第15話

「本当にすいませんでした……」

「いや、構わないよ。はは、いやでもまさかそんなふうに勘違いされてるとは思わなかったよ」

 と、お兄さんはイケメンスマイルで許してくれた。

 ……いや、イケメン過ぎでしょ。

 その上、何だか優しそうな雰囲気の人だった。

 ……は、恥ずかしい。

 この人のことを元彼だとか許嫁だとか勘違いして、勝手に敵視していた自分がものすごく恥ずかしい……。

 陽介と信一、あいつらだけは絶対に許さんぞ!(責任転嫁)

「……あの、それでお兄さん。どうしてわざわざ僕に会いに?」

「それはもちろん、昨日の真偽を確かめるためだ。正直、ボクは未だに自分の見たものが信じられないんだよ」

 お兄さんはコーヒーを一口飲んで、真面目な顔をした。

「えと、信じられないっていうのは……?」

「その前に、君の知ってる〝彼女〟について教えてもらえないか?」

「え? ええ、いいですけど……」

 僕は知っている限りのことを話した。

 話せば話すほど、お兄さんの顔は険しくなっていった。

「……やっぱり、とても他人とは思えないな。君の言う〝彼女〟はボクのよく知っている真白だ。やっぱり見間違いなんかじゃなかったんだ」

「……あのう」

「ん? なんだい?」

「いえ、その……さっき、お兄さんは令月れいげつって言いましたよね? でも、何で妹の真白さんが高宮なんですか?」

「高宮っていうのは、母親の旧姓なんだよ。たぶん、それで高宮って名乗ったんじゃないかとは思うけど……もちろん、真白ましろも本当は令月れいげつが苗字だよ。まぁ君の言う真白ましろが〝本物〟なら――の話ではあるけどね」

「……本物なら? それってどういう意味ですか?」

「……さっきも言ったけど、ボクはまだ信じられないんだよ。混乱してる、と言ってもいい。ボクが昨日見たのは間違いなく真白ましろだったし、君が言う〝彼女〟も間違いなく真白ましろだと思う。自分の妹のことだ。間違えるわけがない。でも、そんなはずがないんだ。あり得ないんだよ、それは」

「何があり得ないんですか?」

 ……何だか胸騒ぎがしていた。

 それと言うのも、お兄さんの様子が明らかにただ事ではなかったからだ。

 お兄さんはしばらく険しい顔のままで黙り込んでいたけど、

「今から面会に行く。一緒に来てくれ」

 と、いきなりそんなことを言った。

「え? 面会? 誰に?」

「来れば分かる」

「あ、ちょっと!」

 お兄さんは残りのコーヒーを一気に飲んで立ち上がると、さっさと会計を済ませてしまった。

 僕は訳が分からなかった。

 でも、この時点で言葉にできない予感のようなものがあった。

 ……踏み込んではいけない。

 これ以上はダメだ。

 この『境界線』を越えてはならない。

 そう、誰かが僕に言っているような気がした。


 μβψ


 やって来たのは大きな総合病院だった。

 来るのは初めてだったけど、名前は知ってる。このあたりでいちばん大きな病院だ。

「……何で病院に?」

「ついてくれば分かる」

 僕はお兄さんの後についていくしかなかった。

 正面玄関から入り、エレベーターで病棟まで移動した。

 そのまま院内を進むと、やがて一つの部屋にたどり着いた。

「この部屋だ」

 お兄さんがドアを開けようとすると、ちょうど中から人が出てきた。

 男の人だった。

 年齢は母さんと同じくらいだろうか。パリッとしたスーツを着ていて、オールバックで、ちょっと怖そうな印象の人だった。

 ……ん?

 何だろう、この人……最近どっかで見たことあるような気がするけど……?

 僕がそんなこと考えていると、お兄さんがちょっと驚いたような顔をした。

「父さん。来てたんだ」

「……ん? ああ、史郎か。お前、大学はどうした?」

「あー、えっと。今日は講義が午前中だけだったんだ」

「そうか。ならいいが……ん? そっちの子は?」

 男の人がこっちを見た。

 お兄さんがとっさにこう言った。

「彼は真白ましろの友達だよ」

「友達? 真白ましろの?」

 じっと見られた。

 ちょっとたじろいでしまった。

 けっこう目付きが鋭かったからだ。

 僕は慌てて頭を下げた。

「は、はい。えっと、葉月蒼汰って言います」

「……」

 やけにじっと見られた。

 ……あ、あれ? もしかして怒ってる……?

