第32話 変身

「くっくっくっ……菜音ナオト様にも……私の気持ち、味わわせて差し上げますよ」


 悠季ユウキさんは僕の前で座り込み、俯いたまま不気味な笑みを浮かべる。どうやら彼女は、僕の謝罪が気に入らなかったようだ。


「ど、どういうこと?」


菜音ナオト様、ちょっと着てもらいたいものがあるんですよ!」


 顔を上げた悠季ユウキさんの表情はとても朗らかなものであった。声のトーンも先程とは打って変わって、明るい響きに変化していた。そして、悠季さんが取り出したのは、どこからどう見てもメイド服であった。


「そ、そんなの……」


「私の気持ちを理解できるチャンスなのですよ?」


「……わ、わかったよ」


 そうして悠季ユウキさんは僕のパジャマを脱がせ、メイド服に着替えさせる。彼女は僕の裸を目の前にしても鼻歌を歌える余裕を見せた。彼女は僕の髪を櫛で整え、唇に淡い桃色のリップを塗る。


「はい……できました! そうだ! 最期にこれを!」


 悠季ユウキさんが手にしていたのはメガネだった。フリルカチューシャ、ニーソックス、そして、何故か男子高校生の身体にピッタリのサイズのゴシックロリータなメイド服を身にまとった僕は、彼女にされるがまま、そのメガネをかける。度は入っていないようだ。


「じゃあ、菜音ナオト様、私もちょっと着替えてきますね♪」


 悠季ユウキさんは自分の鞄を手に浴室へと走る。その時――


 ピンポーン


 ――部屋のチャイムが鳴った。僕は扉が閉まったばかりの浴室に目を泳がせる。


「……あっ、菜音ナオト様、出てくださいますか? 今、手が離せないので」


 悠季ユウキさんのその言葉のままに、僕は玄関の扉を開ける。そこに立っていたのは――


「こんにちはっ! 来てあげたわよっ! って、あんた……」


 ――月詠ツクヨミ珠彩シュイロ、その人だった。彼女は目を丸くしたまま、次の言葉を口にしようとしている。彼女が僕に辛辣な言葉を叩きつける前に、弁明しなければならないだろう。


「こ、これはね……」


「あんた…… 帰ってきたの……ね」


 彼女はその歓喜に満ちた声と共に顔を綻ばせ、僕の両手を握る。僕もつられて、その柔らかく暖かい手を握り返す。そして――


「……って、果音カノン、あんた背、高くなったわね……手も心なしか、大きくて硬いような……」


「いや、僕は……果音カノンじゃなくて」


「……ひぃっ! な、何勝手に人の手を握ってるのよ! あ、兄貴なの? あんたがそんな奴だったなんて……!」


 汚物を前にしたような視線でたじろぐ珠彩シュイロ、僕も彼女に対する弁明の余地がない。その時、僕の後ろから明るい声が響く。


「あ、珠彩シュイロちゃん、いらっしゃい……って、どうしたんだい?」


 そこに居たのは白と青のダボダボなパーカーを着て、グレーのハーフパンツを履いた――悠季ユウキさんだった。


「……ゆ、悠季ユウキ、あんたの恰好も、ちょっとびっくりしたけど……それよりっ! こいつが何でメイド服を着てメガネをかけてるのっ!?」


「ああ、それ、菜音ナオトさんにはボクの気持ちを味わってもらおうと思ったんだよ」


 悠季ユウキさんはすっかり口調が変わり、その出で立ちと癖のある水色のベリーショート、そして凛々しい顔立ちが、美少年のような、いや、美少年そのものの雰囲気を醸し出していた。


