第04話 喪失

 そうして僕は、勉強も申し訳程度にはこなすようになり、あれよあれよと高校3年の春を迎える。しかし問題は、僕がまだ進路を決めていなかったことにあった。高校時代を自室で漫然と過ごし、悠季ユウキさんに世話されることで何不自由なく生活していた僕に、将来に対する危機感などというものは沸き起こりようがなかったのだ。そんなある日、突拍子もない事件が起きる。


菜音ナオト様……落ち着いてお聴きください」


 いつになく狼狽えた表情の悠季ユウキさんに、僕はただならぬ不安を覚えた。


「旦那様と奥様が乗っていた飛行機が……墜落したとのことです」


 僕は慌ててテレビをつけ、ニュースを見る。すると、その事故が大々的に報道されていた。その飛行機には父と母の他に、親戚縁者が沢山乗り合わせていた。親戚一同で優雅にバカンスしてきたとのことであったが、引きこもりとなっていた僕と、たまたま友達と過ごすためにバカンスを拒否していた果音カノンを残して、ほとんどの人間の命が失われていたのだった。


菜音ナオト様?」


 同じテレビを見ながらいつの間にか涙を流していた悠季ユウキさんに声をかけられるが、僕はそれに耳を貸すことはなかった。それどころか、視野の中央に捉えていたテレビにさえ、意識を向けることはなかった。僕はその時、何かが終わる予感をひしひしと感じ、ただひたすらそれに怯えていたのだ。


菜音ナオト様、お気を強くお持ちください……あとは私にお任せくださいませ」


 諸々の事後処理は悠季ユウキさんが請け負ってくれた。だが、その事故が僕の心に落とした影は重く、それからしばらく何もする気が起きなかった。そして、僕が18歳の誕生日を迎えた4月2日の朝、僕がひとりで朝食を摂っていると、何者かが廊下を歩く足音を耳にする。僕はその足音に懐かしさを覚え、それを追いかけた

。すると、玄関には大きなリュックを脇に置き、制服姿で靴に足を通す果音カノンが居たのだ。


果音カノン……!」


「……起きてたの?」


「まだ、学校は始まってないよ」


 出かける支度をしながら果音カノンは応える。


「私、この家を出て行くんだ」


「そ、そんな……ひとりになっちゃうよ」


「うん、解ってる。私はひとりでも大丈夫だから」


 事も無げにそう告げる果音カノンであったが、実際、成績優秀、眉目秀麗な彼女の能力を以ってすれば、世渡りなど造作のないことなのだろう。僕が言ったのは、僕が心配したのは、僕がひとりになってしまうという意味だったのだ。


「家の財産は……?」


「私はいらないよ。好きにすればいい」


「そんなこと言われたって……僕にはどうしていいか」


 助けを求め、懇願するような僕の声に対し、妹は背中を向けたまま独白する。


「……私さ、今までとっても恵まれてたんだ。この世界には、今日一日を生きることで精一杯な人がたくさん居るんだよね。それなのに私ときたら、この無駄にやたら広い家で毎日何不自由なくのうのうと生きてきた。この世の中に溢れている不幸の一端も、その欠片も知らずに生きてきた。でも、本当にそれでいいのかな? だって、私は偶然この裕福な家に生まれただけだよ? そんなの不公平なんじゃないかな? ……だからね、私、もっと広い世界を見るんだ。何も知らずに生きていくのをやめるんだ」


 それは、僕にとっても同じことだった。だが、無知蒙昧な僕は今までそんなことを考えたこともなかった。そして、僕にとって重要なのはそんなことより今目の前から立ち去ろうとしている妹を引き留めることだった。


「でも、だからって出て行かなくても……」


 果音カノンのスカートの裾が少し揺れた。彼女は身体を横に捻り、こちらに振り返る。その表情はとても物憂げで、僕に憐みのような視線を向けていた。


「じゃあね。さよなら、兄さん」


 果音カノンが僕をそう呼んだのはいつ以来のことだっただろうか。僕はその時、メガネの奥の気だるげな瞳に、やわらかく開かれた唇に、少し逸らした首筋に、首を覆い隠しきらない髪の隙間から見えるうなじに、チャコールグレーのブレザーの下から覗くピンクのセーターに、、袖の先から見える芸術品のような指に、綺麗に揃ったモスグリーンとベージュのチェックのスカートのプリーツに、その下の黒いタイツに包まれたしなやかな曲線を描く脚に、そしてそこから少し透けて見える肌色に視線を泳がせる。それは、僕が今まで見てきた女性の中で、いや、僕が見てきたものの中で一番美しい存在であった。彼女は絶世の美女に成長していた。僕は今までそれに気付けなかったことを悔いた。当然のように、目の前の存在を僕の傍に永遠に閉じ込めておきたいという衝動に駆られる。綺麗に整った顔立ちと、メガネの上のフレームにかかる程度に下ろした前髪、身体を反らせても主張することのない慎ましやかな胸、その全てが愛おしかった――そんなことを考えて、絶句し、金縛りにあったかのように硬直していると、目の前の妹は前に向き直り、扉を開けて歩き出す。朝日の中に溶けてゆくような彼女の後ろ姿に僕はなす術もなく、扉が閉まった後も僕はしばらくそのまま立ち尽くし、ずっと彼女との日々を回想していた。それはまるで、死ぬ間際に見ると言われる走馬燈のようであった。


 そして、僕はその後、妹が帰ってくるのではないかと期待して、毎日玄関の前に立ち続けた。それはまるで、主人を待つ犬のような有様だった。打ちひしがれた僕には、それしかすることができなかったのだ。


 そうして一週間が過ぎ、その日もまた、妹が閉じたきり誰にも開かれていない扉を前にして悲しみに暮れる。それまで何不自由なく生活してきた僕にとって、何かを失うという出来事は耐え難い苦しみであった。いや、その喪失したものが妹であったということが、僕の感情に大きなダメージを与えていた。しかし、思い返してみれば、中学生になってから彼女とはずっと疎遠なままであった。そうか、わかったぞ。僕は中学生に上がった頃既に死んでいて、この何年間かは地獄を彷徨っていたんだ。そうに違いない。そうでなければあんなに懐いていた妹に邪険にされるはずがない。ということは、妹が出て行ったのは地獄が終わる合図で、僕はこの後天国に行くんだ。


 気付けば目の前のドアの淵から光がこぼれている。そうだ、これは天国への扉なんだ。僕がそう思って手を伸ばしたその瞬間、バタンという大きな音と共に玄関の扉が勢いよく開く。僕は一週間ぶりに見る光の眩しさに一瞬目を逸らすが、目を細めて視線を向け直すと、朝日の逆光の中にひとつの人影が立っていた。そのシルエットは女性に見える。制服は妹が着ていたものと同じものだ。だがそれは、僕の妹、果音カノンではなく、鋭い栗色の瞳を光らせた赤い髪の少女であった。


天海アマミ菜音ナオト! あんたは今日から私の兄貴になるのよ!」


 こうして、僕と妹たちの戦いの日々が始まった。

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