最終章 LAST SISTER

第59話 真実

「兄さぁぁぁぁぁんっ!」


 遠くから僕を呼ぶ声が聴こえる。目の前は完全な闇、しかし、それはすぐに眩しい光に変わる。


「兄さんっ! ねえ、兄さんってばっ!!」


 真っ白な視界が徐々に晴れて行く。そして、目の前に現れたのは――


「……果音カノン……なのか?」


「うん、私だよ。あなたの、兄さんの妹……果音カノンだよ」


「僕の……妹。そうか、そうだったね」


 目の前の少女は、銀縁メガネの奥に光る黒い瞳でうっとりと僕を見つめたかと思うと、黒いサラサラのショートカット振り乱し、僕を両手で抱き寄せる。


「おかえり……兄さん……よかった」


 僕の首の後ろまで手を廻した果音カノンは、耳元で囁き続ける。


「ごめんね、兄さん……本当にごめん。大丈夫? 意識ははっきりしてる? 動ける?」


「えーっと……意識ははっきりしてるけど、その、動けない……これ、外してくれないか?」


 そう、僕はあの時ゲームの中で映し出された時のまま、椅子に縛り付けられていた。腕も足も強靭なベルトでガッチリと固定され、僕の身体は完全に椅子と同化していたのだ。


「あっ! ごめんなさいっ! 忘れてた!」


「……おいおい、忘れてたって」


「あははっ、ごめんってば……」


 果音カノンは僕から離れ、目の前で眉をハの字にして申し訳なさそうに手を合わせる。


「今外してあげるね……あ!」


 果音カノンは何かを思い付いたように目を丸くする。


「兄さんが抵抗できないうちに、しておきたいことがあるの……」


 彼女が次に取った行動は僕が予想だにしなかったことだった。


「……んーーーっ」


 果音カノンは目を閉じ、顔を徐々に接近させてくる。そう、これは――


 バタンッ!


