第18話

 いつもより随分と遅く、僕は家に帰ってきた。

 もう夜の10時ごろだった。

 こっそりと玄関を開けた。

 ……よし、誰もいないな。

 今のうちに――

 そう思った時、リビングのほうから誰かがやって来た。

「あ、帰ってきたわね不良息子」

 母さんだった。

 ちょっと怒ったような顔だった。

「げ!?」

「げ、じゃないわよ、まったく。電話くらい出なさいよね」

「え? 電話?」

 慌ててスマホを見た。

 着信が五件も入ってた。

 ……しまった。

 慌てて謝った。

「ご、ごめん。全然気づかなかった」

「何のための携帯電話なのよ。で、何でこんなに遅くなったの?」

「そ、それは……」

「どうせ真白ちゃんでしょ?」

「ギクッ!?」

「まぁ遊んでて時間を忘れるのもしょうがないけどさ、遅くなるならなるでちゃんと連絡しなさいよね。それで、真白ちゃんは?」

「も、もちろん家まで送ってきたよ」

「ならいいけど……向こうの親御さんに心配させるようなことだけはするんじゃないわよ? いい?」

「う、うん。分かったよ。肝に銘じておくよ」

「ならいいわ。ご飯食べたの?」

「う、ううん。まだ」

「なら、冷蔵庫に入ってるから適当に食べなさい。わたしは風呂入ってるから」

「あ、うん」

 母さんは風呂場のほうに消えていった。

 ……ふう。

 僕は汗を拭った。

「真白さん、もういいよ」

 玄関を開けて、こっそり彼女を呼んだ。

「……ええと、本当にいいの?」

 遠慮がちに真白さんが家に入ってきた。

「いいも何も、真白さんを一人にしておけるはずないだろ」

 あんな話を聞いて、はいじゃあさようなら――と言えるわけがなかった。

 僕は真白さんを連れて帰ってきた。

 本人は遠慮したが、ほとんど無理矢理連れてきたような感じだった。

「でも、わたしソータくんと一緒だと周りに見えちゃうし……」

「見つからなきゃ大丈夫だって。ほら、行くよ!」

「う、うん」

 部屋まで静かにダッシュした。もちろん彼女の靴も忘れずに持って入った。

 ドアを開けた。

「ほら、入って」

「あ、うん」

 よし、家族には見られなかったな……と、ほっとした時だった。

「あれ? お兄ちゃん帰ってきたの?」

 夢子が部屋から出てきた。

「そおい!!」

 真白さんを部屋の中に突き飛ばして、急いでドアを閉めた。

 んぎゃー! と部屋から声が聞こえた。

「そおい!! そおおおおい!!」

 誤魔化すためにヤケクソで踊った。

「ど、どうしたのお兄ちゃん?」

「え? な、何が?」

「いや、何で部屋の前で踊ってるの?」

「あ、ああ、これ? いま学校で流行っててさ。練習してTikT〇kにあげようとおもって」

「そ、そうなの? そんな踊りが流行ってるの? すっごいダサいんだけど……」

「いかにダサく、キレよく踊るかがポイントなんだよ。お前もやる?」

「いや、遠慮しとく……」

 夢子は明らかにドン引きしながら一階に降りていった。

「……」

 ……ふう。

 危なかったけど、何とかバレずに済んだようだ。

 兄の尊厳と引き換えにしたような気はするけど……。

 僕も部屋に入った。

 真白さんがベッドの布団に頭から突っ込んでいた。

 ……めちゃくちゃ謝った。

「そ、その……本当にいいの? 部屋に泊めてもらって」

 真白さんは恐縮していた。

 僕は頷いた。

「もちろん」

「でも……迷惑じゃない?」

「迷惑なわけない。むしろ嬉しいくらいだよ」

「ソータくん……」

「あ、そうだ。お腹減ってない? 何か食べる?」

「う、ううん。大丈夫。ていうか別に食べる必要ないし」

「ん? そうなの?」

「うん。だってほら、わたし幽霊だし」

「あ、ああ、そうか。そうだったね」

「うん、そうそう」

 ははは、と僕らは笑った。

 そうか。食べなくても大丈夫なのか。

 確かに幽霊ならそうだよな。

 ……。

 ……ん?

