第40話 湯崎このみ

「……やけに腰の入ったビンタだったなぁ」


 朝帰りした僕を襲ったのは珠彩の手の平であった。その後の僕は、炎上し続けるこのみのスキャンダルに対して手をこまねくことしかできなかった。彼女に教えてもらった電話番号も、発信音が鳴り響くだけである。そして、その夜、自体は更に悪化する。


「『ハイタッチガール』の予告編見たか? ありゃ大根ってレベルじゃねーぞ!」


「ビッチアイドルのせいで『ハイタッチガール』は駄作に成り下がりました」


「あーあ、楽しみにしてたのにな。あれで少しは演技がマシだったら」


 12月25日の夜、「ハイタッチガール」の予告編が公開されると共に、炎上は勢いを増す。それもそのはず、24日の夜に収録された、このみの拙い演技がそのまま予告編に使われていたからなのだ。だが、相変わらず僕には何もできない。その悔しさを噛み締めながら、僕はその日一日を無為に過ごしていた。


「……メールだ」


 その夜、僕のスマートフォンに届いたメールはこのみからのものであった。そこには、翌日、夕方17時、駅で待ち合わせることだけが記されていた。返信しても返事はない。翌日、僕は待ち合わせ場所に佇んでいた。


「おにい!」


 聞き覚えのある声が耳に届く。雑踏の中でもそれは、はっきりと僕の心を捉えていた。


「……このみ……なのか?」


 そこに居たのは前髪を切り揃え、ストレートヘアをなびかせた少女であった。


「イメチェンしたんだ。これで私が私だって気付く人もいないでしょ?」


 メイクも自然なものになっており、悪く言ってしまえばギャルのような外見だった彼女は、身にまとったベージュのダッフルコートと白のスカートが似合う、落ち着いた雰囲気の女性に変貌していた。