「兄貴! 大丈夫っ!?」


 乱暴に開かれた扉の音と同時に、聴きなれた声が耳に響く。しかし、果音カノンは依然として接近を続ける。そして、果音カノンの唇が僕の唇に触れようかとしたその時――


「……って、なにやってんのよっ!」


 僕と果音カノンの間に声の主、珠彩シュイロが割って入る。珠彩シュイロは僕の頬と果音カノンの頬を手の平で押して僕たちを引き剥がしていた。


「しゅいろ……!」

「しゅいろちゃん……!」


 僕と果音カノンの声はモゴモゴと篭っていた。


「あんたたち、兄妹で何やってんのよ!?」


「……ぼ、僕は知らないよ」


「うう、珠彩シュイロちゃん、ひどいよ。兄弟の感動の再会だったのに……」


 残念そうに呟く果音カノンに、珠彩シュイロは怒りの視線を向けていた。


「あんた、今兄貴になにしようとしたのっ!?」


 果音カノンはその問いに一瞬戸惑いを見せ、瞼を下げて視線を横に逸らす。


「……キス」


「はぁ!? バッカじゃないの!? 頭おかしいんじゃない!?」


 さっきより更に激しい剣幕で迫る珠彩シュイロに、果音カノンは拗ねたような表情で返す。


「そんなあ……ただの挨拶じゃん。それに、珠彩シュイロちゃんだってしたよね? そんなのずるいよ」


 その時、一瞬にして珠彩シュイロの顔色が紅潮してゆく。


「……あっ、あれは……兄貴を引き留めるために……仕方なくよ!」


「あっ、あの……」


 僕は言い争うふたりのに遠慮がちに声を掛けた。


「なによっ!」

「なにっ!?」


 ふたりは同時に僕の方に振り返る。


「そろそろほどいて欲しいんだけど……」


「あ、そうだったね……」


「そうよね……早くほどかないと」


 ふたりはいそいそと僕の身体を締め付けるベルトを解いて行く。


「はあ……」


 数時間縛り付けられていた僕の身体は、思うように立ち上がることができず、珠彩シュイロに肩を借りることになった。


「本当に大丈夫なの?」


「うん、ちょっと体が固まってるみたいだけど、大丈夫だよ」


「兄さん……良かった」


 果音カノンのその顔は、心から安堵していることを物語っていた。


果音カノンちゃん……キミがこれを仕組んだんじゃないのかい?」


 僕はその声に振り返る。僕が縛り付けられていた椅子の背もたれの向こうに見知った顔があった。


菜音ナオト様、ご無事でなによりです」


 僕と目を合わせた悠季ユウキさんは、かしこまった口調でそう言った。そして、その向こうに顔を連ねていたのは、星宮ホシミヤさん、燈彩ヒイロちゃん、このみ、マノリアの4人。彼女たちは皆、僕の顔を見て安心した表情を見せる。それから、僕の先にいる人物に視線を移す。


果音カノン様……」


 星宮ホシミヤさんは果音カノンを見てそう呟いた。


「あの人、図書館の……お姉さんです」


 燈彩ヒイロちゃんは驚き戸惑っている。このみもマノリアも、果音カノンの姿を唖然として見つめていた。そして、僕も改めて彼女の姿をその目に映す。


「ん、兄さん、どうしたの? 恥ずかしいよぉ……」


 果音カノンはもじもじとした仕草を見せる。その姿は僕の前から消えたあの日と全く同じ装いであった。チャコールグレーのブレザーの下から覗くピンクのセーター、その袖の先から見える芸術品のような指、綺麗に揃ったモスグリーンとベージュのチェックのスカートのプリーツ、その下の黒いタイツに包まれたしなやかな曲線を描く脚、そして、俯いた彼女は、前髪の間のメガネの奥から、少し上目遣いで僕をじっと見つめる。


果音カノンちゃ……様、一体どうなされたんだい? ……って、何言ってんだボク……私!」


 悠季ユウキさんは平静を保とうとして更に混乱していた。


悠季ユウキさん、落ち着いて……で、果音カノン、今まで何をしてたの?」


「!……あのーそれは……えっとね……」


 果音カノンの身体は僕の言葉にびくんと跳ね、更に頬を赤らめ始める。その時僕は、ふとしたことに疑問を抱く。


「そういえば果音カノンは……僕のことを疎んでいたんじゃなかったの? なんか今は……なんというか」


「いつも私と一緒にいてくれた、アホの子ね」


 珠彩シュイロが僕と果音カノンの間に割って入る。


「ああ……そのことか……それにはふかーい訳があってね……あはは」


「ボクにも説明して欲しいな。ね、果音カノンちゃん」


「まいったなぁ……」


 果音カノン悠季ユウキさんの言葉に対し、バツが悪そうに頭をかきながら苦笑い交じりに言葉を紡いて行く。


「小学5年生の頃、クラスメイトの子に、『お兄さんといつまでも仲がいいのはおかしい』って言われてね、それで、『そうなのか』って思って、悩んじゃって、兄さんと話したくても話せない日が続いてたんだ。そうしたら、兄さんがネット上に小説を投稿しているのを見付けた。私はそれを読むのが好きだった。それでね、ふと気付いたんだ。私と疎遠になったから兄さんは小説を書くようになったんだって。そう思ったら前より更に話しにくくなっちゃった。でもね、兄さんの小説があまり読まれていないこともわかってた。それは、兄さんの感覚が普通の人たちとズレてたからなんだろうね。だから、マノリアさんが兄さんの小説に感想を書いてくれた時は、自分のことのように嬉しかった」


「ほう……」


 一瞬、マノリアと果音カノンの目が合った。果音カノンは短く会釈して続ける。


「それで、中学に上がる頃、私はネット上に溢れているあらゆる情報を読み漁っていた。それは、兄さんが小説を書く力になれればと思ってのことだった。でも、やっぱり話しかけられない。それでね、かくれんぼを提案したんだ。見つかった時にスマホで兄さんの小説を読んでれば、それを契機にしてまた打ち解けられると思ってね。でも、兄さんは私を見付けてくれなかった」


