猫の手は借りれない?

鈴木りん

猫の手は借りれない?

 ようやく暑い夏も終わったのだろう。

 昨日はどこかでヒグラシも鳴いていた。

 中学二年生の男子、小中こなか高生たかおは、緑に囲まれた田舎町の中学校へと向かう通学路を、昨日よりも少しだけひんやりとした風を頬に感じながら歩いていた。


「高生君、おはよう!」


 そう言って、黒い制服姿の彼の背後から声を掛けたのは、クラスメイトの稲葉いなば美佐緒みさおだった。細いフレームの丸眼鏡と頭の上でちょこんとまとめたポニーテールがトレードマークの彼女が、スカートを揺らしながら、息を弾ませ高生に近づいていく。背中に担いだ学校指定のリュックとは別に、左手から大きな手提げカバンがぶら下がっていた。


「ん? 美佐緒か。おはよう……。相変わらず、元気いいね」


 美佐緒の元気な声に対し、もっさりとして抑揚のない高生の声。

 この世代の男子では普通のテンションであろう。だが、声の調子に反して、彼の顔には彼女を見た瞬間の゛うれしさ゛が明らかに浮かんでいた。

 高生が、美佐緒のパンパンに膨れた手提げカバンを見て、言う。


「今日も放課後は美術部?」

「そうだよ。中学美術展の応募締め切り、もぅすぐだし」

「へえ……そうなのか。頑張れよ」

「うん、頑張る」


 ふんわりとした笑顔とともに、美佐緒は油彩絵の具にパレットや筆など油絵を描くための道具で満載の重そうな手提げカバンをぐいと持ち上げた。その動きに引き摺られるように、高生の口元がにんまりとほころんだ。

 それからしばらくは、特に会話もなく連れ添って歩いた二人。

 幼稚園の時から同じクラスの、気心の知れた幼馴染なのだ。

 そんな彼らが校門のところまでやって来たときだった。ふと立ち止まった美佐緒が、玄関横に聳え立つ大きな樹木がある方向を見て、こう言った。


「あ、あの子、いつもこの辺りで見かける゛にゃんこ゛だ!」


 彼女が指し示したのは、この辺りを縄張りにしているらしい一匹の猫だった。

 黒と茶色と白い毛で覆われた三毛猫で、首輪はない。


「ああ、あいつね……野良なんだ。この辺りをいつもパトロールしてる。特に゛あの木゛がお気に入りみたいだよ。僕は、あいつのこと、勝手にミモーって呼んでるんだけどね」

「ミモー!?」

「ああ。三毛猫の゛三毛゛の漢字の読み方を変えたんだ」

「へえ、おもしろいね。高生君になついてるの?」

「いいや、ちっとも。いっつもそっぽ向かれる。最近ようやく、近くに寄っても逃げなくはなったけどね」

「へえ……」


 ミモー(仮称)は、今まさにパトロール中らしく、辺りの木々やブロック塀など、クンカクンカと臭いを嗅ぎながら、のらりくらりと歩いている。しばらくその様子を楽しげに眺めていた二人だったが、「ホームルームに遅れちゃう。急ごう」という美佐緒の言葉で我に返ると、同じ二年B組の教室へと急いだのだった。



  ☆



 事件は、その日の夕方に起きた。

 放課後になり、美佐緒が美術部の部室へと急ごうとしたそのときだ。彼女の甲高い声が教室に響き渡ったのである。


「あれ……ないっ!」

「どうしたんだよ」


 二つほど席を隔てたところにいた高生が、すぐさま美佐緒のそばに駆け寄った。


「ないのよ……油絵の絵の具とかが。このバッグに入ってたはずなのに!」


 騒然となったクラス。

 クラスメイトたちがそれを探し始めた頃だった。クラスの男子で、野球部ではやや小柄な武田たけだが、息せき切って教室に駆け込んできた。


「オレ、見つけちゃったんだよ。稲葉の絵の具をさ」

「えっ、どこに?」

「下駄箱だよ。小中の……ね」


 一斉に、クラスメイトの視線が高生に集まった。

 高生は、多くのクラスメイトと同じく美佐緒の視線の中にも戸惑いと疑いの感情があることを見て取ると、大きく首を振った。


「そ、そんなわけない! 僕はそんなことしてないよ!!」

「ふん。じゃあ、お前の下駄箱を見てみろよ」


 落ち着き払った、武田の一言。

 それを切欠に、大勢のクラスメイトが下駄箱へと押し寄せた。


「ほらな、見てみろよ。どう見たって、ここにあるのは油絵の絵の具だろ?」


 校舎一階の下駄箱の前で、まるでお宝を見つけたような誇らしげな顔をした武田が、扉の開いた高生の下駄箱を右手で指し示す。確かにそこには、高生の外靴と一緒に、赤いインクがチューブから飛び出てしまった絵の具が、一本あった。


