第3章 FAKE SISTER

第13話 さいか荘

 僕はかつて自宅だった広大な更地の前で珠彩シュイロと別れた後、元はと言えばコンビニで働くために借りたアパートに戻った。そして、その日は睡眠不足を取り戻すために、そのまま服も着替えずに一日中眠り明かし、次の日の朝を迎える。


(しかしこの部屋、外は快晴なのにやたら雰囲気が暗いな……光の具合とかじゃなくて……なんというか、空気が重い気がする)


 起き抜け、そんな風に物思いにふけって寝転がったまま天井を見つめていると、ふと視界の端っこに、異様な存在感を放つ物体が映り込む。


(ん、あのノート、ここに持ってきてたんだ……お屋敷の中に置きっぱなしにしてたと思ってたけど)


 それは、山積みにされた荷物の一番上にある古びたノートで、僕が創作を始めたばかりの頃、妄想の丈を書き殴っていたものだった。僕がそのノートを取ろうと、手を伸ばしている時――


「ただいま戻りました」


 ――アパートの部屋のドアがガチャリと開く。そこに現れたのは、制服姿の由野ヨシノ悠季ユウキさんだった。彼女は玄関で平然と靴を脱ぎ、質素なワンルームの中に足を踏み入れる。


「ゆ……悠季ユウキさんっ!? お暇を頂くって言ってたんじゃ……」


「ええ、ですから、一時的に親戚の家に厄介になっていただけです。色々と身辺整理をしたかったもので」


「そうなんだ……てっきり僕を置いて居なくなったものだと」


「私は菜音ナオト様と果音カノン様に仕えるメイド、使用人です。そんなことできるわけないじゃないですか」


 その時、僕の頭の中にある疑問が浮かぶ。


「あ、で、でも、なんでこのアパートが分かったの? お屋敷は更地にされちゃって……」


「ああ、狼狽えてると思ったら、そんなことですか。菜音ナオト様、ご自分のスマートフォンで是非、エゴサーチをされてみてはいかがでしょうか?」


 僕は枕元に置いていたスマートフォンのロックを解除する。


「……エゴサーチって……?」


「ご自分の名前で検索するのです」


 悠季ユウキさんは制服のまま、勝手にキッチンでコンロに火をつけ、お湯を沸かし始めた。


「『天海アマミ菜音ナオト』で検索っと……って、何これ……」


 そこに表示されたのは、僕と兄妹になることを宣言した、月詠ツクヨミ珠彩シュイロのSNSへの投稿であった。彼女はいつの間にか僕とのツーショットを撮影していたようで、その写真にはメッセージがつけられていた。そこにははっきりと「この人が未来の兄貴」と書いてあったのだ。


珠彩シュイロ様、無茶をなさいますね。ですが、そのおかげで私はこのアパートに辿り着けたというわけなのですが」


 ツーショットの背景には、このアパートの壁が映り込んでいた。ただそれだけの情報から住所を特定するなんて、悠季ユウキさんはスパイか何かなのだろうか? そんな彼女は、湯飲みにお茶を注いでちゃぶ台の上に置く。


「どうぞ」


「あ、ありがとう……っというか、これってどうにかならないのかな? こんなの肖像権の侵害だし、僕は珠彩シュイロの兄貴になるって決めたわけじゃ……」


「ご自分で連絡なさってはいかがですか? そのスマートフォンの連絡帳から」


 僕はそんなバカなと思いながらもスマートフォンの連絡帳を開く、そこには登録した覚えのない「月詠ツクヨミ珠彩シュイロ」という名前が刻まれていたのであった。僕は震える指で恐る恐るその連絡先を開く。スマートフォンのスピーカーを耳に当てると、呼び出し音が鳴り響く。そして――


「ああ、兄貴? どうしたの? こんな朝早くから」


 それはまさに月詠ツクヨミ珠彩シュイロだった。頑なに僕を兄貴と呼び続ける彼女の声は、明るくあっけらかんとしている。


「しゅ……珠彩シュイロ? あのSNSの投稿って……」


「ああ、あれ? やっと気付いたの? まあ、先に言ったもん勝ちでしょあんなの。あれが公開されてしまえばもうこっちのもんよ……既成事実ってやつ? にひひっ」


「いや、そんなものは既成事実にはなり得ないよ。それに、僕の意思は尊重されないの?」


「尊重するわよ。そのうちね。あんたが私の兄貴になって、私を妹だって認める日が来るんだから、その時には結果的に尊重されたことになるでしょ」


 彼女はそう言うと、一方的に通話を切断する。僕は物言わなくなったスマートフォンの画面を見つめたあと、悠季ユウキさんが入れてくれたお茶を一気に飲み干した。そのふくよかな味がする液体は、僕の身体を芯から温めてくれる。しかし、僕の腹の底にある納得いかないという想いを溶かしてくれはしなかった。


「さて……この恰好のままでは仕事ができませんね」


 悠季ユウキさんは独り言のようにそう呟くと、制服のブレザーを脱いでハンガーにかけ、ブラウスのボタンに手を掛け始めた。


「ちょちょちょっ……! な、何してんの?」


 悠季ユウキさんは手を止めてこちらに振り返る。


「いえ、学校の制服のまま仕事をするのは私のポリシーに反していますから、こうやってメイド服に着替えてるのですよ」


「なんだ、そうなのか……って違うよ、僕が居るのになんで……」


「ああ、菜音ナオト様が私の着替えをご覧になりたかったかと思いまして。さあ、遠慮なく私の肌を、下着のレースを、皺を、足を登って行くニーソックスを、思う存分ご堪能くださいませ」


 悠季ユウキさんの誕生日は4月20日。彼女もつい先日17歳になったばかりのうら若き乙女だ――なんてモノローグに浸ってる場合じゃないっ! 彼女は既にブラウスを脱ぎ捨て、ブラジャーだけになった上半身を露わにして、その上スカートのホックは外れ、今にも落下しそうになっている。


「うわーっ! 待って! ちょっと、バスルームに引っ込んでるから!」


 慌ててバスルームの扉を開けようとする僕の腕をガッシリ掴む悠季ユウキさん。


「な、何っ!?」


「いえ、主人をバスルームに閉じ込めて、私がこちらで着替えるなど、そんな恥知らずな真似はできません」


「ああ、じゃあ、悠季ユウキさんがバスルームに入るの?」


「いえ、私はその必要を感じていません。なんでしたら、菜音ナオト様と私が一緒にバスルームに入って、私が着替えましょうか?」


「なんでそうなるんだよっ! もういいよ! 僕はちょっと出かけてくるから!」


「左様でございますか。お気遣い痛み入ります」


 僕は慌てて靴を履き、玄関からアパートの廊下に出る。すると、後ろから悠季ユウキさんの声が聴こえてきた。


「着替えたら私は、この手入れが行き届いてないお部屋を綺麗にいたしますから、しばらくお散歩でもしていてください」


「わ、わかったよ」


 そうして僕は、2階の廊下から階段を下り、アパートの敷地から歩道に出て、振り返る。


(部屋もそうだけど、このアパート自体、ずーっと手入れされていないみたいだな……ツタが絡んでるし……それにこの、アパートの名前)


 そのアパートの名前は「さいか荘」。平仮名で書かれているが、その言葉から僕が連想するのは「災禍」や「最下層」といったマイナスイメージだけであった。その時、歩道に立っている僕を呼ぶ声が聴こえてくる。

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