第3話 黒いインクと白い光
いくら不貞腐れてても、嫌だなぁと思ってても、やはり成績のことを思うと学校には行かざるを得なかった。
別にクラスメートにどう思われたって、構いはしない。そう強がって、私は学校へ出かけた。通学路に嫌いなものが増えた気がする。いつもより、黒く塗りつぶされたものが多かった。
教室に着くなり、私は驚いた。真っ黒い顔が何十人も、こちらに向いたからだ。そして、その顔(と認識ももはやできないが、体の位置的に顔)たちは、すぐさま通常モードへと戻った。
この空気は知っている。そうだ。皆や私が、加賀栞にやっていることだ。
無視。
スルー。
シカト。
素通り。
そういう類いの、所謂、いじめ。
その矛先が私に向くだなんて、ついこの間まで思いもしなかった。しかし向いてしまった。私が不注意なばっかりに? 違う。倉橋先輩の妄想癖が激しいばっかりに。そして、真奈美たちの思いやりが足りないばっかりに。
友情なんて最初から無かったんだな。
なんて考えながら、私は私の席へと向かった。
――こんなに典型的ないじめも、まだあるんだなぁ。
私の机の上には、花瓶が置かれていた。そして、その下敷きとなっている机の天板には、次のような落書きが、書き殴られていた。
尻軽女。
ビッチ。
サイテー。
ドロボー猫。
人格破綻者。
ガイジ。
キチガイ。
クソ野郎。
恥知らず。帰れ。
消えろ。
死ね。死ね。死ね。死ね。
その他、口にするのも憚られるような悪口の数々に、私は吐き気を催して、トイレへと駆け込んだ。
『死ね』なんて、言われたことが無いわけじゃない。
でも、冗談だから平気だったのだ。笑っていられたのだ。冗談という嘘に包み込まれた言葉だったから。
それが一歩冗談という範疇から外れた途端に、文字通り言葉のナイフと成る。『死ね』の一言で、人の心は実際に死ぬ。
それでも、私は無駄にプライドだけ高くて、「傷ついた」なんて言えなかった。「助けて」なんて言えなかった。また、加賀栞にこれまで散々同じようなことをやってきた手前、私は自分の境遇を誰に訴えることもできないだろう。
教室に戻ると、私の存在なんて初めから無かったかのように、クラスメートたちは朝の会話を楽しんでいた。そんな中、私がトイレで嘔吐している間に登校してきたであろう加賀栞の姿が、目に映った。
いや、もはや誰が誰だか分からない状況だったのだけど、加賀栞だけは、はっきりと分かった。自分の席を、必死になって拭いていたからだ。その姿は惨めで、見ていられないような雰囲気はまさに加賀のそれだ。
加賀も私と同じように机に落書きをされたのだろう。小汚い雑巾で、ゴシゴシと机を拭いている。そこに私が近づくと、「……おはよう……っ」と、いつもの調子で挨拶をしてきた。そして私は気が付いた。
彼女が拭いていたのは、彼女の机ではなく、私の机だったといことに。
加賀の席は私の真後ろだっので、私は見間違えていたのだ。いや、確かに加賀の机にも落書きはされていたが、それをそっちのけで、加賀は私の机を拭いていたのだ。
「なんで……」
私の問いに、加賀は控えめに、でもはっきりと答えた。
「……だって、戸波さん、嫌でしょ? こういうの」
そりゃそうだよ……。でも、あんただって……。
ああくそ。訳わかんない。私は加賀が分からないよ……。
だから私は加賀の言葉に答えることもなく、「自分でやる」と言って、加賀から雑巾を奪った。そして、加賀の雑巾がなくなってしまったことに気付いて、新しい雑巾を掃除用具入れから取り出し、何も言わず加賀に渡した。
私たちは朝のホームルームが始まるまで、並んで机を拭いた。
加賀はどんな顔をしていたのだろう。少しだけ、気になった。
それから、まぁ分かりやすく言えば、私に話しかけてくる人間は、加賀栞だけになった。倉橋先輩も、最初は声を掛けて来たけど、私の陥ってる状況を察してからは、寄ってこなくなった。
