第08話 しょくをもとめて

 目を覚ました僕の視界を、急に大きな人影が遮る。


「おおっ……やっと起きたか……急に倒れたから驚いたんだぞ。君、何かあったのか?」


 そこには工場長が立っていた。僕はソファに横になっていたようだ。僕は周りを物珍しそうに見渡しながら応える。


「あ、いえ、昨日から何も食べていなくて……」


「そうか、しょうがないな……」


 工場長は、デスクの上にあるコンビニ袋の中から三角形の物体を取り出す。


「ほれ!」


 彼はそれを持ち、こちらに手を伸ばす。


「……えっと、いただけるんですか……?」


「目の前で倒れられたのにそのまま出てけなんて言えないだろ。さ、これを食べたら帰るんだ。2つ食べていいから」


 僕はそれを恐る恐る受け取りながら言葉を絞り出す。


「あ、ありがとうございます……」


 デスクの椅子に座りPCの操作を始める工場長に目もくれず、僕が慣れない手つきでその包装を破ると、磯の香りと微かな酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。そして、嗅覚から食欲を刺激された僕は、無意識でそれにかぶりつく。その瞬間、パリっという音と共に、ほのかな甘みと刺激的な酸味が口いっぱいに広がる。一口噛んだ断面を見るとそこには赤い梅干しが――梅干しのおにぎりがこんなに美味しいものだったなんて、僕はそれまで思ってもみなかったことだった。


「ははは、そんなに美味しそうに食べるもんでもないだろ。ははははっ」


 僕は工場長の言葉に耳も貸さずに2つ目のおにぎりを頬張る。勢いよく飲み込もうとするが、僕の細い喉はそれを受け付けず、思わずむせてしまう。


「ごほっ、ごほっ!」


「そんなにがっつくなよ! ほれ、お茶もやるから」


 工場長は座ったままお茶のペットボトルを精一杯手を伸ばして渡してくれる。


「ありがとうございます! 本当に……!」


「おいおい、泣いてるのか?」


 僕は自分が涙を流していることにさえ気付いていなかった。それが喉をつまらせたことによるものなのか、それともおにぎりの味に感動したためなのか、それは定かではなかった。


「ありがとうございます……ありがとうございます」


 僕はそう呟きながら2つのおにぎりを平らげ、ペットボトルのお茶を飲み干していた。


「ああ、どうってことないよ。さあ、申し訳ないが、早めに出て行ってくれるか?」


「ああ、はい……」


「すまないね。ここは職場だから、本来部外者を入れてはいけないんだよ」


「いえ、こちらこそ申し訳ありません……」


 そう言って僕は立ち上がるが、ひとつの考えが頭をよぎる。


「……あの」


「ん、なんだい?」


「えっと、ここで……」


 しかし、僕がそれ以上の言葉を発する前に、工場長は口を開いた。


「ここには人を働かせる余裕なんてないよ」


 そうだった。見回してみれば広いオフィスに工場長ひとりきり。そんな場所に働き口などあるはずもなかったのだ。


「そ、そうですよね……すみません」


 僕はそう言ってトボトボと工場を出る。行く当てもなく歩いていると、さっき食べたおにぎりの味が脳裏に蘇り、唾液が口の中を満たしていた。しかし、その時僕の頭に別の考えが浮かぶ。


(そうだ、コンビニでバイトすれば……確かあそこのコンビニはバイト募集の貼り紙を出していたぞ……!)


 僕は寒さをしのぐために一時的に利用したコンビニを目指す。しかし――


「えっ、住所が無いの? 住所が無い人を働かせることはできないなあ……面接以前の問題だよ」


 ――住所が無い、そんな人間が働く場所はないのだそうだ。僕は俯いてコンビニを出る。すると、聞き覚えのある声がする。


「ねえ、ちょっと……ちょっと、あんた!」


 振り向くとそこには月詠ツクヨミさんが居た。僕は知っている顔を見た安堵からか、即座に彼女に質問を投げる。


「あの、月詠ツクヨミさん、住所ってどこで手に入るのかな?」


「はぁ? 住所? なんかのナゾナゾ? そんなの不動産屋に決まってるじゃない……って、そんなことどうでもいいのよ! 私の下僕……じゃなかった、兄貴になる気になった?」


「不動産屋だね! わかった!」


 しかし、走り出そうとする僕の手を、彼女はがっちりと掴んで引っ張る。


「待ちなさいよ! 私の……兄貴になりなさいって言ってるでしょ!」


「ごめん、月詠ツクヨミさん、僕は住所が必要なので……」


「そんなの、私を妹にすればいくらでもあげるわよ!」


 彼女は更に強く僕の手を引っ張る。


「いやあ……働くためには住所が必要だって言われて……」


「何言ってんのよ! 私と兄妹になるって契約してくれれば、働く必要なんてないのよ……ああっ!」


 絡みつく彼女の細い指を振りほどくと僕は走り出す。後ろではつんのめって転んだ月詠ツクヨミさんが手を伸ばしながら叫んでいた。


「待ちなさいよぉぉぉっ! 兄貴ぃぃぃっ!」


 そして、不動産屋に辿り着く僕。しかし――


「ご予算は? いくらくらいのお部屋をお探しで?」


 ――不動産屋の店主に出鼻をくじかれてしまった。彼が言うには不動産を借りるためにはお金が必要なのだそうだ。僕はお金を得るためにコンビニでバイトすることを思い立って、そのコンビニで住所が必要だと言われたのに、住所を得るためにお金が必要だなんて、世の中というのは不条理なものだと思った。


「お客さん、冷やかしは困りますよ。タダで貸せる部屋なんて……いや待てよ……」


 店主はペラペラと冊子をめくる、そして手を止めてまじまじとその書面を見つめたあと、こちらをまっすぐに見つめながら、神妙な面持ちで小さな声を出す。


「お客さん、1年だけだったあらありますよ。タダで貸せる部屋」


 店主が言うところによると、そこは駅にも近く、キッチン、風呂、トイレなど、申し分なく揃っていて大変便利なアパートだそうだが、今はひとりも入居者がいないそうだ。


「えっ、いいんですか? タダで貸せる部屋なんてないって……」


「ここは特別! だけど、次のことを守っていただけるならばです」


 僕はごくりと息を飲む。


「1日1回はこのアパートに帰ってくること、それだけで十分です。私共は、『このアパートに1年間人が住み続けた』という実績が欲しいので……」


 その後、僕の身元が不明であることなどの点で少し渋られたところはあるものの、僕は無事に住所を手に入れることができた。


「では、1年間ですよ! そうでなければ違約金を頂きますので、ご承知おきください」


 不動産屋の店主は僕をそのアパートまで案内し、僕に鍵を預けて帰っていった。そのアパートは電気も水道もガスも通っているようで、僕は何日かぶりの風呂を堪能し、備え付けられているベッドで眠った。


 次の日の朝、僕は何者かの気配を感じて起きるが、見渡してみても特に変わったところはない。気のせいか、そう思った矢先、僕は肝心なことを思い出す。


(そうだ、コンビニでバイトするんだった!)


 僕は昨日着ていた服をまた着てコンビニへと走る。


「あの、住所は手に入れました。ここで働かせてください!」


「昨日の今日でそんなこと言われても……うーん、まあ、人手不足だからな……その代わり、しっかり働くんだぞ」


「はい!」


 こうして僕はバイトを始め、家とコンビニを往復する毎日を送るようになった。店長や先輩は思いの外優しい人物ばかりで、度々失敗を重ねる僕に対し、丁寧に仕事を教えてくれる。そうして、あっという間に1週間が過ぎた。

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