第18話 猫に背中を押された俺

 なんだか訳分からん内に、何故か杏子さんの自宅がある3階に招かれ入ってしまい、シャワーを借りていた。

 俺は、市井守、29歳独身でライターという職業だ。雑誌の記事や広告を作り、今はホームページ作成にも関わっている。俺の記事を読んでくれた読者からコメントをもらうと嬉しいけど、全てが本当でないことも知っている。褒める奴、貶す奴…人の評価かなんか糞くらえって思うことが多いからだ。

 自分のインスピレーションだけを信じて、感性だけを研ぎ澄まし、勘と運だけで今までの人生を乗り切ってきたように思う。

だけど、今は自分のこの勘が正しいのか分からなくなってきている…。


 杏子さんを初めてきたとき、そう詐欺師に腕を掴まれ泣きそうになっていた顔や離れてホッとして安堵する顔、猫達に囲まれ天使のように微笑む顔を見て、俺は恋に落ちたんだと思う。

 ずっと杏子さんの顔が頭から離れない。

 こんな風に異性を想うことが、今までになかったと思う。


 俺は、何となくモテていた。過去には告白され、彼女と呼べるような女性もできたこともあった。でも、長くは続かなかった。どうしても、相手を慮るという配慮が出来ない…。彼女よりも仕事が優先だし、自分の好みが優先で、相手に合わすことが出来なかった。

 何よりも、恋愛にはまり込んで自分を見失うような無様な姿になるのが許せなかったんだ。

 俺の10歳上の姉貴は23歳で自殺した。農薬を飲んで…。短大を出ていい所に就職出来て、そろそろ見合いでもして結婚かと思っていた矢先だった。彼氏が出来たって聞いたときは、俺は13歳で恋愛なんて雲の上の話だし、姉貴がいいと思ったんならいいんじゃね?位にしか思っていなかった。おやじやお袋もその人の見た目や嘘の所属する会社を信じ、姉貴もぞっこんで…。結局は結婚詐欺だった。姉貴は自分が貯金していた金や家の貯金の全てを相手に捧げ、逃げられ、鬱になって、あげくの自殺…。

 おやじやお袋たちは、自分たちがもっとしっかりしておけば…と嘆き、相手を探し出し裁判をし、使い込んだ金を取り戻したけど、姉貴は戻ってくるはずもなく…。


だから、俺は恋愛なんてって否定して生きてきたんだと思う。

でも、今杏子さんに出会って、もし騙されたとしても後悔しないだろうってほんと思う。姉貴が惚れた相手に何もかもを差し出した理由が分かる気がする。

好きって気持ちに理性なんて働かないんだ、きっと。

俺、命だって差し出せるかもとか考えちゃう。

俺って重い奴だな…。


考え事をしながらシャワーを浴びていたせいか、結構な時間になってしまっていた。シャンプーやリンスを借りてしまったが、ボディシャンプーと共にシリーズ化された俺が広告を出した商品だったから、また嬉しくなってしまった。これ、シリーズで使うと香りが一体化してすごくいい香りになるんだな…。

