第37話 偶像とキャラクターボイス

 ――時間は1ヶ月前に遡る。


「ちょっと、兄貴、大変なことになってるわよ!」


 それは、映画「ハイタッチガール」のPV及びキャストが公開された翌日のこと。珠彩シュイロはいつものように遠慮もなしに僕の部屋に上がり込み、要領を得ない言葉を投げた。


「大変って、何が?」


「えっと……『ハイタッチガール』のキャストの件でね……とりあえずこれを見て!」


 彼女は自分のスマートフォンを操作して僕に寄こす。そして、寝ぼけ眼に映ったのは、その発表に対する多数のコメントたちであった。


「ヒロインが夢咲ユメサキ美楽ミラクだなんて……なんで声優じゃなくてアイドルにやらせるんだよ」


夢咲ユメサキちゃんはアニメも好きだって公言してるし、声もいい。声優になんか引けを取らないだろ」


夢咲ユメサキがいいとか言ってる奴ら、PV見たのか? あの棒読みじゃ映画が台無しだ」


「棒読みとか言われてるけど、夢咲ユメサキちゃんの素朴な演技はわざとらしい声優のものより心に響く」


 僕は続けてPVを流す。そこには配達のバイトで自転車を走らせる女の子が映っていた。そして、その唇が動き、同時に耳に流れ込んでくる音声は――


「お届け物でーす」


 ――全身から力を奪いかねない、脱力感溢れる声だった。そう、夢咲ユメサキ美楽ミラクはアイドル。声優どころか芝居の経験すらない素人そのものの演技が、アニメファンたちに、そして僕にも衝撃を与えたのだ。


「ど……どうしよう、これじゃこの映画は……」


 狼狽える珠彩シュイロ。しかし、彼女は肝心なことを忘れていた。


「えっと、燈彩ヒイロちゃんが絵の勉強ができればそれでいいんじゃないの?」


「……あっ、言われてみればそうね……あはは……でも、出資したからにはこの反応は複雑だわ」


「それもそうだね……どうしたものか。まあ、今度アフレコ現場に行ってくるから、できることがあったらしてくるよ」


「あんたに何ができるっていうのよ……こんなのどうしようもないじゃない」


「……ははは」


 ――それから1ヶ月後、僕の耳に響いた挨拶は、PVで聴いた脱力感をそのままお届けするものであった。そう、スタジオに現れたのは、ヒロインの声優を務める夢咲ユメサキ美楽ミラクだったのだ。彼女の容姿、存在感は、そこにいる誰よりも強く輝いていた。ウェーブのかかった茶色いセミロングの髪も、小さな顔に光るふたつの緑の瞳も、手足が長く、メリハリの効いたシルエットも、学校の制服のようでいて装飾の効きすぎた赤い派手な衣装も、全てが彼女がアイドルであることを体現しているかのようだった。しかし、こうしている間にも、彼女の出演をめぐる論争は激化し、夢咲ユメサキファンとアニメファンの対立の溝は深まり続けている。羨望と不安、僕はそのふたつの想いが綯い交ぜになった視線で彼女を見つめていた。


「……!」


 そんな彼女と一瞬目が合う。しかし、彼女はすぐに視線を外し、スーツ姿の中年男性たちへと躊躇なく握手を交わし、笑顔で愛想を振りまく。


「あっ、監督ぅ、この度はありがとうございますぅ」


「ええ、こちらこそ……えへへ」


 自分より身長の低い夢咲ユメサキさんより腰を低く屈め、恥ずかしそうに白髪頭を掻きながら挨拶する監督。どうやら監督は、アイドルの起用を納得ずくのようだ。そうしてアフレコが開始する。老若男女、数々の役者がひしめき合う中で、ひときわ光る演技をしていたのが――