 視線を逸らしている果音カノン以外の少女の視線が僕に集まっていた。


「私はその頃、視力が悪くなっていくのも感じていた。スマホの小さい画面を見続けた結果だろうね。だから、父さんにメガネを買ってもらった。兄さんはそんな私に、『目、悪くなったの?』なんて言って……そしたらなんか、兄さんが憎らしくなっちゃった。逆恨みだよね。私がひとりで勝手に近眼になったのにね……でも、心の中では兄さんが小説を書いていることを応援していたんだ。でも、兄さんは小説を書くのをやめちゃった」


「ごめん……」


 僕の言葉が聞こえなかったかのように、果音カノンは続ける。


「それからずっと、兄さんがやることなすこと、全てが気に障るようになっちゃった。だから、小説を書くこと以外の創作活動に傾倒する兄さんが許せなかった。それで妨害していた。だけど、自己嫌悪も感じていた。だから、私は兄さんがみんなに読んでもらえる小説が書けるようにと考えたんだ……それでね」


 果音カノンは僕の目を真っすぐに見つめる。


「兄さん、それにみんな……私、謝らなきゃいけないの。実は私、嘘をついていた。家族や親戚のみんなは……事故なんかに遭ってないんだよ」


 衝撃が走る。僕は果音カノンのその言葉にただただ驚くばかりだった。


果音カノンちゃん……それは本当なのかい?」


 悠季ユウキさんが目を丸くして問い質す。彼女もそのことは知らなかったようだ。


悠季ユウキくんもごめんね。あの日の朝から流れ始めたニュースも、新聞も、ぜーんぶお父さんがお金を出して、私が作ったものだったんだよ……だから、みんなは今、別荘で暮らしてるんだ。ネットニュースも作ったから、色んな人が見て、みんな本当のニュースだと思っちゃったみたいだね」


 果音カノン珠彩シュイロをちらりと見る。


「な、なんでそんなことをしたのよっ! なんで居なくなったのよ!?」


 珠彩シュイロはそう言いながら、果音カノンに詰め寄っていた。


珠彩シュイロちゃん……ごめん。私、兄さんに天涯孤独という境遇を体験してもらって、人生経験を積んでもらおうと思ったんだ。兄さんの小説に足りないのはリアリティだよ。兄さんの文章には実体験に基づく重みが必要だった。ゲームにしたってそう。生きるか死ぬかなんていう臨場感、ゲームでしか体験できないからね。それに、自分が体験していないことは書けないって言うでしょ? 兄さんはライトノベルを書くために、ライトノベルの主人公になる必要があったんだ」


 僕は果音カノンの言葉に説得力を感じ、肩を落とす。


「僕に足りなかったのは……経験だったのか……」


「そう、それを補うために、兄さんに急成長してもらうために、私はそんなことに手を染めてしまったんだ……」


「じゃあ、『兄弟姉妹制度』と『おひとり様税』っていうのも……」


 果音カノンは僕の言葉に少し笑みをこぼして続ける。


「ううん、それは偶然が重なっただけ。政府の方針まで捏造することはできないからね。その偶然と、珠彩シュイロちゃんの行動が重なってあれよあれよと言う間に取り返しのつかない状況になっちゃった。最初は1ヶ月くらいで終わりにしようと思ったんだけどね。兄さんが実羽ミハネちゃんの幻を見るまでになっちゃった時はどうしようかと思ったよ……」


「じゃあ、さっきの実羽ミハネは?」


「それは私が利用させてもらっただけ。実羽ミハネちゃんは、そこに居る澪織ミオリさんのお陰で成仏したんだと思う……兄さんを救ってくださいまして、ありがとうございます」


 果音カノン星宮ホシミヤさんに深くお辞儀をする。星宮ホシミヤさんもそれに負けないくらい深いお辞儀で返す。


「勿体ないお言葉です」


「それで、なんで私がこんなゲームを考えたかって言うと……マノリアさんを追いかけて兄さんが居なくなっちゃうのは、流石に止めなきゃいけないと思ってね。ちょっと強引な手を使っちゃった」