オレンジの香りがベースになっていて、気持ちが落ち着くよな…。

さっきまでのイライラが消えて、さっぱりした気分で俺は風呂の扉を開けた。

そして…そこに待っていたのは、11匹の猫ちゃんたちだった。


もちろん、正確に数えるような余裕は無かった。

ドアを開けると、一斉に猫達が俺の身体をじっと見ていたから、思わず叫んでしまっていた。


「うわわわわぁー!!!!!」


焦る俺…。遠くで杏子さんの声がする。足音が近づいてくる…。


ドアが開いた…。

そう、ドアから顔を覗かせた神原がニタニタ笑って言った。


「あら、立派だわ」


お前て奴は…って言おうとしたら、その後ろに杏子さんの顔が見えた。

俺は照れ笑いを浮かべたけど、杏子さんの顔が真っ赤になるのを見て、はっと我に返った。

俺、全裸だった…。


◇◇◇


杏子さんが注いでくれたコーヒーを飲みながら、先ほどの事件には触れないように猫ちゃん達の話をしながら、家の中をそっと見渡した。

部屋全体をアイボリーに統一し、キャットタワーや爪とぎが配置されたリビングは、大きな窓から光が優しく差し込み、柔らかい雰囲気を醸し出していた。

ソファーは薄いグレーでテーブルは無く、背の高い植木は高さのある白い陶器に入れられていた。きっと猫ちゃんたちのいたずら予防だろう。

 床には、少し猫の毛が転がっていたが、掃除のし忘れというよりも、猫が走って暴れた感じで、何もない部屋よりも生活感があった。

 扉が閉まるラックと何も入っていないラックがあり、何もない場所にも猫の毛がついていて、きっと猫達のお昼寝の場所なんだろうと察しがついた。


ダイニングも明るく、ここには4人掛けのダイニングテーブルと4脚の椅子があり、そこでコーヒーを頂いたわけだけど、猫達は躾けられているのかテーブルに乗ってくることはなかった。

コーヒーは、いつも俺が自宅で飲んでいる豆の味に似ていて、なんだか心が和んでいくのが分かった。


俺の足元には、茶色い猫が2匹、スリッパを狙っているようで、踵を手でちょいちょいと触り、さも足をどけろと言わんばかりの合図をしている。

黒っぽいいい感じの痩せ型の猫は、俺の椅子の後ろに座り込み、まるで寄り添う恋人のように身体を預けている。

俺は、自分の発想に思わずくすっと笑ってしまっていた。


◇◇◇


「今日は、告白しないのかな?」(by市井の背中側にいる四男小夏)

「あんなの見せておいて告白は無いんじゃない?」(by市井の足元にいる長男シャーアズナブル)

「分かんないよ?」(by市井の足元にいる六男きなこ)


◇◇◇


ひとしきり大声で笑いながら話していた神原が腕時計に目をやった。

「やばい!次の仕事に行かなきゃ…。猫ちゃん達の写真はまた今度ね!」

手を振りながら、去っていく…。

おいおい、俺を置き去りにするなよーって言えないし…。


何となく杏子さんの顔を見ると、少し微笑んでいて、ちょっとほっとした。

あー、何度見ても可愛いな…。


「可愛い…。」


「え?」


やばいな俺、声に出してたみたいだ。

俯く俺の背中を押す猫がいた。

さっきまで俺の背中側で大人しく座っていたのに…。

その猫は、俺が何も言わないからか、おもむろに立ち上がり今度は俺の肩をポンポンと叩いた。

まるで、勇気を出せと言わんばかりに…。


頑張れ俺!勇気出せ俺!

俺は俺自身を叱咤激励し、震える両手をぎゅっと握りしめて声を絞り出した。


「本当に唐突でごめん。

もし…、もしも今付き合っている人がいなかったら、俺…いや僕と付き合ってくれませんか?あ、あ、あ、あー。返事は今すぐじゃなくていいです。では、また…」


言うだけ言うと、俺は手荷物を持って、入って来た階段を駆け下りた。

途中でよく転ばなかったと思うよ。

あー、緊張した…。


◇◇◇


「小夏君。市井さんの背中押したでしょ?」(by花ママ)

「何だか、可愛く見えたんだもん。匂いも良かったし…」(by四男小夏)

「後は、あんこさんの気持ち次第かしらね?上手くいくといいけど…」(by花ママ)

僕たちの心配をよそに、あんこちゃんは大きな溜息をついた。

それは、甘い溜息なのか、そうでないのかは分からなかった。


あー、僕は今日いっぱい働いたなって思ったよ。恋のキューピットだっけ?弓矢じゃなくて、ゲロを放っちゃったんだけど…(by四男小夏)


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