉にならないような焦燥感にみまわれていた。

 早く〝彼女〟の元へいかなければならない。

 強くそう思っていた。


 μβψ


 がつん、と思いきり頭を殴られたような衝撃があった。

 一瞬、目の前が揺れたように感じた。

 もちろんそれは気のせいだった。揺れたのは多分、僕の心のほうだ。

 さっき見てきたものが脳裏をよぎった。

 ベッドで眠っていた女の子。

 あれは確かに、紛れもなく真白さんだった。

 そう、真白さんだったのだ。

 ……じゃあ、ここにいる真白さんは?

 ここにいる〝彼女〟は、いったい誰なんだ?

 真白さんは立ち上がり、少し歩いて僕に背を向けた。

「やっぱり、お兄ちゃんでしょ? 昨日見られた時からちょっと嫌な予感はしてたんだよね。それでソータくんも今日全然来てくれないし……だから、今はああそうかって感じ。でも、まさかこんなに早くバレるとはなぁ……もう少しだけ、時間があると思ってたのに」

 真白さんが振り返った。

 彼女は困ったような笑みを浮かべていた。

「ああ、先に言っておくとね、わたしも今の自分がどういう状態なのか、それはよく分かってないの。まあようするに幽霊みたいなもの……って言えばいいのかな」

「……幽霊?」

「ほら、幽体離脱って聞いたことあるでしょ? たぶん、そんな感じなんだと思うんだ。だからね、わたしは〝本物〟じゃないの。普通は誰にも見えないし、ましてや触れることなんて出来ない。出来るはずがないの。だってさ、そもそも存在してないんだから。それが当然だよね」

「……でも、僕は」

「そう、でもソータくんにはわたしが見えてる。それに、わたしに触ることだって出来る。不思議だよね。それにさ、ソータくんがわたしのことを見てくれてる時は、他の人にもわたしのことが見えるようになるんだ。わたしも、物を触ったりすることができるようになる。これって奇跡みたいだよね? 最初、自分でも何が起きてるのか分からなかったもの」

 一瞬、僕は初めて彼女と一緒にマックへ行った時のことを思い出した。

 ――奇跡みたい。

 そう言って、真白さんは飛び跳ねるように喜んでいた。

 本当に嬉しそうだった。

 僕はそのことをはっきりとよく覚えている。

「……でも、まぁそうだよね。いつかはバレるだろうって思ってた。本当はね、騙すつもりなんてなかったの。ちゃんと言わなきゃって思ってたんだけど……もしソータくんが会ってくれなくなったらどうしようって考えたら……そう思うと、とてもじゃないけど怖くて言えなかった。だって幽霊だもん。普通に考えて気味悪いよね?」

 えへへ、と真白さんは無理矢理、下手くそな笑みを見せた。

 ……それはどう見ても、今にも泣きそうな顔に見えた。

「ごめん。今まで嘘吐いて、騙してごめんなさい。ソータくんのおかげでわたしは楽しかったよ。それじゃ――ばいばい。もう二度と、君の前には現れないようにするから」

 再び彼女が僕に背を向けた。

 ……もし。

 もし、ここで僕がただ立ち尽くして彼女を見送っただけだったなら、本当に彼女は二度と僕の前に現れなかったかもしれない。

 彼女が目の前から消える。

 彼女と会えなくなる。

 そんなのは――そんなのは、絶対に嫌だった。

 そう、理屈とか理由なんてどうでもよかった。

 それだけは絶対に嫌だと思ったのだ。

 だから、あれこれ考える前に身体が動いていた。

 僕は後ろから、半ば強引に彼女の手を握った。

「……え?」

 彼女が驚いて振り返った。

「真白さん」

「な、なに?」

「……この際さ、君が幽霊かどうかなんて僕には関係ないし、何の意味もないんだ」

「え?」

「だってさ……僕には君が見えてるし、こうして触ることができるんだ。だったらさ、それのどこに〝嘘〟があるっていうの? これが〝本当〟じゃなかったら、僕はもう何も信じられなくなっちゃうよ」

「……ソータくん」

「他の人に見えてるかどうかなんて、僕には関係ない。だって、僕には君が見えているんだから。じゃあ、それ以外の答えなんてない。いまここにあるものが〝本当〟だよ。僕は騙されてなんてない。だから、君は誰も騙してなんてない」

 思わず手に力が入ってしまった。

「……」

 真白さんはじっと僕を見つめていた。

 ……やがて彼女は控えめに、僕の手をほんの少しだけ握り返してくれた。

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