第14話 日向実羽

 僕は現在自分が住んでいるアパートの前で、「さいか荘」という名前の意味を考えていた。そんな時、歩道に佇む僕を呼ぶ声が聴こえてくる。


菜音ナオトくん! やっとみつけたよ!」


 息を切らして僕の名前を呼ぶのは――


「……実羽ミハネ!? どうしてこんなところに?」


「それはこっちが聴きたいよ。急に居なくなったと思ったら、お金持ちのお嬢さんのお兄さんになるだなんて、私驚いちゃった」


 彼女の名前は日向ヒナタ実羽ミハネ。僕より年齢がひとつ下で、僕より身長が20cmほど低い、ピンク色のショートボブヘアと、血のような赤い瞳をした少女であった。彼女は僕が中学2年生の頃に学校で偶然知り合い、なんとなく一緒にいるのが心地よいと思える関係なのであった。彼女は僕が引きこもったあとも連絡を取り合う仲で、僕は時折彼女に誘われて外出することもあった。もっとも、彼女に誘われること以外では、外出することはなくなっていたのだけれども。


「いや、あれは珠彩シュイロが勝手に……」


「ふーん、もう呼び捨てにしてるんだ……」


 そう言って顔を横を向け、遠くを見つめる実羽ミハネ。彼女は彼女が通う学校の制服と思しき、ペールブルーを基調とした、シンプルながら完成されたデザインのセーラー服を身に着けていた。彼女がこちらに向き直ると、茶色いバッグを下げた両腕の間、胸元の黄色いリボンが揺れる。


「まあ、それで菜音ナオトくんが幸せになるならいいんじゃないかな?」


 実羽ミハネは小首を軽くかしげ、ニッコリと微笑む。


「いやいや、あれは僕の意思とは全く関係がなくて……」


「そうなの? あの人……珠彩シュイロさんと映ってる菜音ナオトくんは、まんざらでもない感じだったけどぉ?……くすっ」


 実羽ミハネは僕の顔を、下から流し目で覗き込み、挑戦的な微笑みを浮かべていた。


「……ゴクリ」


「あははっ! 冗談だよ冗談っ! 菜音ナオトくんが私以外の女の子と仲良くなることなんてないもんねっ……くくくっ」


 片手でお腹を軽く押さえて少し俯き、震えながら笑う実羽ミハネ。小刻みに上下に揺れる胸のリボンは、彼女の屈託の無い笑顔をより一層引き立てていた。そして僕は重要なことに気付く。僕は彼女のセーラー服姿を初めて目にするのであった。


「えっと……その制服、似合うね」


「何? 急にお世辞? 菜音ナオトくん、そういうこと言えるようになったんだ」


「いや、そういう訳じゃなくて……あ、えっと……今日、学校は?」


 僕は彼女の姿に見惚れていたことを誤魔化すかのように、話を無理やり逸らす。


「……あっ! 登校中だったんだ! 電車の中でスマホ見てたら、菜音ナオトくんが映ってて、住所もバラされてて……それで、急いでここに来たんだった」


「ええ……なんでそんなことを……」


「だって、こないだニュース見てたら菜音ナオトくんの家族が飛行機事故に遭ったって……だから、菜音ナオトくんも死んじゃったと思ってたの。電話もなかったし……私からかけて繋がらなかったと思うとこっちからかけるのも怖くて……」


「ああ、そっか……ごめん、色々あってね……でも、もう大丈夫だよ。今はこのアパートに住んでるんだ。なんでそうなったかってのは話せば長くなるんだけど……」


「……あはは、そっか、うう……私からも積もる話があるけど、今日はもう学校行かなきゃいけないからっ! 菜音ナオトくんの無事を確認しただけで満足! じゃあねっ!」


 実羽ミハネはそう言って逃げるように走って行った。僕が呆然とその後ろ姿が消えるのを追っていると、後ろから声がする。


「……菜音ナオト様」


 そこにはメイド服に着替えた悠季ユウキさんが立っていた。彼女の琥珀色の瞳は、僕の目をまっすぐに捉える。


「ああ、悠季ユウキさん……もう着替えたんだ」


「ええ、着替え終わって掃除を始めたら、何やら話し声が聴こえてきたもので……気になって様子を見に来たんです」


「そ、そうなんだ」


「全く、掃除なんてしている場合じゃありませんよ」


 彼女は少し不機嫌そうな表情を見せる。


「ええ……道端で話すのがそんなに変?」


「ご近所の迷惑になります。ささ、菜音ナオト様、お部屋にお戻りください」


 僕は悠季ユウキさんに手を引かれて部屋に戻る。そして、部屋を掃除する彼女をボーっと眺め続けていたのであった。


菜音ナオト様、学校のお勉強はなさらないのですか?」


 悠季ユウキさんは掃除の手を止めずに僕に問いかける。


「ああ、忘れてた。僕、高校生だったんだよね……」


「そうですとも……それに、皆亡くなってしまったとはいえ、菜音ナオト様は天海アマミ家の当主となられるお方です。そろそろご自分の将来というのを、真剣に考える時が来ているのではないですか?」


 僕が何も言い返せないでいると、悠季ユウキさんの口からはいくつものお小言がこぼれ落ちる。そうしている間にも、彼女の手によって、部屋の汚れも綺麗に落とされて行くのであった。


「ふう、こんなところですかね」


 悠季ユウキさんが額の汗を拭う。そんな時の彼女の顔は、軽い運動をした後の少年のように凛々しい。そして、彼女とふたりで朝食とも昼食ともつかない食事を摂ると、彼女は買い物に出かけると言う。僕はと言えば、珠彩シュイロのSNSへの投稿を撤回させる方法を、自分のスマートフォンを使って調べていたのであった。そして、自分でも気付かぬうちに動画サイトに入り浸り、あれよあれよという間に時間は夕方。悠季ユウキさんも帰宅した。その時、僕のスマートフォンに着信が入る。


「もしもし」


「あ、私だけど、今学校終わったんだ。菜音ナオトくん、出るの早いね。もしかしてずっとスマホいじってたの?」


 電話越しの実羽ミハネに図星を突かれてしまった。


「ああ、あの珠彩シュイロの発言を撤回させられないかなってね」


「あははっ、あの人頼んでも聴かなそうだもんね! なんか厄介な人に捕まっちゃったみたいだね、菜音ナオトくん」


「うん……困ったもんだよ」


「ふふ……でさ、次の土曜日なんだけど、菜音ナオトくんさえ良ければ、一緒に出掛けない? ほら、積もる話もしたいし」


「……えっと、ちょっと待ってね」


 僕はスマートフォンから口を離し、夕飯の準備をしている悠季ユウキさんの方を向いて問いかける。


悠季ユウキさん、次の土曜日なんだけど、出掛けてもいいかな?」


「どうぞ……というか、私に断る必要なんてありませんよ。もっと堂々としていてくださいませ」


「ああ、ありがとう……」


 僕は再びスマートフォンに向かう。


「えっと、実羽ミハネ? いいよ。土曜日だよね」


「良かった。ご家族が大変なことになったから、しばらく会えないかと思ってた」


「ああ、それは大丈夫。もう落ち着いたからね」


「そっか、じゃあ次の土曜日、楽しみにしてるね。時間はあとで決めて送るから」


「わかった。またね」


 そんな約束を交わした後、僕は復学するための手続きを済ませ、平日は悠季ユウキさんが買ってきたPCを使ってWEB授業に出席し、学生としての生活を取り戻していった。そして、土曜日、僕は朝から実羽ミハネに指定された駅前の待ち合わせ場所に赴く。

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