〇五、天蓋再び
気だるさが残る。もう少しこのままで。いや、先送りにした数々の違和感がある。それを認識すると、重い瞼を開く。
視界に拡がる暖かな明りに照らされる天蓋が目に入る。左傍らからキュハァスの温もりと鼓動を感じる。
視線を傍らに向けると彼女と目が合う。艶めかしい瞳の色。俺は体を起こす。天蓋を包む光が強くなる。すると、彼女の虹彩が光に反応して細くなる。彼女は徐に瞳をとじる。そっと彼女に唇を重ねる。
すると彼女の両腕が肩から背に伸びる。その刹那、攻守が反転するように体勢が逆転する。
「ヒトロク様ぁ」と、彼女が再び耳元で囁く。
「腹が減った。汗を流してメシにしよう。何かある?」
「もう少しこのままでいたい」
「若いね、オレは腹筋が痛い。もう歳だし」
「ヒトロク様、何をおっしゃっているのですか」
「四捨五入すると、定年だぜ」
「シシャゴニュウ?、テイネン?」と、彼女が躰を起こし首を傾げる。彼女の艶やかな蒼く光る黒髪が鼻孔を擽る。
そこで、俺も考える。『テイネン』何気に発した言葉に齟齬を感じる。なんでそんな言葉を発するのか。テイネン何のこっちゃ。定年、概念は判る。しかし、自己との関係に途轍もない乖離を感じる。なんなのだ。この違和感。
俺は腹筋の違和感を抑え込み、上半身を起こす。そんな俺の姿をみて彼女が言葉を発す。
「ヒトロク様ぁ。おなか痛い?」
「そこは腹じゃねぇヨ」
「でも、カタイよ」
「行きがけのダチンだ。もう一戦いっとくか」
「ハイ。ヒトロク様ぁ~」
再び湯あみで汗を流す。湯舟に浸かり、これまでの違和感を整理する。先ずは身近にいる疑問から。
「なぁ、キュハァス。オレには日本語にしか聞こえないんだが、その言葉は?」と、告げて彼女の唇の動きに注視する。
「宮様とお話しする時の言葉。
「宮様から丸薬を預かったので、ヒトロク様にセッシュしていただきました」
「宮様?、丸薬?、摂取? ???…。おい、ちょっとまて。丸薬摂取って、いつだよ」
「最初にお目にかかった時に」
「はぁ?、記憶にないが。宮様とは?」
「私共の龍宮の主様です。言葉で難義する様ならこの丸薬をもって事を成せ。と、仰せつかっております」
「話を戻すが、最初に遇ったとは何処で?」
「北洲の越境盗賊どもの遺骸のそばです」
「あぁ、大男は盗賊なのか。遺骸のそば?、頭を覆う外套の男たちのところ?」
「はい。ヒトロク様」
「そんとき、何してくれた?」
「口移しで、丸薬を」と、彼女の目が泳ぎ出す。
それを見て、俺は合点がいった。吸引で引き抜くことが出来る娘なんだと。俺は結構危ない橋を渡っているのか。やっぱ、ハニートラップじゃん。俺は続けて彼女に問う。
「宮様の丸薬を口移しで。ほぉ。それだけか?、他には?」
「少々、味見を」と、彼女が答える。その瞬間、俺は彼女の瞳を凝視して問いただす。
「ほぉ、味見ねぇ。それでオレはあぁなったと」
「はい、申し開きも御座いません。」
「オレの許しなく、オレの命に係わる物を引き出すなよ」
「はい、ヒトロク様。仰せのままに。キャッ」と、何処か喜ぶ彼女。
ふと、初めに彼女が語った『古言葉』を思い出す。南九州的な雰囲気を予感する。馬上の男も古言葉で俺に問いかけてきたのか。
「騎馬に乗った外套の男から問いかけを受けたが、彼も古言葉を話すのか?」
「はい、宮様から遣わされた者たちですから。勿論、古言葉を使います」
「いっぺこっぺ」
「なにか御座いましたか?」と、訊きながら彼女が辺りを見渡し始める。
「マジかっ。いやぁ。マジなのか」
すると、彼女が突然湯から立ち上がり、慌てて自分の体のあちこち調べ始めた。って、どこ見てんだよ。えっ、俺の目の前で。
「あっ、ゴメン。そういう意味ではない」
「いっぺこっぺ。これも古言葉?」
「はい、ヒトロク様。お人が悪いです」
「すまない」と、いって彼女をだきよせる。
「そろそろ、上がろうか」
「はい」
肌着を身に着け、天蓋の掛かる寝台の傍にもどる。彼女はまだ身支度を整えている。壁に掛けてある戦闘服を手に取る。なにか陽の香りがする。糊が効いている。そんなことを考えながら、寝台に腰かけ、手にした服、靴下を身に着ける。足元の長靴を履く。そこで、次の疑問を思い出す。丁度、身支度を終えたキュハァスが戻ってくる。
「なぁ、子供たちがニャァマだの、アァニャだの言っていたのは何の事だ?」と、彼女に訊く。
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