第37話 偶像とキャラクターボイス
――時間は1ヶ月前に遡る。
「ちょっと、兄貴、大変なことになってるわよ!」
それは、映画「ハイタッチガール」のPV及びキャストが公開された翌日のこと。
「大変って、何が?」
「えっと……『ハイタッチガール』のキャストの件でね……とりあえずこれを見て!」
彼女は自分のスマートフォンを操作して僕に寄こす。そして、寝ぼけ眼に映ったのは、その発表に対する多数のコメントたちであった。
「ヒロインが
「
「
「棒読みとか言われてるけど、
僕は続けてPVを流す。そこには配達のバイトで自転車を走らせる女の子が映っていた。そして、その唇が動き、同時に耳に流れ込んでくる音声は――
「お届け物でーす」
――全身から力を奪いかねない、脱力感溢れる声だった。そう、
「ど……どうしよう、これじゃこの映画は……」
狼狽える
「えっと、
「……あっ、言われてみればそうね……あはは……でも、出資したからにはこの反応は複雑だわ」
「それもそうだね……どうしたものか。まあ、今度アフレコ現場に行ってくるから、できることがあったらしてくるよ」
「あんたに何ができるっていうのよ……こんなのどうしようもないじゃない」
「……ははは」
――それから1ヶ月後、僕の耳に響いた挨拶は、PVで聴いた脱力感をそのままお届けするものであった。そう、スタジオに現れたのは、ヒロインの声優を務める
「……!」
そんな彼女と一瞬目が合う。しかし、彼女はすぐに視線を外し、スーツ姿の中年男性たちへと躊躇なく握手を交わし、笑顔で愛想を振りまく。
「あっ、監督ぅ、この度はありがとうございますぅ」
「ええ、こちらこそ……えへへ」
自分より身長の低い
「私このパン嫌いなのよね」
――端役で出演していた
「お疲れ様でした」
そう告げてスタジオを後にしようとする
「お疲れ様でした……」
それは
「ねえ、あなた、サイネでしょ?」
声のする方に振り返ると、そこに居たのは
「サイネって……誰?」
焦りを悟られないように声を作って冷静を装うも、語尾が少し震えてしまう。彼女はそんな僕の前で片方の口角を上げ、更に続ける。
「とぼけたって無駄だよ。私はネットアイドルだった頃のあなたを研究し尽くした」
「な……何故そんなことを?」
「ふふ、観念したようだね。簡単なことだよ。あなたが私の人気を奪ったからだよ。まさか、女装した男に奪われるなんて思いもしなかったけど、でも実際そうだったんだから、認めるしかないよね。だから、あなたの人気の秘訣を探っていたんだ」
「でも、僕はもうサイネになるつもりはない。だからもう、あなたの人気を侵害することはないよ……」
「そう……でもね、そんなことより、お願いがあるの」
彼女は僕がメイド服姿でネットアイドルとして活動していたことを見抜いている。それをネタに強請られるのだろうか――そんな不安が僕の胸をよぎる。
「な……何を……」
「そんなに怯えないでよ。私が悪者みたいじゃない……あのね」
僕は息を呑み、彼女の言葉の続きを待つ。冷たく張り詰めた空気が、ふたりの間を吹き抜けると、彼女は意を決したように口を開く。
「演技、教えてほしいんだっ! お願いっ! サイネ!」
それは予想だにしない要求だった。
「サイネとして振る舞っているあなたの言葉のひとつひとつが、私にとっては羨ましかった。どうしてそんなに可愛くて女の子らしいのかって、不思議に思っていた。だけど、それが男だったなんて、とても悔しかった。なんで女の私にはできない女の子の言葉が、あなたの口からは溢れてくるの? ねえ、教えてよ!」
彼女は僕の肩を掴み、揺さぶりをかけて涙ながらに訴える。そして、そのまま下を向いて続ける。
「演技がこんなに難しいなんて思ってもみなかったよ……だって、私は自然に話してるつもりなのに、自分で聴いてもぎこちなくて不自然で、とても聴けたもんじゃなかった……あのPV、何度再生しても、私の声だけが浮いていた。恥ずかしいんだ。あんなものが今でも晒されてるなんて……だから、私に女の子の演技を教えてよ! サイネ!」
辺りは静まり返っていた。彼女の声だけが冷たい夜風に散って行く。僕はその必死の訴えに応えることができるのか、それだけを心の中で自問自答していた。
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