第4章 SISTER SISTER

第19話 捨てられないノート

日向ヒナタ……実羽ミハネ……これが?」


「……そうだ、思い出したよ……日向ヒナタ実羽ミハネは……僕が創り出したキャラクターだ」


 絞り出すようにそう呟いた僕に、珠彩シュイロ悠季ユウキさんは憐みの視線を向ける。それもそのはず、僕はそのキャラクターと実際に話し、行動を共にしたと言ってはばからなかったのだから。


菜音ナオト様、あなたはそのキャラクターと映画を観てきたと、そういうことなのですか?」


「そうだ……」


「兄貴……本当にそんなことがあると思ってるの?」


「わからない……」


 その時、悠季ユウキさんはタブレット端末を手に取り、僕が観に行った映画の情報をネットで検索して調べ始めた。


「……なるほど、専用ゴーグルでまるで映画の中にいるような体験ができるとは書いてありますが、映画の中の世界で動けるなんてどこにも書いておりませんね」


「そりゃそうでしょ。映画なんだから……」


 珠彩シュイロ悠季ユウキさんが持つタブレットを覗き込みながら顎に手を当てて呟く。


「僕は……どうかしてるのかもしれない」


「……兄貴」


 珠彩シュイロはそれ以上、僕にかける言葉を見付けられなかったようだ。それはまるで、手遅れになった患者を前に慰めることしかできない医者のようであった。動きを止めて途方に暮れる珠彩シュイロと僕を前に、悠季ユウキさんは思いがけない言葉を発する。


「こんなものがあるから菜音ナオト様が錯乱されたのでしょう。これはもう捨ててしまいましょう。丁度、断捨離しようとしてたところです」


 そう言って僕の創作ノートを拾い上げる悠季ユウキさん。彼女はそのままそれを他の紙ゴミと共に束ね、何事もなかったように家事に取り掛かり始めた。


「兄貴……私にできることがあれば、なんでもするからさ……その……元気出しなさいよね」


「ごめん……珠彩シュイロ、心配かけて」


「し、心配なんてしてないわよ……えっと、これは……あんたが果音カノンを見付けるために必要だからよ! そう、そういうことよ」


 左手で右腕の肘を支え、右手の人差し指を立て、目を閉じて少し上を向き、すました振りをしながら、彼女は強がって見せる。


「……ありがとう」


「……ひっ……ゴホンッ! お、お礼なんていらないわ。まあ、悠季ユウキの言う通り、それを捨てればあんたの妄想癖も治るかもしれないから、とりあえず様子を見ましょう」


 顔を赤くしながらも、精一杯言葉を紡ぐ珠彩シュイロが僕には少し可愛らしく映る。そうして僕は、他の紙ゴミと一緒に束ねられた創作ノートに別れを告げたのであった。しかし、次の日の朝――


菜音ナオト様、わざわざ束の中からノートを取り出したんですか?」


 悠季ユウキさんが僕の創作ノートを手にしている。


「え、何言ってるの? 僕は何もしてないけど」


「全く、これがそんなに大事なのですか?……」


 呆れた表情を見せる悠季ユウキさんであったが、僕にはそのノートを取り出した記憶など、微塵もなかったのである。


「とにかく、これはもう捨てる。いいですね?」


「ああ、勿論だよ」


「ふむ……もう絶対取り出さないでくださいね」


 しかし、次の日も――


「だから、菜音ナオト様、このノートは捨てるということでよろしいんですよね」


 再び悠季ユウキさんがノートを持っている。昨日と同じ光景に、僕は少し不気味な雰囲気を感じながら、それを捨てることを了承する。その日は丁度、紙や本のゴミ収集がやってくる日であった。ほどなくして収集車がやってきて、創作ノートは無事に回収されていったのである。僕はと言えば、高校のWEB授業にPCから参加し、夕方までみっちり勉強に勤しんだ。


「ただいま帰りました」


 悠季ユウキさんは引き続き、このアパートから果音カノン珠彩シュイロと同じ高校に通っていた。そして彼女が帰宅して真っ先に口にしたのは――


菜音ナオト様……収集されたというのに、取り戻してきたんですか?」


「え?」


 部屋の隅には確かにそのノートが舞い戻ってきていた。それを手に取りペラペラとめくると、相変わらずページの中の実羽が笑っている。


「いや、僕は一日WEB授業に参加していて……」


 僕は悠季ユウキさんに言い訳をする子供のような視線を向ける。


「……菜音ナオト様がひとりの時に何をしようが勝手ですが、わざわざゴミ収集センターまで行って取り戻してきたってことですよね? なんでそんなことをするんですか? こんなもの、もう忘れてくださいよ」


 珍しく強い口調の悠季ユウキさんに、僕は何も言い返すことができない。しかし、僕は確かに、WEB授業に参加していたという記憶しかないのだ。これは動かしようのない事実なのである。