「あはは、菜音ナオトさん、どうしたの? その顔。それよりその恰好、すごく似合ってるよ」


「まさか、これって悠季ユウキの仕業なの?」


 珠彩シュイロ悠季ユウキさんに鋭い視線を送る。


「そうだよー。珠彩シュイロちゃんも勘違いするくらい……」


「に、似ているわ……果音カノンに」


「そ、そうなの?」


 僕が疑問を口にすると、悠季ユウキさんは鏡を持ち出してきた。


「うん、菜音ナオトさん、見てごらんよ。自分の姿ってやつを」


 そう言って悠季ユウキさんは鏡を僕に向ける。


「……え……果音カノン……果音に瓜二つじゃないか……」


 僕はその形を確かめるように両手を自分の顔に当てる。そして、その表情は自然と目尻が下がり、だらしなく綻びる。


「何、自分の顔見てうっとりしてるのよ! 気色悪いわね!」


「あははっ! 珠彩シュイロちゃんだって間違えたじゃないかっ! あははははっ!」


「うっさいわね悠季ユウキ! あんたも素に戻ってるんじゃないわよ!」


「ボクはしばらくメイドの仕事をお休みすることにしたのさ! 菜音ナオトさんはボクの気持ちを理解したいみたいだしね」


「『菜音ナオトさん』って……あんた、使用人のプライドはどこにやったのよ」


「そうか、敬わないといけないね。うーん……あっ! じゃあ、こう呼ぼうか……姉さん!」


「ね……姉さん? って、僕のこと?」


「姉さん、『僕』じゃないでしょう? 『私』、ほら、言ってごらん」


「……わ、私」


「そう、そして、姉さんの名前は……野菜の『サイ』に音色の『』で……サイネだよ」


 悠季ユウキさんはぼ――いや、私の目を、その琥珀色の瞳でじっと見つめる。その時私は、体が宙に浮いてるかのような、不思議な高揚感を覚えていた。


「私は……サイネ……ご主人様に仕える……メイド」


「そう、姉さんはボクに仕えるメイドさん……」


「……あんたたち、何がどうしたって言うのよ!」


珠彩シュイロ様……」


「ひっ! そんな呼び方……やめなさいよ……兄貴」


珠彩シュイロ様、私はメイドです。なんなりとお申し付けを」


「ちょっと! 悠季ユウキっ! 兄貴に何をしたのよっ!」


「ボクは何もしてないよ。ただ、姉さんにはきっと、変身願望があったんだよ。ほーら、姉さん……今度は姉さんのお仕事振りを……動画サイトで公開するよ。いいね?」


「はい、悠季ユウキ様、承知致しました」


「はははっ!」


「何、あんたら……そういえば悠季ユウキ、あんた、この部屋の様子を配信してたわよね? あれって兄貴に許可って……」


「取ってなかったよ。だからこんな事態になってるんじゃないかっ♪ ……くくくっ」


「しかし、ホントに果音カノンにそっくりね……まるで成長した……って、ここまでは成長しないか……でも、胸はそんなに変わらないわね」


 珠彩シュイロ様は私を上から下まで嘗め回すように眺めながらそう漏らす。


珠彩シュイロ様……そ、そんなにジロジロ見ないでくださいませ……私、お仕事に戻りますっ!」


「うう、気持ち悪いけど、果音カノンに言われているようにも思えるわね……」


「姉さん、パソコン借りるよ」


 悠季ユウキ様は私のパソコンの前に座って操作を始める。私はと言えば、悠季様がやり残した掃除を完遂すべく、ワンルームの中をせわしなく駆け回っていた。珠彩シュイロ様は悠季様が操作するパソコンの画面を覗き込んでいた。


「……ムーバーの設定画面なんて開いて、何すんのよ?」


 ムーバーは世界最大の動画サイトの名称である。珠彩シュイロ様が見守る前で、悠季ユウキ様は以前のチャンネルを潰して、新しいチャンネルを作成していた。


「『お姉さんメイド観察日記』っと」


「あんた、今、ものすごく悪い目をしてるわよ……」


「元はと言えば、珠彩シュイロちゃんがあのカメラを仕掛けたんじゃないか……あんなものが無ければボクだって、こんなこと思い付かなかったよ」


「人のせいにしないでよっ!」


 そうして、私と悠季ユウキ様の生活風景は、悠季様の編集によって演出され、ネットを介して赤裸々に公開されることとなった。そして、登録者は瞬く間に100万人を超える。その人気の理由は、悠季様と違って、走る、滑る、見事に転ぶといった、何をしてもドジを踏む私のダメイド加減にあった。


「姉さん、ボク、着替えたいんだけど」


「はい、かしこまりました。どうぞ、こちらへ」


「うん……あっ、姉さんちょっと、その、手が……」


「申し訳ありませんっ!」


 極めつけは、悠季ユウキ様がその容姿を利用して、「少年とお姉さん」という構図を作ったことにあった。事あるごとに私と悠季様はカメラの死角に入り、危なっかしいやり取りを繰り広げていた。


「『ワンルームメイド』だった頃より、アクセスの伸びが早い。やっぱりボクの狙い通りだな……」


 悠季ユウキ様はパソコンの画面を見ながらそう呟きつつも、次の作戦を練っているようだった。


「姉さん、歌に興味はあるかい?」

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