「……あれ? それじゃあ、真白さんがこれまで食べた物ってどうなったの……?」

「え!?」

 真白さんが驚いたように顔を真っ赤にした。

「食べた物がどうなるかですって!? そ、そんなこと普通女の子に聞く!?」

「ええ!? いや、だって真白さんけっこう色々食べたり飲んだりしてたし……食べたら普通は――」

「もう! だからそういうこと言わないでよ! ソータくんデリカシーなさすぎ!」

「いや、これデリカシーとかそういう問題じゃなくない!? 科学的に疑問でしょ!?」

「科学じゃ解明できないことなんていくらでもあるのよ!」

 ……結局、疑問の答えを得ることはできなかった。科学って思ったよりも無力だ。

 それから12時前くらいになって、僕らは寝ることにした。

 部屋の中へキャンプに使う寝袋とマットを持ち込んだ。

「それじゃあさ、真白さんはベッドで寝てよ。僕は床で寝るから」

「い、いいよそんなの。わたしが床で寝るし」

「いいからいいから」

 僕は真白さんをベッドに座らせて、自分は寝袋にもぐりこんだ。

 それでようやく彼女も諦めたのか、もぞもぞと布団の中に入り込んだ。

「それじゃお休み、真白さん」

「……うん、お休み」

 リモコンで照明を消した。

 部屋が暗くなり、とても静かになった。

「……」

 ごろん、と寝返りをうってベッドに背を向けた。


 って、寝られるわけがねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 ギンギンに目が冴えていた。

 真白さんと同じ部屋で寝る????

 いや、寝られると思う????

 今の今まで表向きは何でもないふうを装っていたけど、ここに来て一気に色んな物が押し寄せてきた。

 彼女が幽霊だろうが何だろうが、僕には見えるし、触れることができる。

 真白さんはちゃんとそこにいるのだ。

 彼女の気配がすぐそこにあるのに、これで寝られるほど僕の心臓に毛は生えてない。

 ……いや、寝ろ。寝るんだ。

 素数を――って、素数は分からないから羊でいいや。

 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹――

 その後、僕は羊を数え続けた。

 そして、だいたい三百匹ぐらいまで数えた時だっただろうか。

「……ねえ、ソータくん。寝ちゃった?」

 真白さんの控えめな声が背中から聞こえた。

 今まで数えた羊が全部逃げ出した。

 ああ!? 羊が!? 全て柵の外に!?

