白き部屋

『白き部屋』



 何時いつからだろう? 私はこの小さな部屋で暮らしている。上下左右、白い壁で囲われており、窓や扉などと言ったものは一つも無い。有るのは、ベッド一式と机、いす、トイレ、そして本棚だけ。本棚には、SFやファンタジー、ミステリィやホラーなど様々なジャンルの本が置かれている。天井には白熱電球が据え付けられていて、その光が白壁に反射するため、とても明るい状態である。

 囚人なのだろうか? いやそんなハズはない。私は監守や警備の人間などを一度も見たことがなかったからだ。それに食事は一日二回出されるのだが、希望したものを何でも、取りそろえてくれる。またこの本にしたって、私が望んだものなのだ。犯罪者ならばこんな処置は受けないハズではないか。

 荷物や食事、その他もろもろのものは、「引き出し」を通じて支給される。「引き出し」は壁に直接くっつくように設置されていて、開閉するたびに事物の交換ができるという訳だ。


 何時からだろう? 私はもう一度、自分自身に問いかけてみる。この部屋の中で長い事生活しているのだが、どのようにして入ったのか? なぜ入ったのか? 入る前にどのようなことを私はしていたのか? 何も記憶は残っていないのであった。しかし、この部屋で暮らし始めてからのち、つまり今まで何の本を読んだかとか、どのような食事を摂ったかなどといった、まるで外部の世界とは全く関係のない情報に関しては、鮮明なほど記憶している。魔法使いになってドラゴンを倒したこと。宇宙船に乗って孤独な旅を続けたこと。名探偵になって様々な難事件を解決したこと。目を閉じれば今にもその光景が眼前にあるかの如く、思い出すことができる。

 しかし、これは不思議なことではないか? 例えば、「犬」という言葉がある。その言葉は「犬」を実際に見たことのある者しか思い起こせないハズだ。そして私は思い起こせるのだが、それはこの部屋に入る前、必ずその「犬」を見たことがあるという証拠ではないのか。具体的な記憶がないだけで、抽象化したまま、無意識下にはその概念が残留しているに違いない。私はその事に気付いてから、より多くの本に手を出すことにした。引き出しを閉じて、開ければ、まさに読みたいと思える本が出てくるし、それらを読む内に、自分の中の点と点がつながり、失われた自分を取り戻せると考えたからだ。


 しかし、現実は非情である。記憶の回復は全く感じられず、それどころか、本の登場人物が様々な活躍をすればする程、みじめな気持ちが私を包み込んだ。

 こらえていた気持ちが爆発し、壁を叩き、本棚を蹴り飛ばし、机を何度も何度も殴りつけた。どうして、どうして俺はこんな目に遭わなきゃいけないんだ。自分の名前すらも分からないのに!

 しばらくすると気持ちが落ち着き、深い悲しみが私を襲った。このままここで、一人ぼっちのまま死んでしまうのだろうか? 誰でもいい、誰かに会いたい。


 私が本棚を動かし、元の位置に戻そうとした時だった。その隠れていた壁に、直径5cm程の穴が空いていることに気付いたのだ。恐る恐る近づき、のぞき込むと、そこには私と同じような部屋が広がっていた。壁の厚さが大きいため、詳細を確認することは出来ないが、どうやらこの施設に捕らえられていたのは、私だけではなかったようだ。少し安堵したが、肝心の人の姿は見当たらない。丁度穴からは見えない位置で寝ているのかもしれない。私はベッドに戻り、しばらく時がたつのを待った。


 いつの間にか、眠ってしまったようだ。私は立ち上がり、再び穴をのぞきこんだ時だった。あっ! 私は驚きの余り、気を失いそうになった。向こうの部屋からも、私と同じように、人間がのぞき込んでいたのである。のぞくことが出来るのは自分だけではないということを忘れていた。


 私達はそうしたまま、しばらく見つめ合っていた。緊張していたし、話すべき事も形になってまとまらなかった。ある意味に置いて、私が初めて出会った人物だからだ。


「君は?」私はそうつぶやく。


 彼女は何も答えず、微笑を浮かべ、紙に文字を書き、投げるようにして、私に渡した。


『自分 声 出ない 自分 分からない』


「いつからそこにいるの?」


『わからない 君は?』


「いや、僕も分からないんだ。でも、自分一人じゃないって分かって、嬉しいよ」


『自分も』


 その後、私はしばらく黙っていた。誰かとコミュニケーションが取れることに感動していたのだと思う。そうすると、彼女の方から、紙がやってきた。


『また会える?』


 この時、私は何も理解していなかったのだ、彼女の事を。


「うん、勿論さ」


 翌日、眠りから覚めると、壁の穴はふさがっていた。綺麗で、傷一つ存在しない。近くに耳を当てても、物音一つ聞こえなかった。私は悟る、彼女がどこか、遠い世界へ消えてしまったことを。

 その替わり、もう一つの変化があった。別の壁に、大きな緑色の扉が取りついていたのだ。

 迷いはなかった。扉に近づき、ノブを回す。

 この先に何が待っているかはわからない。でも、ひとつの想いが胸中に在った。何があろうと、私は前へと進み続けるだろう。またいつか、彼女に会えることを信じながら……。





                             完




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