第26話 台風一過

「え?」

聞こえていたけど、思わず聞き返してしまった。

何故この人は、社長がこのお店に出資しているのを知っているのだろう。


「私、会社の経営とか不動産とかの情報収集が得意なんです。

それに、こんなに若い女性が個人資産もないのに、急にお店を開業するなんで不自然でしょう?誰だって、そう思いますよ。」

鈴木理恵と名乗った営業の人は、店内の人に聞こえない程度の声に落としてそう喋ると、私との距離を縮めて来た。顔が私の耳元に近づいてくる。


「内緒なんでしょう?貴方が元居た会社の社長じゃないんですか?

岡島省吾って人は…。清純そうな顔をしていながら、なかなかやりますね。平澤さんも…。」


囁き声で言われて、パッと彼女を見ると、その顔は眉を吊り上げた般若の面に見えた。

恐ろしくて、全身が震えてくる…。


「広告を出しませんか?大々的に出せば、きっと集客に繋がりますよ。

とっても素敵なお店ですし、猫ちゃん達もとっても可愛いし…。」


店内に響く声で話し始めた。

そして、おもむろに猫カフェエリアに入ると、寝ている猫の頭を強引に撫で始めた。

普段は大人しい次男猫のレパード君は、飛び起きると頭を振り振りしながら、後退った。近くで寝ていた花ママは、すでに起き出してキャットタワーの上に避難している。レパード君の横で寝ていた末っ子ミミちゃんは、まだ寝ぼけているようで、短い両手を伸ばし、近くにあった手の匂いを嗅いでいた。いつものように、差し出された手を舐めると、バシっと頭を叩かれ、ハッとして起き上がった。


「やだ!勝手に舐めないでよ!あー汚い!」


「なぁーご(敵よ!)」花ママの怒った声に猫全員が一斉に起き上がった。

シャー。長男猫が威嚇する声を出した。

猫達は一斉に臨戦態勢に入った。

すでにしっぽを太く膨らませ、いまにも飛び掛かりそうになっている…。


「止めて下さい。猫ちゃんを叩かないで!」

猫ちゃん達を守る様に背中を向けて、私はその女性と対峙した。


猫の威嚇する声に少し怯えながら、それでもこの女性は大きな声を張り上げた。

「あら嫌だ。振り払ったら手が当たっただけじゃない。

なぁに?このお店はお客様に因縁をつけるわけ?猫のしつけがなってないだけでしょう?」



皆に聞こえるように言うと、猫カフェエリアから出てきた彼女は、スーッと私に近づくとまた耳元で囁いた。

「お客様に聞こえるように、元社長の愛人だって言ってあげましょうか?

それとも、月15万円の広告費を出すことにする?これ位のお店なら毎月15万円くらい出すことなんて問題ないでしょう?もっと出してくれてもいいし…。」


私は声が出なかった。下を俯くと涙がポタっと落ちていくのが分かった。


「あのー。すみません。俺こういう者ですが…。」

市井さんの声がした。泣いている顔を見られたくなくて、下を向いたままの私を置き去りして、鈴木理恵という女性と市井さんは離れた席に移っていった。

急いで厨房の方に戻り、ポケットにあったハンカチで涙を拭う。

店内では、先程まで怖い顔で迫ってきていた女性とは思えない華やかな笑い声が響いいる。


「えぇー?本当ですかぁー?有名な市井さんにお会いできるなんて、とっても光栄ですー。良かったらぁ―、この後飲みに行きませんかぁー?とってもいいお店知ってるんでぇー。」

媚を売るような、間延びした声が続く…。

「でもってぇー。飲みに付き合ってくれたらぁーこのお店の開業の秘密を教えてあげますよぉー」


嫌だ。市井さんとあの人が話しをしているのが嫌だ。連れだって飲みに行くなんてもっと嫌だ。それに、もし市井さんに省吾さんの事を知られるなら、自分の口で伝えたい。だって、あれは、私とっては必要な大切な関係だったのだから…。


何故か聖子さんやまこくんが女性と話を始めている。

市井さんが、こちらにゆっくり歩いてきてくれた。

「大丈夫かい?泣いちゃったんだね…。」

「行かないで…。お願い…。」

思わず市井さんの腕に縋りついてしまっていた。

私の中で沸き上がるこの気持ちをなんて言ったらいいのだろう。

嫉妬?やきもち?この人が好きって気持ちと誰にも盗られたくないっていう強い想いだけが募っていく。

この時、いままで躊躇って言えなかったことを伝えなくっちゃいけないって何か強い衝動に突き動かされて言葉が漏れ出てきた…。

本当の事を自分の言葉で伝えなくてはいけない…。


「私、ここのお店の出資者について、市井さんにお話しがあります。このお店は、前職の社長の個人的な資産から出資を受けています。その人は、聖子さんのご主人で…。私、その人とお付き合いをしていました。でも…。」