「そんな馬鹿な……。って、武田君、どうしてここに絵の具があるってわかったんだよ。騒ぎがあってすぐに見つかるなんておかしいじゃないか」

「臭いさ。たまたまここを通りかかったら、油絵具の臭いがすごかったから、すぐに気付いたよ」


 武田の言うことにも、一理ある――それくらい、他かに辺りは油絵具の臭いが充満していた。美佐緒が、おもむろに口を開く。


「……高生君の仕業なの?」

「違う。僕は――絶対にやってない」


 と、そのとき、後ろの方から二人の目の前に進み出た者がひとりいた。

 武田と同じ野球部で、安藤あんどうという大柄な男子。何故か普段から高生を目の敵にして、彼に突っ掛って来ることが多かった。


「ふうん、イタズラしたのは小中高生ショウチュウコウセイだったのか。お前、面白い名前の割に案外やるんだな」

「名前をいじるな! ……とにかく、僕はやってない」

「じゃあ、お前の下駄箱に入ってる、その絵の具は何なんだよ」

「知らない。……って、もしかして本当はお前がやったんじゃないのか?」

「なんだとぉ!? 俺にケンカ売ってんのか!」


 まさに一触即発の雰囲気だった。

 睨み合ったまま靴に履き替えた二人が、玄関から表に出る。成り行きを見守ろうとクラスメイトたちもそれに続いた。美佐緒も当然、表に出た。

 と、そのとき――。

 高生のすぐ横を、朝に見かけた野良猫のミモーが通り過ぎた。


「あ、ミモー!」


 美佐緒が、校舎前で猫の名(仮称)を呼んだ。

 すると緊迫した空気が一変し、雰囲気が瞬時に和らいだ。まるで一匹の猫が高生のピンチを嗅ぎつけ、助太刀にやって来たかのようだ。

 いつもなら人間には容易に近づかないミモーが、高生のすぐ横でスフィンクスのように前足を立てて座る。怒る安藤を置き去りにして、猫を抱っこしようと手を差し出した高生。


「ミモー、お前……」


 それは、ミモーを抱き上げた高生が漏らした言葉だった。

 猫の体から何か臭いでもするのか、頻りと鼻をヒクヒクさせる。


「おい、小中高生ショウチュウコウセイ、何俺を無視してんだよ……ていうか、お前、ケンカに猫の手でも借りるつもりか? さすが、変な名前だけのことはあるな」


 無視されたことが気に入らないのか、安藤が高生を小馬鹿にした。

 周りから巻き起こる、冷めた笑い。

 いつもならここで、名前をいじるな、というセリフを吐く高生だが、今日はそうではなかった。落ち着いた顔で、こう言ったのだ。


「……ケンカに゛猫の手゛は借りない。けど、事件解決には借りることになりそうだ」

「ん? 何言ってんだ!?」


 ミモーを抱っこした高生が、そのままスタスタと歩き出す。

 その堂々たる態度の高生に、クラスメイトも後を付いていった。もちろん、安藤も美佐緒も、だ。やがて高生が校舎玄関前の大きな木のところで足を止めると、皆もそこで立ち止まった。


「美佐緒の絵の具はきっとここにあるよ。木の幹のうろの中にね」


 ざわつく、周囲。

 中でも慌てふためいたのは、安藤だった。


「ど、どうしてここがわかった? お前、見てたのか?」

「やっぱり、お前だったんだな。でも一応言っとくけど、僕は絵の具を隠したところは見ていない」

「じゃあ、なんでわかる?」

「……これさ」


 高生が皆の目の前に突き出したのは、高生の胸で大人しく抱かれたままの猫の前足だった。それに合わせて、ミモーがニャアと鳴く。「これを見ろ!」とでも言っているかのようだ。


「?」


 クラスメイトの誰もの頭上に浮かんだ、ハテナ文字。

 幼馴染の美佐緒にも、今回ばかりは高生の言っていることが理解できなかった。


「絵の具を、木の幹にこぼしたのは確かだ。でもすぐにきれいに拭き取った。絵の具を溶かす油でな……。証拠は残っていなかったはず!」

「甘いな。お前、知らないのか? 猫が縄張り主張のためのマーキングで爪を使うときは、深く刺すようにして、ガリリとそこに跡をつけるってことを」


 もう一度、皆に猫の前足の裏を見せる。

 すると、猫の爪に赤い油絵用絵の具が付着しているのが皆にも理解できた。つまり、絵の具を隠した犯人はきれいに拭き取ったつもりだったのだが、それは表面的で、幹の皮の細かい凹凸に絵の具が残されていたのだ。

 猫は、それを爪で引っ掻き取ったのである。

 よく見れば、木の幹には猫が引っ掻いたらしい新しい傷が残っていた。


「ありがとう、ミモー。お前の゛猫の手゛を借りたおかげで助かったよ」


 ミモーを腕の中から解放し、地面にふわりと着地させた高生。

 「猫の手も役に立つことはあるにゃ!」とばかりに「にゃあ!」と鳴き、自慢げに肉球付きの足裏を見せたあと、ミモーはどこかへ行ってしまった。


「では、答え合わせだ。うろの中に、絵の具があるかどうかの、ね」


 高生は、木の幹の根っこ近くにある洞の中に手を突っ込んでごそごそとやった。そしてそこから、残りの絵の具と油絵用の筆を数本、取り出した。


「ほら、言ったとおりだろ。もう二度とこんなこと――」


 高生がそう言いかけたときだった。

 素早い動きで安藤に近づいた美佐緒のグーパンチが、彼の頬を捉えた。


「今日のところはこれで勘弁してあげる。もう、二度とこんなことしないでね。それから、高生君の名前のこともごちゃごちゃ言わないように」

「……はい。もうしません」

「今日はもう部活が出来そうもないね。一緒に帰ろうか、高生君」

「え? あ、うん……」


 頬をおさえて茫然と突っ立った安藤を残し、二人が悠然と去っていく。



 気付けば、辺りはもう夕方。

 過ぎ行く夏を惜しむかのように、遠くでヒグラシが鳴いていた。



(了)

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