 そう思ったけど、男の人はふと表情を緩めた。鋭い目付きがちょっとだけ柔らかくなった。

「……そうか。真白ましろの友達か。あいつに男の友達なんていたんだな。知らなかったよ。葉月くん……だったか。お見舞いに来てくれたのかい?」

「あ、はい」

「そうか。真白ましろも喜ぶよ」

 男の人は少し笑った。

 それは何だかやけに疲れたような顔に見えた。

 見たところそんなに歳じゃないはずだけど……その弱々しい笑みは、何だか少し老けて見えた。

「それじゃ、わたしは仕事があるから戻る」

「うん。分かったよ、父さん」

 男の人は立ち去っていった。

「……今の人、お父さんなんですか?」

「うん。父さん、いま仕事がかなり忙しいはずなんだけど……ああやって毎日、こうしてお見舞いに来てるんだよ」

「……仕事って何をしてるんですか?」

 気になったので何となく訊ねてみた。

 お兄さんはあっさりと教えてくれた。

「フィフス・クオリタスっていう名前聞いたことある? その会社の社長だよ」

「……え?」

 その時、僕はようやく思い出した。

 ……あ!?

 そ、そうだ。

 令月喜一郎。

 この間、ニュースで見た人だ。母さんの昔の同級生とかいう人だ。

 あの人が真白さんの父親だったのか。

「葉月くん。この部屋の中に、君に会って欲しい人がいる」

 お兄さんはとても真剣な顔をしていた。

 僕はちらとネームプレートのところを見たけど、そこには何の名前もなかった。

「……ここ、誰か入院してるんですか?」

「ボクの妹が入院してる」

「……え? 妹? それって――」

 心臓が早鐘を打ち始めた。

 これ以上は進むなと、やっぱり誰かが僕に言っているような気がした。

 お兄さんがドアを開けて、中に入った。

 まだ引き返せる。

「……」

 そう思いながら、僕は病室に足を踏み入れていた。


 μβψ


「はぁ……! はぁ……!」

 すでに夜だ。

 いつもなら、彼女とはとっくにお別れしている時間だった。

 さすがに、もういないかもしれない。

 いや、いないはずだ。

 きっと帰っている。

 そうだ、真白さんだってさすがにもう待ってはいないはずだ。

 

 そのはずだ。

「くそ!」

 それでも、僕は走った。

 いつもの場所にやってきた。

「はぁ……! はぁ……!」

 ……彼女はそこにいた。

 すぐに声がかけられなかった。

 息を切らせたまま立ち尽くしていると、彼女が顔を上げた。

「あ、来た」

 僕を見つけると、真白さんはにこりといつも通りの笑みを浮かべた。

 ……そう、いつも通りの笑みだった。

 怒っている様子もない。

 むしろ、彼女は嬉しそうだった。

「遅いよ、ソータくん」

「ご、ごめん」

「もしかしたら今日はもう来ないんじゃないかなって思ってたけど……でも、やっぱり来てくれたね」

「……ずっと、ここで待ってくれてたの?」

「うん。だって、ここで待ってないとソータくんと会えないもの。ソータくんと会わなきゃ、わたしの時間は動き出さないから」

 真白さんは笑っている。

 ……笑っているはずのに、泣いているように見える。

 そんな顔だった。

「……」

 僕は何か言おうとしたけど、何も出てこなかった。何を言おうとしても、喉の奥でつっかえてしまった。

 何か言わなきゃと思うほど、言葉は形を失っていった。

 おかしい。

 僕は沈黙を怖れなくなったはずだ。

 彼女との間にある沈黙は、あんなにも心地いいものだったはずなのに。

 僕はいま、この沈黙を怖れてしまっていた。

「……ううん。困ったな。その様子だと……やっぱり聞いちゃったよね?」

 真白さんの儚い笑みの中に、少し困ったな――という表情が混じった。

 僕から届いた沈黙が、彼女に何かの言葉を伝えたのだろう。

 やっぱり、と彼女は言った。

 その顔は、とうとう悪戯がバレてしまった子供のようでもあった。

 ……ダメだ。

 この話をしてはダメだ。

 これ以上、踏み込んではダメだ。

 変わる。

 変わってしまう。

 僕と彼女の関係が――決定的に変わってしまう。

「……聞いたって、何を? 僕は別に何も聞いてないよ」

 僕はつまらない嘘を吐いた。

 嘘と分かる嘘を吐いてしまった。

 すがるように嘘を吐いた。

 これで彼女が「そうなんだ」と言ってくれたら、僕らの関係はこのまま続くはずだ。

 でも、彼女はそう言ってくれなかった。

 真白さんは小さく首をふった。

「ううん。分かるよ。ソータくんの顔見てたらさ。君はもう、を知ってるはずだよ」

 聞きたくなかった。

 いまならまだ、何かの間違いで済む。

 でも、彼女の口から言ってしまったら、もう取り返しがつかない。

 やめてくれ。

 お願いだから。


が病院で眠ったままだってこと――もう、ソータくんは知ってるんだよね?」

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