第21話 曰く付きの部屋

 朝起きると、僕の部屋の壁には無数の日向ヒナタ実羽ミハネが描かれていた。僕はその原因をつきとめるために、再び珠彩シュイロを呼び寄せる。やってきた珠彩シュイロは、部屋の壁を見た瞬間腰を抜かしてしまう。悠季ユウキさんが珠彩シュイロに肩を貸し、昨日から起動したままになっている監視カメラの映像を確認すると――


「ひいいっ!!」


 ――そこには、焦点の定まらない眼で一心不乱に壁に日向ヒナタ実羽ミハネの姿を刻み付ける僕たちが映っていた。僕はボールペン、油性マーカーや筆で、悠季ユウキさんはフォークやナイフ、包丁を壁に叩きつけるような動きを見せる。


「こんなことって……僕たち、どうかしてたんだ」


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 誰に向けているのかわからない謝罪を続ける悠季ユウキさん。そして、同様に怯えたまま動けなくなった珠彩シュイロがそこに居た。僕は辛うじて動く震える手を伸ばして、その映像を停止する。


「はぁ……はぁ……」


「……ありがとう、珠彩シュイロ。とにかく、僕たちは現実を受け入れなければいけない。そうだろう、悠季ユウキさん」


「……う、うん」


 すっかり怯え切って目を潤ませている悠季ユウキさんに僕は更に続ける。


「それに、この部屋は借り物だ、それをこんな風に傷つけてしまったんだから、今後どうするにせよ、一旦不動産屋さんに相談しよう。ね?」


「わかりました……」


「だから、僕が行ってくるから、悠季ユウキさんは留守番しててくれるかい?」


「はい……」


 僕はすっかり大人しくなった悠季ユウキさんの頭をひと撫ですると、珠彩シュイロに向けて頭を下げる。


珠彩シュイロ、ごめん、こんなことに巻き込んでしまって。このことは忘れてしまっていいから」


「……な、何よその言い草……私を除け者にしようっていうの?」


「違うよ……僕たちはきっとおかしくなってしまったんだ。そのケリをつけることに珠彩シュイロが付き合う義理なんてないよ」


「おかしくなったなんて言ってる人を放っておけるわけないでしょ? さあ、一緒に不動産屋に行くわよ」


「しかし……」


「別に私が勝手に兄貴について行くだけなんだから、いいでしょ!」


 僕はそうやって珠彩シュイロに押し切られ、共に不動産屋へと向かう。


「おや……天海アマミ様ですね。いかがなさいましたか?」


 不動産屋の主人は僕の顔を覚えていたようだ。ただ、僕の顔を見たその時に、明らかに顔色が変わったことが大変気がかりであった。


「実は……壁を汚したり、傷つけたりしてしまって……僕と由野ヨシノ悠季ユウキという子がやったことなんですが……」


「……その様子だと何か訳ありのようですね。詳しくお聞かせ願えますか?」


「わかりました」


 僕と珠彩シュイロはことのあらましを不動産屋の主人に説明した。主人の長年の苦労を思わせるしわが刻まれた顔が、さらに神妙な面持ちへと変化していった。


「……そうですか。やはりあそこに住んでいるとそうなってしまうのですね」


「何か知ってるんですか? 私も聴いていいなら、ご説明願います」


 珠彩シュイロは主人に説明を求める。


「彼女さんもご心配ですよね。承知しました。ご説明いたします」


 一瞬だけ珠彩シュイロの顔が驚きの表情に変わるが、主人はそれに気付かず、下を向きながら続ける。


「もう薄々お気付きのことでしょうが、実はあの『さいか荘』はいわゆる『事故物件』というもので、あそこに住む人は、皆、奇妙な行動をとるようになってしまうのです。あなたにタダでお貸ししたのも、あそこに1年間、何事もなく人が住み続けたという実績が欲しかったからなのです」


「まあ、そんなことだろうとは思いましたけど……」


「え、珠彩シュイロは知ってたの?」


 珠彩シュイロは僕に、少し呆れた表情を見せる。


「どんな物件だって、タダで貸してくれることなんてないでしょ。何不自由なく生きてきたあんたにはわからないかもしれないけどね……で、あそこでは自殺者でも出たんですか?」