「えへへ、そんなに見つめないでよ。おにいもそういう年頃だからしょうがないのかもしれないけど」


「ああっ、ごめん、つい見惚れて……」


「あははっ、実は私もこっちの方が気に入ってるんだ。でもさ、プロデューサーにギャル風に振る舞えって言われてね……」


「そっか……」


「あはは……ねえ、立ち話もなんだから、ちょっと歩こうよ」


 繁華街を歩き始める僕とこのみ。その足取りは心なしか軽い。


「おにいの演技ってさ、やっぱりすごかったよ。何度見ても勉強になる」


「そ、そうなの?」


「うん、健気な女の子! って感じでさ、私から見てもすっごく可愛いし、正直惚れる……」


「なんか複雑な心境……」


「あははっ、あれって好きでやってたんじゃないの?」


「ち、違うよ」


「そっか、てっきりおにいの趣味なのかなって……はっくしゅんっ」


「大丈夫?」


「ちょっと寒い……ぶるぶる」


 肩をすくめて見せるこのみ。僕は何も言わずに近くの店へと入る。


「これください」


 僕は店頭から見えていたグレーのタータンチェックのマフラーを購入した。それをこのみの首に巻き付けると、彼女は嬉しそうにおどけて見せる。


「暖かい……ありがと、おにい」


「これからも収録があるんだから、体調には気を付けないと……」


「あー、それなんだけどさ……ちょっと、お茶でも飲もうよ」


「……ああ、わかった」


 不意に目線を外した彼女の気持ちを察した僕は、彼女の言う通り、喫茶店へと足を踏み入れる。


「いらっしゃいませー。2名様ですね」


 僕が小さく頷くと、僕とこのみは窓際の席に向かい合わせに案内される。そこで僕は暖かい紅茶とコーヒー、そしてチョコレートパフェを注文した。


「お待たせしました」


 程なくして注文の品がテーブルに並べられる。僕はコーヒーを、彼女はパフェを一口頂くと、自然に言葉がこぼれ始める。


「このみ、ごめん、僕が不用意にあんなことをしたから」


「えー、何言ってんの? あれは私が頼んだことじゃん」


「そうだけどさ……出資者として、スキャンダルを避けることくらいは当たり前のことなのに」


「あははっ、そんなこと気にしてんの?」


「でも……辛くないのか」


「辛くないわけないじゃん。でも、もう後戻りもできないんだしさ」


「このみ……僕はどうすればいいんだ」


「それって私に聴くこと? おにいは別に何も悪いことしてないんだよ?」


 彼女の態度はあっけらかんとしていた。僕は頭に浮かんだ疑問をつい口に出してしまう。


「そんなに、割り切れるものなのか?」


「……うん、だってね、私、アイドルやめるんだもん」


「……!」


「何その顔、嫌な予感が的中したってやつ? しょうがないじゃん。まあ、映画の収録は最後までやるよ。それが責任だからね。でも、もうアイドルで居るのは疲れたんだ」


「そうか……」


「ふふっ、映画から降りないってので安心したの?」


「違うよ……」


「何? 残念なの? 私がアイドルやめるのが?」


「……このみがそう決めたんなら、僕にとやかく言う資格はないよ」


「ふーん、なんか大人みたいだね」


「からかわないでくれよ」


「私は大人になれなくってさ、アイドル活動もどっか頭の隅に『それでいいのかー!?』みたいな自分がいて、ギャル風のメイクも最初は嫌だったし、かったるい口調も、遅刻だってそういうキャラで行けって言うプロデューサーの指示だし。ほんと、やんなっちゃうよね。だからいいんだ。いっそ声優の勉強を本気でしてみようかな」


「今まで苦労してたんだね」


「そうだよ? 私だって人並みに悩むことくらいあるさー。だから、おにいに演技のこと教えてもらって、声優として再スタートしちゃおうかって……まあ、声優の世界もそんなに甘くないんだろうけどね。まあなんにせよ、もうアイドルはおしまい。どうせみんな私のこと尻軽女だって思ってるんだしね」


「そんなこと……」


「あるよ……! あ、おにいのことを責めてるわけじゃないからね」


「でも、僕にも責任がある」


「へへー、そうなんだ。責任取ってくれるんだ?」


「う……何その目は」


「知ってるんだよ、おにい、社長令嬢に言い寄られてるんでしょ? 例の兄弟姉妹制度ってやつで」


「なんでそんなことを」


「有名だよ。おにいの名前でネットを検索すればわかることだもん」


「そうなのか……」


「そーだよっ。だけど、おにいは社長令嬢と兄妹になるのは嫌なんでしょ?」


「そんなことは言ってないけど」


「嫌じゃないの? なーんだ、責任取ってもらって、私をおにいの妹にしてもらおうと思ったのに……」


「……僕には実の妹が居てね。今は出て行っちゃってるんだけど、その妹が戻ってくるまでは、他の妹を作らないって決めたんだ」


「あははははっ! おにい、自分で何言ってるかわかってるの? それ面白いよ! あははははっ」


「おいおい……」


「うん、でもわかった。おにいは本当の妹さんが好きなんだね。でも本当の妹さんはおにいのことどう思ってるのかな?」


「それは、わからない……」


「ふーん、わからないのに待ってるのって辛くない?」


「辛くても逃げたくはないんだよ」


「おにいは偉いんだね。でもそれって、私に対する当てつけ?」


「ち、違うよ、このみは自分が好きなように自分の道を決めればいいんだから……」


「おにい、なんだかお父さんみたいだね。ちょっとうざい……ふふっ」


「なんだよもう……」


「はははっ、可愛い。おにい、女装しなくても可愛いじゃん!」


「しーっ、声が大きいっ」


「……くくくっ、ごめんごめん」


 そうして日も完全に暮れる頃、僕とこのみは喫茶店を後にした。


「……まだ帰りたくない」


「なんで?」


「マンションに帰ったら盗撮されるから……」


「ああ、そうだね……」


その理由は取ってつけたようなものに感じられたが、僕はその違和感を飲み込んだ。

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