「私このパン嫌いなのよね」


 ――端役で出演していた星宮ホシミヤ澪織ミオリであった。この映画では、主人公が配達をするごとに、サインをもらうと共にハイタッチをするという変な設定があるのだが、星宮ホシミヤさんはそのハイタッチに不満を漏らしながら応じる少女を見事に演じ切っていた。対して、夢咲ユメサキさんの演技は何度もリテイクを受け、彼女ひとりだけが居残りでアフレコを続けるも、音響監督の納得する演技をすることができないようだった。監督はニコニコ笑いながらそんな彼女を見守るが、音響監督のOKが得られないまま、アフレコは後日に持ち越される。


「お疲れ様でした」


 そう告げてスタジオを後にしようとする星宮ホシミヤさんは、その表現力を買われ、その日の収録で様々な端役を得ていた。彼女は去り際に一瞬こちらを見て柔和な微笑みを浮かべる。僕はその真意を測りかねながらも、視界の外から消沈した声を耳にする。


「お疲れ様でした……」


 それは夢咲ユメサキさんの口からこぼれたものだった。彼女の背中は丸くなり、スタジオに現れた時とは対照的に、瞳からは輝きを失っていた。僕はそのことを気にしつつも、周りのスタッフとひとしきり挨拶を交わす。どうやら僕は、珠彩シュイロのお陰でネット界ではそこそこ有名な人物のようで、親を亡くしたという境遇までもが周知のところであったようだ。そして、僕がスタジオを後にしようとした時、暗がりの中で呼び止められる。


「ねえ、あなた、サイネでしょ?」


 声のする方に振り返ると、そこに居たのは夢咲ユメサキ美楽ミラクだった。彼女は腕を組みながらこちらを睨みつけるように佇んでいた。しかし、僕にとって衝撃的だったのは、その口から放たれた名前の方であった。


「サイネって……誰?」


 焦りを悟られないように声を作って冷静を装うも、語尾が少し震えてしまう。彼女はそんな僕の前で片方の口角を上げ、更に続ける。


「とぼけたって無駄だよ。私はネットアイドルだった頃のあなたを研究し尽くした」


「な……何故そんなことを?」


「ふふ、観念したようだね。簡単なことだよ。あなたが私の人気を奪ったからだよ。まさか、女装した男に奪われるなんて思いもしなかったけど、でも実際そうだったんだから、認めるしかないよね。だから、あなたの人気の秘訣を探っていたんだ」


「でも、僕はもうサイネになるつもりはない。だからもう、あなたの人気を侵害することはないよ……」


「そう……でもね、そんなことより、お願いがあるの」


 彼女は僕がメイド服姿でネットアイドルとして活動していたことを見抜いている。それをネタに強請られるのだろうか――そんな不安が僕の胸をよぎる。


「な……何を……」


「そんなに怯えないでよ。私が悪者みたいじゃない……あのね」


 僕は息を呑み、彼女の言葉の続きを待つ。冷たく張り詰めた空気が、ふたりの間を吹き抜けると、彼女は意を決したように口を開く。


「演技、教えてほしいんだっ! お願いっ! サイネ!」


 それは予想だにしない要求だった。


「サイネとして振る舞っているあなたの言葉のひとつひとつが、私にとっては羨ましかった。どうしてそんなに可愛くて女の子らしいのかって、不思議に思っていた。だけど、それが男だったなんて、とても悔しかった。なんで女の私にはできない女の子の言葉が、あなたの口からは溢れてくるの? ねえ、教えてよ!」


 彼女は僕の肩を掴み、揺さぶりをかけて涙ながらに訴える。そして、そのまま下を向いて続ける。


「演技がこんなに難しいなんて思ってもみなかったよ……だって、私は自然に話してるつもりなのに、自分で聴いてもぎこちなくて不自然で、とても聴けたもんじゃなかった……あのPV、何度再生しても、私の声だけが浮いていた。恥ずかしいんだ。あんなものが今でも晒されてるなんて……だから、私に女の子の演技を教えてよ! サイネ!」


 辺りは静まり返っていた。彼女の声だけが冷たい夜風に散って行く。僕はその必死の訴えに応えることができるのか、それだけを心の中で自問自答していた。

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