第10話 怜子と彼方。

「へえ。そう。今度は、水泳選手が両肩の肉を取られて殺害されたと。『リンブ・コレクター』の仕業ね」

<ああ。今日は大学か?>

 崎原が電話の向こうで訊ねる。


「ええ。だから遅くなるわ。令谷にも言っておいて」

 そう言って、葉月は電話を切った。


 大学生活自体は馴染んだが、友達らしい友達は出来ていない。

 

 十数分後に、令谷から電話が掛かってくる。


「何? 私は今日は大学で忙しいの」

<大学生活は九月は休みだろ?>

「サークルの課題。文芸部の冊子に詩を寄稿しようと思ってね。それを書いているの」

<どんな詩だ?>

「“白蓮は冥界に咲く花”ってタイトルの詩。詩小説になるかも。それを提出して終わり。それから、美術部も覗いていくわ」

<ご苦労な事だな。大学生活を満喫して>

「ええっ。人生は楽しまないと」

<処で怜子の事だが>

「何?」

<まだ簡易宿泊所などを転々としているんだろう? よければ、しばらく上城怜子を匿える場所を紹介しようか?>

「なにそれ?」

<で。今日、俺の下に来るのか? 来ないのか?>

「ああ。ええっ、そうね。課題は文芸部も美術部もまだもうちょっと締め切りは先。だから行くわっ!」

<そうか。じゃあ。××駅で待つ>

「分かったわっ! 怜子にも電話しておく」


 そうして電話は切れた。



 そこはアパートの一室だった。


 葉月は怜子を連れて、令谷の後に付いていった。


「このアパートの一階が俺の親友の部屋になっている。……人見知りなんだ。葉月、怜子だけ中にいれていいか?」

「別にいいけど。一応、少しだけ中を覗いていいかしら?」

「それくらいなら、構わない。だが、彼…………、彼方は人見知りなんだ。お前の事は警戒しそうだ。怜子だけでいいか?」

「まあ、いいけど」


 怜子は令谷に誘われるままに付いていく。

 

「彼方。入るぞ」

 そう言うと、令谷は合鍵を取り出してアパートの中へと入った。


 葉月は部屋の中をしげしげと覗いていた。

 そして、満足そうな顔をして、此処で待っているわ、と、玄関の前に佇んでいた。


 令谷は怜子だけを中に入れる。


「外国のゾンビ映画ではよく扉を破られないように籠城する。銃が必要かもしれないが、日本では猟友会か警官にでもならなければ携帯も出来ない。怜子、彼方を頼むぞ」

 牙口令谷は、冗談を言いつつ、葉月の親友であり“ゾンビ”である怜子を彼方の部屋に入れる。

 

 ………………。

 相変わらずのゴミ屋敷だ。

 虫も湧いている。


「ここ、凄いですね……」

 怜子は口元を押さえる。


「ああ。彼方は重度の精神病だ。掃除が出来ないんだ。炊事洗濯、掃除を手伝ってやってくれ。後、怜子。此処に住んでいいぞ」

「……いいんですか?」

「ああ。彼方をお前に頼みたいんだ」


 令谷の一言で、怜子の住居問題は解決した事になる。

 

 怜子は空ろな眼で、部屋の奥にいるキャンバスに向かって絵を描き続けている少年を見る。

 まるで、心が此処に無いかのように見える。

 少年には左耳が無い。


「一応、言っておくが、彼方を喰うなよ? お前の友人の葉月の立場も悪くなるぞ」

「…………、分かっている」

「お前の食事もなんとかする。葉月から聞かされているが、生きた動物でもいいらしいな。人は喰わない。我慢出来るな?」

「はい。……我慢します…………」

「なら、いい。『ネクロマンサー』は、俺のチームに必要な人材だ。そして、怜子。お前もだ」

 令谷は、バッグの中から小さなボックスを取り出して怜子に渡す。

 怜子は中を開けると、大量の輸血パックが入っていた。

「これで我慢出来るか?」

「あ。はい、これなら、少し…………」

「なら良かった。お前がこれで大丈夫なら“彼方の方”も、何か糸口が見つかるかもしれんな。俺は探しているんだが。今は見つからない」

 そう言うと、令谷は玄関へと向かう。


「牙口さんは…………、その、これから何処に行かれるんですか?」

 怜子は何処か不安そうに訊ねる。


「ん? ゾンビ退治みたいなもんだ。奴らは獰猛で人間を喰らうんだ。これから現場に向かう。昼宵葉月……『ネクロマンサー』には、もう伝えている。最初の仕事をして貰う。今回の現場は酷いらしい。検視官が頭を抱えてやがるそうだ。警官のな、新人が使いものにならないそうだ。じゃあ、俺は現場に向かう。もういいか?」