 僕をたしなめた珠彩シュイロは主人に向き直り、当然のことのようにその質問をする。


「……いえいえ、滅相も無い。そんなことは起きていません。ですが、あそこに住むと、ある者は大声で歌い続け、ある者は絵を描き続け、ある者は独り芝居を続ける。皆、そのように変わってしまうのです」


「だから、僕も同じように自分が作り出したキャラクターの幻覚を見てしまった……」


「そうかもしれません。ともかく、あそこに住むことが危険なことには変わりないようです……」


「そうですか。なら、答えは簡単よね? 兄貴」


「簡単って?」


「あんな部屋、引き払ってしまえばいいのよ。あんたはもう自由に財産が使えるし……なんなら、うちに住んでくれてもいいんだし……もちろん、私の兄貴になるって誓ってくれればね」


「だから、兄貴にはならないってば」


「頑なねぇ……まあ、いずれにせよ、あの部屋は違約金でも払って立ち退けばいいことでしょ? 不動産屋さん、それでいいですよね?」


「……お金がいただけるなら願ってもないことですが」


 不動産屋の主人と勝手に話を進める珠彩シュイロに、僕は意を唱える。


「いや、珠彩シュイロ、不動産屋さん、ちょっと待ってください。僕の起こした行動が、あの部屋の何かによって触発されたものだとしても、その原因は僕自身にあります。だから、これは僕の問題です。そこから目を背けるようなことはしたくありません」


「じゃあどうするのよ? また起こるかも知れない幻覚に怯えながら、あそこで暮らすっていうの? 悠季ユウキだっておかしくなっているのよ?」


「こちらとしては、そのまま住んでいただいても構わないのですが……何が起きても私には責任が取れません」


「……それで結構です。珠彩シュイロも、僕や悠季ユウキさんを気にかけてくれるのは嬉しいけど、僕は逃げたりするのが嫌なんだ」


「ふんっ、あんた、軟弱そうに見えて意外と強情よね。わかった、好きにするといいわ。その代わり、私はもう何も手を貸さないから……それにあんな部屋、もう足を踏み入れるどころか、見たくもないわ……あんな怖い思い、もうまっぴらよ……」


 珠彩シュイロはそう言って背中を向けて不動産屋を出て行く。その後ろ姿を消えるまで見つめていた僕は、さっきアパートを出る時に、何故か玄関の床に水たまりのようなものができていたことを思い出していた。


天海アマミさん、どうなさるおつもりですか? 私が部屋をお貸しした手前言えた義理ではありませんが、もうあそこに無理して住み続けることもないかと……」


「そうですね、それが正しい選択なのかもしれませんが……ここで逃げてもいずれどこかで同じようなことが起こる……そんな気がしてならないんです」


「そうですか……止はしませんが」


 そうして僕も不動産屋を後にし、悠季ユウキさんが待っているアパートへと戻る。扉を開けると、彼女は僕の方へ小走りで駆け寄ってくる。


「おかえりなさいませ。それで、どうするのでしょうか?」


 不安さを隠しきれない顔の悠季ユウキさんの向こうでは、相変わらず無数の実羽ミハネが色とりどりの笑みを浮かべていた。


「ただいま。珠彩シュイロと不動産屋さんには退去を勧められたけど……僕はここに住み続けることにしたよ。壁は業者さんにでも頼んで修繕してもらうよ。悠季ユウキさんは……またご親戚の家にやっかいになれればそれでもいいと思うけど」


「そんな、菜音ナオト様がここにいると言うのなら、私もここに居ます。ただ……それならば早くこの壁を修繕して頂きたいというのが本音ですね……」


「そうだね……」


 しかし、僕の脳裏にある考えがよぎる。


(いや、この壁を修繕するだけで済むことか? 結局はまた同じようなことになるだけではないか? 問題は僕と悠季ユウキさんの心と、この部屋にかかっているある意味呪いのようなものだ。それを解決しなければ、意味がないんじゃないか?)


菜音ナオト様、いかがなさいましたか?」


 僕は、小首を傾げる悠季ユウキさんの前で、手にしたスマートフォンでネットを検索した。それは、この部屋と僕にかかっている呪いと決別する手段を探すためであった。


「……オカルト……バスター?」

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