あー、上手く言葉が繋がらない…。誤解されたくないけど、何て言っていいか分からない。混乱する私を市井さんは宥めるように、両手を握って小さな声で話しかけてくれた。


「ありがとう、本当の事話してくれて…。勇気がいっただろ?大丈夫だよ。

全て知ってるから。決して君を責めたりしないよ。」

市井さんの言葉に、涙が止まらない…。


「私、市井さんにどう言ったら伝わるか分かりません。でも、あの人からこの事を聞いて欲しくないんです。

私…。自分の過去を全て話したいけど…。

でも、今伝えたい事は…。

私は…市井さんが好きなんです。」


言い終わらないうちに、私の視界は真っ暗になり耳元では大きな鼓動が響いて聞こえてきた。

市井さんに抱きしめられていた…。市井さんの声の低くて優しい声が響いて聞こえてきた。


「あー。やばい。やばい…。嬉しすぎて顔がにやける。いま、俺の顔見ないでね。どうしよう。このまんまどっかに連れて行っちゃいたい。

俺も好きだよ。本当に好きなんだよ。ぜぇったい大事にするからね。

もう、何にも心配いらないからね。俺に任せろ?」


市井さんは、抱きしめつつ何度も私の頭を撫でながら、おでこにキスをした。

「落ち着いたかい?ちょっとあっちに戻ろうか?」


手をつないで戻ると、聖子さんとまこくんは拍手で迎えてくれた。

「おめでとう!」


「どういうこと?この女は前の会社社長の愛人なのよ?市井さん、騙されてるわ!

あんたも可愛い顔をして、いろんな男を誑かして…。」


私の手を握っている市井さんの手に力が入った。市井さんの怒りが伝わって来る。市井さんが彼女の前に出ようとしたその時、聖子さんがその女性の胸ぐらを掴んで大声で叫んだ。


「私、その社長の妻ですわ!

貴方に主人やこの子が侮辱される謂れはないわ。

この子はね、娘同然に可愛がっているのよ!

失礼なことを言いふらしたら、名誉棄損で訴えるわよ!」

ふん!っと鼻を鳴らして、聖子さんは手を離した。怒らせると怖い…覚えておこう。


「あーそれからですね…。このお店は近々株式会社として設立する予定です。

最初に出資をして頂いたのは、この方のご主人のご厚意によるものですが、事業拡大が見込めるということで、出資者を募ることになりました。もちろん、婚約者である私もその出資者の一人になる予定ですが…。これ以上何かご質問はありますか?

そうそう、貴方の会社の社長である井上様とは、私は懇意でしてね。

彼女に行った一連の言動に関しては、詳細を報告させていただく予定ですので、ご承知ください。」

こんな状況でありながらも、大人対応をする市井さんも素敵だなって思っちゃいました。


「ハイ!出口はこちらでーす!」

ニコニコ顔のまこくんは、ドアを開けて、彼女の傘を差し出した。


◇◇◇


「実はね。あのタウン誌の中にあった企業に見覚えがあったんだ。

業績が思わしくなくなっているって聞いたのに、大きな広告を出していたから変だなって思ってさ…。」

鈴木理恵という女性が居なくなってから、4人それぞれの好きな飲み物を飲みながら種明しが始まった。

聖子さんは、キリマンジャロのブラックコーヒー、まこくんは豆乳ラテ、市井さんはブレンドのブラックコーヒー、私はココアを作った。


「だからね、調査をしたんだよ。タウン誌の社長も知っていたし…。」

「市井君はね、我が家にもいらしたのよ。出資元が主人だから、個人出資から株式への変更を提案しに…ね。

もちろん、主人も大賛成よ。元々貴方のために作ったんだもの。誰かに痛くもない腹を探られるような要素は消しておいた方がいいのよ、お互いのためにね。」


隣でニコニコ顔になっている市井さんが、優しく私の両手を包み込んだ。

「俺、ここで聖子さんと神原の前で誓う。杏子さんのこと、大切にするよ。

だからね?杏子さんもさ、何でもいいから、俺を頼ってね。」


私は胸が熱くなった。

窓の外は、暗くなって来ていた。いつの間にか、雨が止み、雲が晴れた様子で台風は過ぎ去ったのか綺麗な月が出ていた。


◇◇◇


「やっぱりいい男だったわ。」花ママは独り言を呟いた。

「ふん!面白くない!」一家の大黒柱である俺は、床に転がりながらキャットタワーの一番下の柱で爪とぎをしながら、呟いた。

「でもさー。二人が引っ付くと、僕たちはどうなるの?」

「えー?でも猫カフェは続けるんじゃない?」

「株式って何?」

「いわゆる投資だけど、経営権が投資家に公的に約束されるから、個人での経営ではなくなるって感じかな。」

「難しくて、分かんない…。」

子どもたちが呟いている。


「でも、これであんこさんは省吾さんから自由になるわ。」

花ママはそう呟くと、『ニャンモナイト』になって眠りについた。









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