「はい…………」


 そう言って、牙口令谷は彼方の部屋の扉を閉めた。


 怜子は少年と共に部屋に残される。

 少年は絵を描き続けていた。

 まるで、怜子の存在に気付いていないみたいだった。


 これからこの家を掃除しなければならない。


 怜子は頻繁に、自分が何者なのか考えておぞましく感じる。

 この肉体を構成しているものは何なのか…………。


 彼方の方を再び見る。

 心、此処にあらず、といった様子だった。

 魂だけが、忌まわしい肉体に宿っている怜子…………。

 この彼方という少年は、逆に魂の方が、何処か向こう側に行ってしまったのか……?


 怜子は彼方の描いている絵を見る。

 そして、口を押さえた。

 

 描かれている絵は克明な死体の絵だ。

 ここに死体は無い。


 なら記憶を頼りに死体を描いているのか……?


「ねえ。聞いていい…………?」

 怜子は訊ねる。


「なんだい?」

 彼方は無感情に怜子の方を見ずに言葉を返す。


「何を、描いているの…………」

「それは…………、令谷が、その、この前に起きた事件の現場写真を持ち込んで、僕に、絵を描いてくれ…………」

「模写しろ、と言ったの………………」

 

 怜子はこの少年の腕の辺りを見た。

 首の方も見てしまった。

 怜子は、わなわなと、うずくまる。


 大量に自傷癖がある。…………、もしかすると、本当に自死を試みようとしたのかもしれない。片耳が欠損しているのも、おそらく自分で切断している。


「ねえ……。身体の傷、聞いてもいい……?」

「ああ。うん、でもあんまり言うな、って。でも、手の骨を折ったり……、ああ、そうだ。両脚を自分で折ったら、令谷にかなり怒られたっけ」

「なんで、そんな事するの…………」

「なんでなんだろう? でも、僕、自分の身体の痛みとかよく分からないから…………」

「そうなの…………」

「怜子さんだっけ? ご飯はよく食べてる?」

「…………。人らしい食事は出来ないけど、頑張って……」

「そう。僕は食べれって言われる。二週間近く何も口にしなくて怒られたよ。水も飲めって。救急車で運ばれた事があるんだ。後、眠るように言われている」

 そう言えば、少年はかなり痩せていた。

 手だけは黙々と筆を動かし続けている。


「そうか。葉月ちゃんにとっての私みたいに、貴方は令谷さんにとっての…………」

 

 少年は絵を見ながら、一人笑っていた。

 怜子は部屋の隅にうずくまり、涙を流し続けた。


 この少年は、心が壊れてしまっている…………。

 薄ら笑みを浮かべているが、もう、マトモな人間らしい感情は無いのかもしれない。


 少年は薄ら笑いを浮かべ続けながら、絵の具がべったり付いた手を見つめていた。


「ねえ。現場写真を模写したら、令谷は褒めてくれると思う? 犯人を特定しろ、って言われているんだ。僕が描いたら、何か捜査のインスピレーションになるかもしれない、って。役に立つ、っては言われる」

 少年の目の奥は、何処までも空ろだった。

 まるで、人形か機械が喋っているかのような、心の無い死体が話をしているような……。


「そう」

 怜子はうずくまって、泣いていた。



「彼方は『ワー・ウルフ』に大量に脳に異物を入れられた被害者の中で、唯一、生存した者だ。脳に挿入されたものは、全部、手術で取り出したが、…………、駄目だな。廃人として生きている」

「そう。私が怜子を蘇らせた事と、どれくらいの差異があるのかしら? 生かしているのは貴方のエゴだと思った事は?」

「分からない。俺はワー・ウルフを始末してから、どうするか考える…………。昨日、リンブ・コレクターの新たな犠牲者が出た。これから現場に向かう。酷い有様らしい。来るか」

「仕方無いから、同行するわ」

 葉月は小さく溜め息を吐いた。


 葉月は頭の中で、ワー・ウルフの事を考えていた。

 佑大だったら、どう考えるのだろう?


「ねえ。『ワー・ウルフ』のファイルを私、調べようか? コピーを取れない?」

「いいが。どうするんだ?」

「何か、分かるかもしれないと思って。令谷。私が、貴方の力になれるかもしれない」


「いずれにせよ、ファイルを管理しているのは富岡だ。今、富岡も現場に向かっている筈だ」

 令谷は腰元に携帯している拳銃を握り締める。

 …………、現場で犯人と鉢合わせるかもしれない。


「はあ。現場か…………」

 葉月は少し憂鬱そうな顔をする。

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