第6章 TRANCE SISTER

第31話 由野悠季

菜音ナオト様、朝ですよ。休日だからっていつまでも寝てないで……」


 僕の使用人、由野ヨシノ悠季ユウキさんの朝は早い。彼女は僕が天涯孤独になり、ワンルームのアパートに引っ越してからも、かいがいしく僕の面倒を見てくれる。とは言っても僕は財産まで没収されたわけではないので、僕と彼女の関係が変わらないのもそれほど不思議なことではないのだろうが。


「いつまでも寝ていると……キスしますよ?」


 僕が狸寝入りをかましていると、彼女はこんな冗談を口走る。そうして僕は目を開けることを余儀なくされる。


「うわっ! 近っ!」


「……急に動かないでください。唇が触れたら使用人と主人の立場を超えてしまいます。そんなことがあってはなりません」


 不用意に顔を動かすと唇が触れる距離まで接近している悠季ユウキさんの方に問題があると思うのだが、彼女は終始そんな感じで僕をからかってくる。しかし、からかってるにしては笑いひとつこぼさず、ミステリアスな雰囲気を保ち続けているのが彼女だった。その薄水色のベリーショートカットと琥珀色の瞳は、この世のものとは思えないほど美しい。


「私の瞳の中に誰か見えるんですか?」


 いけないいけない、ついつい見とれてしまう。悠季ユウキさんは僕が起きる前に起き、僕が寝た後に寝ているようで、眠っているところを見たことが無い。恐らく、この8畳のワンルームで、僕の布団の隣に布団を敷いて寝ているのだろうが、その布団も僕が目を覚ます時には綺麗に折りたたまれて、押し入れに収まっている。


「いや、綺麗だなって……」


「バカなこと言ってないで、朝食にしますよ」


 悠季ユウキさんは僕が何を言おうがこんな調子である。日向ヒナタ実羽ミハネの一件があった時は多少素に戻っていたようだが、近頃は以前に増して僕に冷たい態度を取る。


「……何これ?」


「見れば分かるでしょう。和牛ステーキです」


「朝から?」


「ええ、主にスタミナをつけてもらいたいという、メイドからの切なる願いなのです」


 まただ。この人は何かといえば、常識を逸脱した行為に走る。


「いやー、食べられなくはないけど、ちょっとそれはおかしいでしょ。牛にしてみたら朝食に出されるのは牛乳くらいだと高を括ってるのに、肉まで出された日には、ショックで温室効果ガスの溜息が増えて、地球温暖化が加速するよ?」


「はぁ、牛のゲップが温暖化をもたらすという話ですか。それって本当なんですかね?」


「知らないけど、朝から牛ステーキはないって話をしてるんだよ」


「さようですか。では次は何を出せばいいのやら……」


「普通の朝食にしてください……」


 朝からこんな調子の疲れる会話を繰り広げる僕と悠季ユウキさん。僕もつい調子に乗って思い付いたことをまくし立ててしまう。そして、僕が困り果てているのは、彼女の言動だけではない。


「あの、悠季ユウキさん……」


「はい、なんでしょう?」


 悠季ユウキさんはメイド服を身にまとい、部屋の掃除をしている。8畳ワンルームだというのに、その念の入れようは屋敷に住んでいた頃と遜色がない。彼女は自分の背が届かない場所をも毎日掃除する。そう、踏み台や、時には脚立を用いて。


「ス、スカートの中……見えそうなんですけど」


 悠季ユウキさんは僕の言葉に一瞬クスっと笑い、脚立に足をかけたまま、スカートの端をつまんで振り返ってみせる。


菜音ナオト様、またそんな所ばっかり見て、私に欲情してるんですか?」


「いや、違うよ」


 屋敷に住んでいる時には、膝の下、ふくらはぎをも覆い隠していたスカートが、いつの間にかふとももを露にしている。それは、どこかのタイミングで履くスカートを換えた訳ではないようだ。気付かぬうちに徐々にスカートが短くなっていった。そう僕は感じていた。


「なんか段々スカートが短くなってる気がするんだけど……」


「……」


 返事をしない。それどころか僕の言葉に耳を傾ける素振りすら見せない。そうやって彼女は主である僕に対する礼節をいとも容易く軽んじる。


「まあ、いいや……」


 僕は悠季ユウキさんの方を見ないようにPCのモニターに向かう。大体、世間一般のメイドさんというのはどういったものなのだろうか。世間一般の人はメイドを雇ったりしないという矛盾を感じつつも、メイドさんのことを調べるために検索エンジンへと入力する。


(『メイド』……っと。あー、最近何かって言うと、動画が検索上位に現れてくるよな)


 そう、最近の検索エンジンは再生数の多い動画を検索結果の上の方に表示する。これでは使い物にならない、そう思いながらも僕はその動画のタイトルを目で追う。


(ワンルーム……メイドだと!? この世の中にそんなものが存在するのか?)