「待ってくれ、果音カノン、あのゲームを果音カノンがひとりで考えたってことなのか?」


 僕にはそれが信じられなかった。


「そうだよ。私、この街で隠れて暮らしながら、ゲームを作る勉強をしてたんだ。VRのシステムはうちの財力があれば容易く用意することができた。急造品だから、珠彩シュイロちゃんにはつまらないなんて言われちゃったけどね」


 珠彩シュイロはハッとして何かに気付き果音カノンに問う。


「人の記憶を奪って、痛覚まで刺激するシステムを作ったっていうの……? あんたが?」


「ああ、あれはただ単に視覚と聴覚を使った催眠みたいなものだよ。痛いような気がするだけ。それに、記憶をコピーとか消去って言うのは完全に嘘なんだ。そんなことできるわけないじゃない」


「それにしたって……果音カノン、やっぱりあんたって……」


「やだなあ、珠彩シュイロちゃん。私はただの高校生だよ? 兄さんに壮絶な人生経験を積ませてくれたのは珠彩シュイロちゃんのお陰だよ。でも私、兄さんのためだったらなんでもできるって今でも思ってる」


「わ、私だって果音カノンお姉さんみたいに、珠彩シュイロお姉ちゃんのためならなんでもできるよ!」


 燈彩ヒイロちゃんが口を挟み、珠彩シュイロがそれをたしなめる。


「あんたは黙ってなさい。……信じられないけど、果音カノンならそれができてもあんまり不思議じゃないわね……」


「そうだね……果音カノンちゃんはきっと前世はすごい人だったんだろう」


 悠季ユウキさんが珠彩シュイロに同調する。そして、星宮ホシミヤさんが当たり前のことのように言い放つ。


「その通りです。果音カノン様は神様の生まれ変わり。なんでもできて当然ですわ」


「あんた、さっきから果音カノン果音カノン様ってなんなのよ。あんたが果音カノンの何を知ってるっていうの?」


「……珠彩シュイロ、あなたとはやはり、この世界でも……」


「だから、意味がわからないって言ってるのよ!」


「まあまあ、落ち着いて……」


 なぜか言い争いを始めた珠彩シュイロ星宮ホシミヤさんを僕は宥める。果音カノンはそれを見て微笑んでいた。


「あ、そうだ、珠彩シュイロちゃん、これをあげるよ。約束だからね」


 果音カノン珠彩シュイロに1枚の紙を渡す。珠彩シュイロはそれをまじまじと見つめると――


「なにこれ……『天海アマミ菜音ナオトの妹になる権利書』……?」


「そうだよ。珠彩シュイロちゃんはこのゲームをクリアしたんだから当然の権利だよ」


「ふーん……私が兄貴の……妹にね。こんな細かい契約書、よく作ったわね」


「えへへ……」


 ヘラヘラと笑う果音カノンではなく、珠彩シュイロの視線は一瞬僕を見る。そして目を閉じた珠彩シュイロは――


 クシャクシャクシャッ……


 その紙を丸めて投げ捨ててしまった。


「いらないわよ。こんなもの」


「……またまたぁ、珠彩シュイロちゃん、兄さんのこと、好きなんでしょ? そうじゃなきゃ私と兄さんのキスを止めようなんてしないよ」


「それは人として当然の倫理を重んじただけよっ!」


「あはははははっ!」


 声を上げて笑う果音カノン。しかし、そんな果音カノンを責める声が沸き起こる。


「さて、果音カノンとやらよ、笑っている場合ではないぞ。この落とし前、どうつけてくれるのじゃ?」


「そうだよ。私たちとおにいを弄んだ責任は重いよ?」


「あはは……あーはは……は、はい……ごめんなさい」


 マノリアとこのみの不満に、果音カノンは謝罪の言葉を述べることしかできない。


「まあまあ、今日の所は……コホン、菜音ナオト様、果音カノン様、よくぞ無事にお戻りになりました。おかえりなさいませ」


 悠季ユウキさんのかしこまった態度に僕たちは応える。


「「うん、ただいま」」

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