第38話 サイネ再び

 映画「ハイタッチガール」のアフレコ収録のあと、僕は夢咲ユメサキさんに呼び止められる。そして、自分の演技に納得できない彼女は僕に教えを乞う。僕はその必死の訴えに応えることができるのか、それだけを心の中で自問自答していた。


「……わかったよ、夢咲ユメサキさん。僕にできることなら、なんでもさせてくれ」


「ホントにっ?」


「ああ、本当だ。きっと僕は、そのためにここにやってきたんだ。そうでなければ、僕がこの映画の出資者として存在する価値なんて、きっとない」


 それは僕の本心から出た言葉だった。僕には自分のすべきことがそれであると確信できた。


「ありがとう……サイネ……!」


「……わかったけど、その『サイネ』っていうの、やめてほしいなーなんて……」


「なんで……?」


「いや、なんていうか……また戻ってしまいそうで、ちょっと自分が怖いんだ。だから、……コホン、僕は天海アマミ菜音ナオトって言うんだ。よろしく」


菜音ナオト……」


「うん、夢咲ユメサキさん」


「……さん付けなんてやめてよ。私、ついこないだ16歳になったばかりだよ? そっちが年上でしょ?」


「そ、そうか」


「それに、夢咲ユメサキ美楽ミラクっていうのは芸名。私の本名は湯崎ユザキこのみ。よろしく……えっと、おにい!」


「おにいっ?」


「だって、男の人を名前で呼ぶの恥ずかしいんだもん……」


「えーっと、湯崎ユザキさん……」


「だから、さん付けはやめてって。あと、苗字呼びもなんかやだなぁ。ね、お・に・い!」


「う……このみ……」


「はいっ、おにい!」


 このみの瞳からは暗い淀みが消え失せ、新たな輝きを灯していた。それは、アイドルとしての彼女とはまた違う、情熱の炎のような眩さを湛える。


「それで、私に演技のこと教えてくれるんだよね?」


「ああ、わかったよ」


「……じゃあ、これから、しよ?」


「これから? もう遅いけど……」


「嫌なの?」


「嫌じゃないけど、このみが疲れてるんじゃないかって……」


「……はあ? 今を逃したらおにいの気が変わるかもしれないじゃん? そんなの許さないんだからねっ!」


 彼女はそう言いながら、既にスマートフォンでタクシーを呼びつけていたようだ。


「まいったなぁ」


「フフッ♪」


 タクシーが到着するのを待ちながら、終始笑顔で鼻歌まで聴かせてみせるこのみ。僕はそんな彼女を見ながら、ずっと何かを忘れているような気がしていた。僕が想いを巡らせていると、タクシーは否応なしにやってくる。そして、運転手さんはこのみの家へと車を走らせる。


「ここが……このみの」


「いいでしょ? タワーマンション。一度は憧れるよね。でも、住んでみると結構不便なんだ。エレベーターがなかなか来ないことがあって」


 彼女はそんな愚痴をこぼしながらロックを解除し、12階にある自分の部屋へと僕を招き入れる。


「さあ、見せてもらおうかな、サイネちゃんの女の子らしさってやつを」


「だから……それは」


 僕の言葉を無視して彼女はクローゼットに向かう。


「じゃーん! これ、私の学校の本物の制服! 着てみてよ!」


「いや……女装は……」


「メイド服はあんなにノリノリで着てたっていうのに、これはダメなの?」


「そういうわけじゃないけど……」


「もう、いいから着てよ! お願い!」


 そう訴えながら僕の服を強引に脱がせようとする彼女。僕はその手を慌てて振り払い、上擦った声を上げる。


「じ、自分で着るから……後ろ、向いててよ……」


「ふーん、恥ずかしいんだ。なんか本当に女の子みたいだね。おにいっ」


「か、からかうなよ」


「ふふっ、じゃあ、私が後ろ向いてる間に済ませてね」


「う、うん」


 僕のその言葉を聞き届けると、このみはくるりと後ろを向く。僕は大きな姿見に向かい、いそいそと着替えを始める。


「じゅーう……」


 このみの声が大きく響き、僕の身体はびくんと跳ねる。


「そ、そんな、制限時間つき?」


「いいから、早く着替えないと、おにいのこと見ちゃうからね。きゅーう……」


「わわわ!」


 このみに急かされるまま、僕は彼女の制服を身に着ける。少し小さいかな、とは思ったが、そんなことを気にしてはいられない。


「ぜーーーーーろっ!!」


「はぁ……はぁ……」


 息を切らした僕に振り返るこのみ。彼女は僕の姿を見て、満面の笑顔を浮かべる。


「うわっ、可愛い! やっぱり可愛いよ、サイ……おにい!」


「……もう、なんでもいいよ」


 肩と瞼を落とし、明後日の方向に視線を向けながら、僕は捨て鉢に呟いた。


「ほーら、着崩れてる。しっかりしなよ」


 彼女は遠慮もなく、僕の着ている制服に手をかける。襟元を、曲がったタイを、はみ出たブラウスの裾を、掛け違えたボタンを丁寧に正してゆく彼女。その髪のほのかな匂いが鼻に心地よい。


「うん、上出来! あっ、ちなみにさっきの着替えも今の様子も、あそこに置いたスマホで撮ってるから!」


「えっ!」


「あはははははっ! だって、おにいのこと研究して勉強しないといけないからね。おにいは私の師匠なんだ。その所作を一瞬も見逃しちゃいけないんだよ」


「そ、そうか……」


 更に肩を落とす僕にこのみはおどけて見せる。そして、彼女が鞄から取り出したのは――


「はい、台本。これの私の台詞、全部読んでよ」


 ――その分厚い冊子に僕に差し向ける彼女の視線はさっきとは打って変わって真剣そのものだった。そして、僕は求められるがまま、そのセリフひとつひとつに魂を込めて読み上げる。彼女はその唇の動きや、微細な全身の動作まで真似しようと身をよじって見せる。そうしているうちに僕たちは朝を迎える。


「……これで、良かったかな?」


「うう、ぐす……」


「こ、このみ、どうしたの? うわっ!」


 急に泣きながら抱き着いてくるアイドルに、僕は身体を硬直させることしかできない。


「だって、だって、すっごく感動したんだもんっ! おにいの演技、本物の女子高生みたいなんだもんっ!!」


「あー……そうなの……そっかー」


 僕はそれまで自分がしていたことを思い出しながら、アイドルの腕の中で窓の外の昇ってくる太陽を冷めた目で見つめていた。


「じゃあ、僕はこれで帰るよ」


「……えっと、おにい」


「何?」


「私の制服、着たまま帰るの?」


「ああっ!」


 僕はこのみに録画を止めさせて、自分のスーツに袖を通す。


「なんか、そのスーツよりさっきの制服の方が似合ってるよね。やっぱりおにいは女の子なのかな?」


「もうほっといてくれ……」


 そう残してこのみのマンションをトボトボと後にする僕。しかし、疲れ切った僕の胸には確かな達成感があった。そうか、これが演じるってことなのか。その想いを噛み締めて、僕は帰路に就く。見慣れた町の見慣れたアパート、さいか荘に僕は帰って来た。恐らく、僕の帰りを待って不機嫌になっているメイドさんがいることだろう。

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