第27話 その手を離すな!
私達が両想いになってからも市井さんは変わらず猫カフェに来てくださっている。二人っきりのデートもしたいなぁ…なんて考えていたら、最近バイトに来てくれるようになった森さんの都合とも重なり、日程を組むことが出来た。
それなのに…。
私は右頬をさすりながら、溜息をついた。
やっぱり延期にしてもらおう。
あ!お兄ちゃんにも連絡しておかなきゃ…。
◇◇◇
「今日はすみません。折角のお休みなのにお出かけ出来なくなってしまって…。」
「いやいや…。大丈夫ですよ。何かありましたか?」
「いえ…。その…。」
足元では、五男のロイヤルミルクティー君がじゃれていた。
何しろ足が大好きで、ほんの少し爪を出してちょいちょい擽るのが上手な猫だ。
しっぽを絡ませて、遊んで下さいアピールをしている。
四男の小夏君も参戦し始めた。
わらわらと他の猫達も寄って来る。何だか会話に加わりたいようだった。
そんな猫の姿を笑ってから、私は市井さんの注文した飲み物を作りに厨房に入った時だった。
お店のドアが急に開いたと思ったら、サッと店内を見渡してから厨房に走り込んで来る男の人がいた。
「お前、何やってんだ!そら!早く行くぞ!」
急に私の手首を引っ張り、今にも連れ出そうとする人…。
「貴方!何やってんですか!」
市井さんが厨房に走り込んで来て、私達の間に入ろうとする。
「お前こそ誰だよ…。俺は…。」
「俺いや僕は杏子さんの婚約者です。貴方こそ誰ですか?杏子さんは嫌がっているじゃないです!急に手首なんか掴んで…。放してください!」
「俺はあんこの兄貴だ!こいつはな…。」
「痛ーい!」
涙が零れてきた。思わず右頬に手をやってしまった。
「何をやったんですか?杏子さん大丈夫ですか?ほら、泣いちゃいましたよ。…え?兄貴って?お兄さんですか?」
「だから、俺はあんこの兄貴で、こいつは親知らずが腫れて…。今から歯科に行くんだよ!」
「えー?デートが中止ってこの事ですか?俺!俺が連れていきますよ!
大丈夫ですから…。俺が責任を持ってお連れします!」
「…。ほんとだな?じゃぁ、絶対その手を離すなよ!」
「離しませんよ!絶対に!」
あっという間に、妹とその自称婚約者は出掛けてしまった…。名前も聞いてないぞ…って取り残された俺は溜息をついた。今日の仕事を丸投げして、やっと作った時間は無駄になってしまった。
足元には数匹の猫がじっと恨みがましい表情で俺を見上げている。
俺だって恨みたいよ。歯科受診は、俺だけの特権だったのに。何だよ婚約者って…。いつできたんだよ…俺のあんこが…。
猫を抱き上げようと手を伸ばしたら、一斉に逃げられてしまった。俺は猫にも好かれていないらしい…。
◇◇◇
「いつも行く歯科があるんですね。」
「小さい頃から通っている歯科医で…。」
「痛いんですよね?もうすぐ着きますよ。大丈夫ですから…。」
歯科医に到着すると、いつもお世話になっている美知先生が出迎えてくれた。兄の高校の2年後輩で、先代は美知さんのお父様だったのが数年前から代替わりしている上手な女医さんだ。ちょっと特殊な対応を嫌がらず、お父様の時からのやり方を真似て下さっている貴重な方だ。
「こんにちは。お待ちしていましたよ。あら、今日はお兄ちゃんじゃないのね?
いつもの方法でいいのかしら?」
「はい。すみません。よろしくお願いいたします。」
診察室に通されると、市井さんは待合室に戻ろうとした。
「あら、ダメよ。あんこちゃんの手を握って離さないでね。
はい!貴方はアイマスクを着けて…。」
「え?」
「あんこちゃんは昔から歯医者が苦手なのよ。だから、中々通院してくれなくて、来たら怖くて泣いちゃうから、いつもシスコンの兄貴が手を握っていたのよ。
口の中を見られるのが恥ずかしいからってアイマスクを着けさせられて…。
でも、今回からは貴方が手を握ってくれることになったんでしょう?