「なんですか? その目は。菜音ナオト様がそんなだから、果音カノン様も愛想を尽かすんですよ」


「……うーん、確かに、僕がやったのかもしれない……ごめん、今度は僕に分からない所に捨ててきてよ」


「わかりました。仰せの通りにいたします」


 しかし、その後も悠季ユウキさんが捨ててきたノートは、次の日には部屋の中の定位置に収まっている。僕には記憶はないし、捨てている場所は悠季ユウキさんしか知り得ないものである。とすれば、ノートが自分で勝手に戻ってきている。そう考えてしまうのも無理はない。


菜音ナオト様……このノート、どうすればよろしいのでしょう……」


「そんなの僕が聴きたいよ……朝起きて部屋を見回すと必ずこのノートが落ちている。そんなの恐怖でしかないよ」


 僕も悠季ユウキさんも困り果ててしまう。あれから一週間が過ぎ、再び土曜日を迎えた朝、アパートのチャイムが鳴る。


「あら、悠季ユウキ、学校で元気がないと思ったら、家に居てもその顔なのね」


 悠季ユウキさんの表情は日に日にやつれてきていた。そのことを気にかけた珠彩シュイロは、再びアパートまでやってきたのであった。


珠彩シュイロ様……わざわざご足労いただき、ありがとうございます……」


「だーからっ、その喋り方止めなさいって言ってるでしょ? もう、友達が落ち込んでるのに放って置けるわけないじゃない」


「ありがとうございます……」


「ふんっ、で、兄貴はいる?」


「あ、はい」


 珠彩シュイロ悠季ユウキさん越しに生返事をした僕を見付けると、玄関で靴を脱いで堂々と部屋に上がってくる。そして、僕の目を真正面からまじまじと覗き込んだ。


「あんた、本当にそのノート、自分で拾って来たんじゃないのよね?」


「そ、そうだよ」


「じゃあ、そこに仕掛けた監視カメラをまた動かしてみましょ。あんたがやったんじゃなければ、あんた以外の何かが映っているはずよ」


 そう、それは珠彩シュイロがこの部屋に泊った時に仕掛けた監視カメラだった。一見天井の照明に見えるそのカメラに、電源を入れようとする珠彩シュイロ。しかし――


「うーん、届かないわね。あんた、ちょっと手伝ってよ」


「えー……」


「早くしないさいよ」


「と言われてもどうすれば……」


「私を肩車すればいいでしょ」


 僕は珠彩シュイロに言われるがままにしゃがみ込む。珠彩シュイロは僕の首にまたがると、足を動かして立ち上がるように促す。僕は珠彩シュイロの脚を胸の前で掴み、両脚に力を入れて彼女を持ち上げる。


「しかし、最初仕掛けた時はどうやってスイッチ入れたの?」


「そんなの、うちの社員がやったに決まってるじゃない」


「女子高生が大の大人をこき使うなんて……」


「何よ、何か文句あるの?」


 珠彩シュイロはそう言いながら、両足の太ももで挟んでいる僕の首を絞めつける。彼女は僕へと加虐しているつもりだろうが、僕が感じている刺激は彼女が想定しているものとは別の、とても甘美なものであった。


「ま、まだ終わらないの……?」


「待ってよ……これ、小さいからスイッチ入れるの難しいのよ……ちょっ! 動かないでよ! 危ないじゃない!」


「うう、ごめん……」


 その時の僕は、必要以上にもじもじと体を動かしていたことだろう。悠季ユウキさんはその様子を、ほくそ笑みながら眺めていたのであった。


「よし、できた! これでノートを捨てて明日を待つだけね」


「ふぅ……」


 僕は珠彩シュイロを降ろしながら、助かったとばかりに息を漏らしていた。


「……くくっ」


「何よ悠季ユウキ、何がおかしいのよ?」


「……いいえ……ぷっ……何も……では、このノート、また捨ててきますね」


「わかったわ。私は兄貴が悠季ユウキを着けて行かないように、ここで見張ってるから」


「そんなっ、一度もそんなことしてないよ」


「本当に? あんたはこの件の一番の容疑者なんだからね」


「まあ、それもそうか……でも、なんでこんなことを?」


「ん? どういうこと? あんたを見張るのがおかしいっていうの?」


「いや、珠彩シュイロにとってはこの件なんてどうでもいいんじゃないかなって……」


「そ、そんなことないわよ……将来の兄貴が変な妄想に取り憑かれてたら嫌じゃない」


「いや、だから兄貴にはならないって言ってるじゃないか……」


「もうっ、そろそろ観念しなさいよね。全く、往生際が悪いんだから」


 悠季ユウキさんはそんな僕たちのやり取りを尻目に、ノートを捨てに出かけて行った。珠彩シュイロは僕を監視すると言った手前、僕を眼前に捉えて離さなさい。しかし、そうしていても間が持たないからか、彼女は僕へと質問を投げかける。


「ねえ、さっき私を肩車した時、なんで震えてたの?」

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