最初は鬱陶しいと思っていた加賀にももう慣れてきた。黙ってるのも結構しんどいから、話の受け答えくらいはするようになった。今更こいつと絡んでても、クラスでの立場なんかもう変わりようもないだろうし。
そして、まぁ当たり前のように、私と加賀への陰湿ないじめは続いた。
私は学校では強がって、平気なフリをしていたけど、毎晩泣いた。泣き疲れるまで泣いて、やっと眠れるのだ。そんな夜が続いた。
もう人に興味がなくなってきてしまって、全員の顔が真っ黒に塗り潰されているの相まって、本当に誰が誰だか分からなくなってきた。まぁ、声を聞けば分かるのだが、私に話しかけてくる人なんていないから、やっぱり分からない。
放課後、私は何となく教室に居残っていた。
加賀栞もまた、居残って読書をしていた。
「……戸波さん。いきなりでごめんなんだけど……なんで戸波さんも、私と同じみたいに、その、無視されるようになったの?」
そう、加賀は突然口を開いた。
そんなことを聞いてくるのは初めてだった。加賀からももちろん初めてだったが、そもそも誰にも聞かれなかったことだ。
だから私は、何となく事のあらましを加賀へ話した。
「そんな、酷い……最悪だったね、それじゃあ……」
……共感してくれた?
今まで、誰一人として、私の話など聞く耳も持ってくれなかったのに。
私の口が次に発する言葉は、あまりに自然に流れ出た。
「私も聞きたい。なんで、私と関わろうとするの。私だってみんなと一緒にあんたの事、いじめてたし、無視だってしたよ。それでも話しかけてくるなんて、辛いだけでしょ」
「……辛くなんかない」
加賀は俯きながら言った。真っ黒く塗り潰された頭部が、前に傾いた。
「嘘。辛いはずだよ。私だって経験したんだから」
「……ごめん。ちょっと強がっちゃった。……確かに、傷ついた――とまでは言わないけど、痛くなかったわけじゃないよ」
そうに決まってる。あんな仕打ちをされて、無視されて、心が痛くないわけがない。それなのに、どうして……。
「それでも、戸波さんと仲良くなりたかったの」
「え?」
「戸波さんは私の憧れで、あんなに綺麗に笑う人がいるんだなって、それだけで私、救われた」
加賀は照れ臭そうな声で話を続ける。
「私、戸波さんと出会うまで、自殺願望があったの」
私は『自殺』という言葉を聞いて、ビクッとした。これまで自分たちが散々『死ね』と言ってきた相手が、そんな発言をしたのだから。
でも、無理もない。冗談でも、嘘でもない『死ね』という言葉を浴び続けていれば、きっと本当に死にたくなるだろう。
「でもね、覚えてないかもしれないけど――一年前、私が廊下で戸波さんとすれ違った時、私、転びそうになったの。そのとき、戸波さんが支えてくれて、笑顔で『大丈夫?』って言ってくれたんだよ」
私が加賀を知らない、加賀の境遇も知らない時期だ。
「その太陽みたいな笑顔と『大丈夫?』に私は救われたの。その笑顔で、私は前を向けたの。理由を言えって言われても、上手く言えないけど……その、光をくれた」
「光……」
「だからこのクラスで戸波さんが私をみんなと同じようにいじめるのは、周りに流されてしまってるだけで、本当はいい人のはずなんだ。悪いのは周りなんだって信じてた」
そんなことない。私は本気で加賀を嫌ってたし、いい人なんかじゃない。勘違いだ。
「そしたら、ほら、この通り。話してみたらやっぱりいい人」
やめてくれ。そんな、私は綺麗な人間じゃない。
「……いい人なんかじゃないよ。私、性格も悪いし、友達を困らせてばかりだし、嫌いなものだらけだし……あんたの事だって……嫌いだった」
「……そっか」
加賀はまた、項垂れる。黒いインクが前に傾く。