 僕は我が目を疑った。


(そんなのおかしいではないか、メイドさんが雇えるほどの収入がありながらワンルームに住む、そんな物好きが居るだろうか? いや、これは言葉のレトリックか何か、あるいは企画でそうしているだけだろう)


 僕はそんな風に自分をごまかしながら、興味本位でその動画を再生してしまう。すると、そこに現れたタイトルは――


「スカートを徐々に短くして行ったら、ご主人様はいつ気付くのでしょう? 『スカートアハ体験!』」


 ――そこに現れた水色の髪の女性を見て、僕は合点がいった。


「あの、悠季ユウキさん」


「なんでしょう?」


「もしかして、動画投稿とかしてる?」


「ええ、たしなむ程度には」


 悠季ユウキさんは手を伸ばして窓ガラスを拭きながら、こちらに視線も向けずに答える。


「そっか、チャンネル登録者って100万人くらいいる?」


「そうですね。いつの間にかそこまで伸びていました」


「じゃあ、珠彩シュイロが設置したカメラって、今何かに使ってる?」


 僕は部屋の天井の隅に備え付けられたカメラを見上げる。


「バレてしまってはしょうがないですね……」


 窓拭きを終えた悠季ユウキさんは、言葉とは裏腹に、観念した様子などはなく、平然と振る舞っている。


「どうしてそんなことを?」


 ソファーにかけたままそう口にする僕の前に正座する悠季ユウキさん。


「面白かったからです」


「何その黒幕みたいなセリフ、愉快犯ってこと?」


「ああ、いえ、菜音ナオト様のリアクションとか、ワンルームで働くメイドを観察するとか、そういった要素が視聴者に受けた、つまり面白かったようで、会員数の増加を支えてくれました」


「……言いたいことはそれだけかな?」


「この様子もアップロードする予定です」


「……」


「……」


 永遠とも思える沈黙、悠季ユウキさんはその琥珀色の瞳で、僕をまっすぐに見つめている。


「もしかして、怒ってらっしゃるのですか?」


 首を傾げる彼女に、僕は呼吸を深く整えてから口を開く。


「……これが怒らずにいられるかーっっ!!」


「はあ、そうですか」


 急に立ち上がった僕の口から放たれた叫びは、さいか荘を揺るがし、部屋の空気を一変――させた訳ではなかった。顔色一つ変えない悠季ユウキさんの冷たい一言に、僕は膝と両手を突く。


「どうして……どうして!」


「うーん、魔が差してしまったから? くらいでよろしいでしょうか?」


「いつから……こんなことをしてたの?」


 僕は顔を下に向けたまま悠季ユウキさんに問いかける。


「最初は菜音ナオト様がちゃんと勉強しているか監視するためだったのですが、燈彩ヒイロさんの一件以外では、意外と真面目にWEB授業に取り組んでなさったので、他の活用法を探してたのです。まだ始めてから1ヶ月も経っていないんですよ」


 悠季ユウキさんは軽く微笑む。1ヶ月、そうか、情報伝達速度が光の速さに届こうかという昨今、流行というのものは一瞬にして訪れるものなのか、そう思い知らずにはいられない事態に、僕は愕然とする。


「そ、そうですか……わかったよ……多分、これは……僕が悪かったんだ」


「えっ……」


 僕は顔を上げて悠季ユウキさんに真剣な眼差しを送る。すると、その日初めて彼女の顔色が変わった。悠季さんは足を崩し、少し仰け反って後ろに片手を突く。


「僕が悠季ユウキさんに苦労をかけ続けたから……こんなワンルームに落ちぶれてしまったから……だから、そんなことで気を紛らわせるしかなかったんだね。ごめん、そんなに負担をかけ続けてたなんて……」


「負担……ですか」


 悠季ユウキさんの表情は険しさをにじませる。


「そうだよ……僕は何もわかってなかったんだ。悠季ユウキさんがどんな気持ちで、僕に仕えていたのか……そりゃ、主人をおちょくった動画くらい、投稿したくもなるだろうさ……」


「私が……菜音ナオト様に嫌々仕えていたとでも思っているのですか……?」


「僕には……悠季ユウキさんの気持ちなんてわからなかったんだ……だから、今までごめん……悠季さんの気持ちをわかってあげられれば、僕は……」


 尻を床に付けて俯いた僕の前で、悠季ユウキさんは声色を変える。


「そうですか……私に……謝るんですね……」


「えっ……」


 悠季ユウキさんは女の子座りのまま、ネコのように背中を曲げて俯いていた。美しい水色の前髪の向こう、その表情を伺うことはできない。


「くっくっくっ……菜音ナオト様にも……私の気持ち、味わわせて差し上げますよ」

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