絶対その手を離さないでね!」
私は恥ずかしいとは思うけど、これだけは譲れない…。
「ごめんさない。お願いいたします。手を握っていて下さい。」
◇◇◇
歯科医による治療が始まった。
きっとものすごく怖いのだろう。
杏子さんの手に力が入っている。
俺は暗闇の中で、痛みと戦っている杏子さんの姿を想像しながら、同時に今までこの役を買って出ていたお兄さんの気持ちも考えた。
当たり前に考えて、この年齢になっても歯科医の治療を怖がる妹なんて可笑しいだろう。でも、それでも治療に付き合ってあげていたってことは、とっても大切に想っていたんじゃないかって…。やり方はそれぞれだけど、家族を想う気持ちを形にしていたお兄さんって本当はすごい人なんじゃないかな…。
俺が勝手にここに連れてきて良かったんだろうか。
「ハイ‼終わりですよ。次からは、もっと早めに来なさいよ!痛み止めも多めに出しとくからね」
歯科受診が終了し、自宅に戻ったが、何となく離れがたい気持ちが強かった。
恐らく杏子さんもそうだったと思いたい…。
麻酔が切れ始めて、心持ち痛みを感じている風の杏子さんにベッドで横になるように勧めると、意外とあっさりと寝室に入って行った。
俺は、やっぱり寝室までは入れなくて、でも何かしたくて…。
恐縮する杏子さんを何とか説得して、お粥を作っておくことにした。
目が覚めたら食べ貰いたい。
キッチンに入って、お米を探す。
玄米を精米して食べる派らしく、小さいながら精米機が置いてあった。
調味料も揃っているし、冷蔵庫にはある程度の食材が入っている。
俺がキッチンでゴソゴソしていたら、猫達が集まって来た。
でも、キッチンの台には登ってこない。いいしつけをされている猫ちゃん達だな…。
精米したての米をゆっくり煮込んでいく。
何年ぶりだろう、誰かにお粥を作ってあげるなんて…。
コトコト煮込んで、出来上がった頃合いにそっと寝室を覗いた。
杏子さんが寝ているベットには猫が覆いかぶさるように…その身体の周りを取り囲むように寝ていた。
確かレパ君とロイミ君だったと思うけど、杏子さんの胸の上で寝ていた。ハッピーパパは、杏子さんの腕を枕に寝ている。杏子さんのベットの下には寝転がって身体を舐めているちょび髭君やミミちゃんが居た。他の猫ちゃん達はリビングで寝ているようだ。
俺に気づいたのか、猫達はそっと杏子さんの傍から離れていった。
◇◇◇
「おい!市井が来たぞ!あんこのご飯できたんじゃないか?」(byハッピーパパ)
「いい匂いだもんね!」(by次男レパード&五男ロイヤルミルクティー)
「あんこ大丈夫かな…」(by三男ちょび髭)
「よく寝てたね…」(by末っ子ミミ)
「二人の邪魔をしないように静かにこっちに出てきなさいよ!」(by花ママ)
杏子さんの寝顔を見ながら、亡くなった姉貴を想い出していた。
姉が亡くなってからの両親の憔悴は言葉で言い表すことが出来ない程で、特に母は食欲も無くし、よくお粥を作ってあげたっけ…。
何だか瞼が熱くなってきて、俯いてしまった。
「ん?どうしたの?」
突然、頭を撫でられた…。横向きになって伸ばしている杏子さんの手を握り返す。
「俺のね。恥ずかしい話しを聞いてくれる?」
「うん」
「俺の姉貴は10年前に自殺したんだ。結婚詐欺にあってね…。
自殺した姉貴のことが許せなかった。家族の気持ちも考えろよって心の中で詰ってた。
俺はさ、恋愛なんてバカがするもんだと思ってたよ…。
相手の全てを信じるなんて、出来ないって。だから、誰も好きになんかなるもんかって…。
俺は、姉貴みたいな失敗なんかするもんか…って。
でもね、杏子さんに恋をして、自分の方がバカだったって思い直したよ。
好きな子のためなら、何だって出来るんだ。
初めはね、猫ちゃん達を愛しそうに見る瞳が姉貴に似てるって思ったんだ。
その瞳を俺の方に向けさせたいって…。
それからはね…。色んな話をするうちに、杏子さんをどんどん好きになってさ…。
何もかもしてあげたい。
毎日のように会って話しをしてさ。本当にウキウキになるんだけど…。
急に不安にもなるんだ。今にも俺の前から消えて行っちゃうんじゃないかって…。
目の前にいる杏子さんは夢か幻かなんかで、俺は狐にでも化かされているじゃないかって…。
でも、それでもいいんだ。幻だろうと夢だろうと、今はもうこの手を離さない…。
俺と結婚してくれないかい?こんな風に想う気持ちは、もう二度とないって感じているんだ。俺を信じて君の人生を託してくれないかい?」
「ふふふ。私、夢を見ているのかしら?
市井さんが泣いてるし…。プロポーズまでしてる…。」
「夢じゃないよ…。一言、はいって言ってくれないかい?」
「…。はい。」
「ありがとう。ずっと一緒にいよう。決してこの手は離さないよ。」
市井さんはそう言うと、私の手の甲にキスをした。
私は、また眠くなってしまい、そのままスーッと深い眠りに入ってしまった。
何だか物凄く重いって感じて目を覚めますと、布団の上に猫が全員揃って乗っかっていた。
いくら何でも、私潰れちゃうよ?
んー。あれは夢だったのかなぁ…?
キッチンには美味しそうなお粥が作って置いてあり、市井さんからの手紙が添えてあった。
「夢じゃないよ!」
「えー?私、プロポーズを寝ぼけたまま聞いちゃったの?」
でも…手には市井さんの熱が残っているような気がした。
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