「でも、『だった』ってことは、今は嫌いじゃないんでしょ? 私のことが嫌いじゃない人なんて、少なくともクラスにいない。それだけで嬉しい。……ねぇ、戸波さん。私と、友達になって」
嫌いじゃない……そうか。私は加賀が嫌いじゃないんだ。
話してみて初めて気づいた。加賀はそんなに変な奴じゃない。自分に正直で、自分を信じられるだけのただの女の子だ。私は何でこんないい人を嫌っていたんだ。馬鹿か。
「……わかった。友達」
友達になる権利があるのかは正直疑問だったけど、それでも、今となってはたった一人の友達となり得る人だ。簡単に手放す方が辛い。
「あ、ごめん。そろそろ時間。私、帰るね」
加賀は時計を見て、焦ったように言うと、そそくさと鞄を持って教室から出て行った。一人教室に残された私の心は、すっきりと晴れ渡って――
いなかった。
加賀の顔はインクで塗りつぶされたままだ。私が、加賀のことをよく知らないまま否定したばっかりに、私は唯一の友達である加賀の顔を二度と見ることができなくなってしまった。
私はトイレへ向かった。手洗い場の鏡の前で、自分の顔を凝視する。
私は何て馬鹿で最低な人間なんだろう。
人を見た目と、周りの評価だけで決めつけ、心を痛め付け、そして無視した。最悪だ。いくら懺悔したって許されない。
そんなことを理解しながらも彼女の友達になってしまったことも、許せない。
「私は私が、大嫌いだ」
そう呟いた瞬間だった。
鏡に映る私の顔が、みるみる内に真っ黒いインクで塗りつぶされていく。バツ印を描くように、ぐりぐりと、汚く、塗り固められる。
「あ、ああ……そんな……」
そして、ついに私は私の顔を認識できなくなった。涙が頬を伝っているのが分かるので、多分酷い顔をしているはずだ。
怖かった。他人の顔が見えなくなっても、ここまでの恐怖は無かっただろう。
酷い。何なんだ。何なんだ。そもそも何で私の目はおかしくなってしまったんだ。私が悪いのか。それにしたってこんな仕打ちはないだろう。
私は見えなくなった自分の顔をまさぐりながら声にならない声を叫ぶ。
なんで私がこんな目に。
あああ、頭がおかしくなりそうだ。なんで私なんだ。皆も同じじゃないのか。人を第一印象だけで判断してる奴らばっかりじゃないか。なんで。
嫌だ。嫌いだ。嫌いだ嫌いだ嫌いだ。
全部この世界が悪いんだ。
こんなくそったれな世界、大嫌いだ。
黒。
視界一面、黒になった。
何も見えない。何も無い。
……あー、そっか。世界も嫌いになっちゃったから。
どうなってんだろ。私はどこにいるんだろ。一応、トイレにいるのかな。
なんて呑気に考えていられたのも一瞬で、ぞわりと恐怖が足元から込み上げてきた。何も無い、暗闇。きっと見えないだけで世界はそこにあるはずだ。つまり、私は全盲になってしまったということなのか。この先、ずっとこの暗闇の中を生きろというのか。そんなの、あんまりだ。私が悪かった。もう何のせいにもしない。逃げない。だからどうか。
「戸波さん?」
声が。
加賀の声が聞こえた。
幻聴かと思ったが、それは確かに加賀の声だった。
「忘れ物ついでに寄ったんだけど……どうしたの? 何してるの?」
私は必死に真っ黒い視界の中、声を頼りに加賀の体を探し、捉えた。その瞬間、私の胸の奥の、真っ黒と真っ白がぐちゃぐちゃに混ざり合った何かが溢れ出てきた。加賀に縋りつき、それはそれは不格好に、惨めに、泣き叫んだ。
「ごめんなさい! もう人を見た目で判断しない! 噂だけで決めつけない! もう誰にも、いじめも、無視も、しない! 誰のせいにも、世界にせいにもしないから! だから、ねぇ! 許して! 加賀! ごめん! ごめんなさい! 栞」
そこで意識が途切れた。
ただただ困惑する加賀栞の声が、頭の中に響き、そして気付いたら、どこかのベッドの上にいた。
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