 思わずびくりとしてしまったけど、僕はとっさに返事を返すことができなかったし、後ろを振り向くこともできなかった。

 だから、彼女は僕が眠っていると思ったのかもしれない。

「……ありがとう」

 真白さんは、小さな声でそう言った。

「……」

 それからしばらくして、僕もようやく眠りに就くことができた。


 μβψ


「ソータくん、朝だよ」

「……ふぇ?」

 真白さんの声が聞こえたような気がした。

 夢だろうか。

 そう思って眼を開けると、目の前に真白さんの顔があった。

「あ、起きた」

「……」

「と、思ったけど寝ぼけてるなこれは」

 顔をつんつんされた。

「――!!」

 一瞬で目が冴えた。

 慌てて起きた。

「お、おはよう」

「うん。おはよう」

 真白さんはにっこり笑った。

 ……毎朝、この笑顔で起こされたい。

 心からそう思った。

 着替えは洗面所でした。さすがに真白ましろさんの目の前で着替えるわけにもいかないからだ。

 それから僕はいつも通りに朝を過ごしてから、最後に部屋へ顔を見せた。

「じゃあ真白さん。僕、学校行くよ」

「えっと……わたしここにいていいの?」

「もちろん。あ、でも母さんには見つからないようにね」

「それは大丈夫だよ。だってソータくんがいなかったら、わたし誰にも見えないし」

 彼女は冗談めかして笑ってみせた。

「ああ、うん。そうだったね」

 僕も笑おうとしたけど、それはちょっとぎこちなかったかもしれない。

「……あの、真白さん」

 少し迷ったけど、僕はやっぱりあのことを言おうと思った。

「なに?」

「お兄さんがに会いたいって言ってる――って言ったら、真白さんはどうする?」

「え? お兄ちゃんが?」

 真白さんが明らかに動揺した。

 彼女は少しの間悩むような様子を見せたけど、

「……ごめん。今はやっぱり会えない」

 と、申し訳なさそうに謝った。

 僕は頷いた。

「そっか。うん、分かった。お兄さんにはそう言っておくよ」

「その、ほんとごめんね……お兄ちゃんに謝っておいて。本当は色々、ちゃんと自分で謝らないといけないんだけど……」

「ううん。仕方ないよ。それじゃあ、行ってくるね」

「あ、うん。いってらっしゃい」


 μβψ


 ……その日、僕はずっと上の空だった。

「……お前、今日どうした? 何かすげー顔色悪くないか?」

 休み時間、陽介に心配された。

 こいつが心配するくらいだから、僕はよほどひどい顔をしているんだろうと思った。

「ああ、うん。ちょっと寝不足でね……」

「寝不足っていうか、まるで幽霊に取り憑かれてるみたいな顔になってるぞ? なあ、信一?」

「……ああ。やばいな。お祓いとか行ったほうがいいんじゃないか?」

「ははは、二人とも大袈裟だな」

 僕は笑っておいた。

 ……お祓いだって?

 冗談じゃない。

 そんなことして、真白さんに会えなくなったらどうしてくれるんだ。

 それから、僕は昼休みに真白さんのお兄さんに電話をかけた。

「あ、もしもし? お兄さんですか?」

『葉月くんかい? ど、どうだった? には会えたの?』

「はい。会えたんですけど、その……すいません。真白さん、今はお兄さんには会えないって」

『え? 会えない? ど、どうして?』

「すいません。真白さんも、お兄さんに謝っておいてくれって……」

『……』

 お兄さんは黙ってしまった。

 しばしあってから、溜め息が聞こえてきた。

『……いや、分かった。無理を言ってすまない』

「いえ、こちらこそ」

 本当に申し訳なかった。

 ……お兄さん、本当に真白さんのこと心配してたもんな。

『でも、やっぱり未だに少し信じられないな。いったい何がどうなってるんだろうか……』

 お兄さんは今も困惑している様子だった。

 その気持ちはよく分かった。

「それについては、もよく分からないって言ってました。今の自分は幽霊みたいななもの、とは言ってましたけど……ほら、幽体離脱ってあるじゃないですか。あんな感じなのかも、って」

『幽体離脱か……とても科学的じゃないけど、でも実際にこの目で見てしまったからな……』

 ううむ、とお兄さんは唸った。

 ……まぁ、そりゃそうだよな。

 僕だってまだちょっと信じられない。でも、〝彼女〟は間違いなく存在しているのだ。いや、幽霊なのに存在してるっていうのも変だけど。

『……なら、もしかして君の知っている真白ましろが元の身体に戻れば、病院にいる真白ましろも目を覚ますんだろうか?』

「え?」

『幽体離脱っていうと、なんかそんなイメージないかな? ようは一時的に魂? みたいなものが身体から出ているんだとして、じゃあそれが戻れば身体も目を覚ますんじゃないかな――って思ったんだけど』

「……なるほど」

 思わずそう言っていた。

 それは確かに、有り得るかもしれない。

「病院の真白さんって、どういう容態なんですか?」

『医者には遷延性意識障害せんえんせいいしきしょうがいって言われてる。まぁいわゆる植物状態ってやつだよ。これは脳死と違って、大脳の機能は停止しているものの、脳幹は働いてる状態だ。だから心臓も動いてるし、真白ましろの場合はちゃんと自発呼吸もできる。傍目からだと、本当にただ眠っているようにしか見えない』

「それは、回復する可能性はあるんですか……?」

『可能性はある』

「そ、そうなんですか? それはよかった……」

 僕はひどく安堵してしまった。

 でも、とお兄さんは続けた。

『……真白ましろの場合、頭部への外傷が原因でこうなってしまったわけなんだけど……その場合、12ヶ月経っても意識が戻らなかった場合、植物状態は永続する可能性が高いって医者には言われたよ』

 がつん、と頭を殴られたような気持ちになった。

「……そんな」

『現状では、医者の見解は『ほぼ見込みなし』だ。でも、可能性はゼロじゃないんだ。ボクは諦めてない。もちろん父さんもね』

 史郎さんの声は、とても力強かった。

 もうすぐ昼休みが終わる。

 ……でも、史郎さんとの電話を終えた後も、僕はそこから動くことができなかった。

 とても授業を受ける気分じゃない。

「……」

 誰も来ない屋上への階段に座り込んだまま、初めて授業をサボった。

 ……自分にできることを、僕はずっと考え続けていた。

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