第3話 事件です
私は平澤杏子、29歳独身…。私立の文系大学を卒業し、中規模のIT企業に就職した。正確にはしていた…になるけど。大学では文学部ではあるけど、元々は理系というか統計が得意で、心理学科ではそういう点が生かせるかなと思って進学したけど就職はホームページの制作とかできる企業になんとなく入ってしまったんだ。当時はITバブルが弾けた後だったから就職難ということもあって、多少規模が小さくても給料をきちんと払ってくれるならいっかとか思って安易に決めてしまった感じもする。
家族は6歳上の兄と60歳になる母がいる。母は恋多き人で、再婚を4回も繰り返し、兄と私は父親が違う異父兄妹だけど、母はそのどちらの父親でもないと人と現在は付き合っている。決して美人ではないけど、人の心の動きが読めるというか、近くにいると安らぐというか、気の使い方がとても上手で、何で私はこの特性を受け継がなかったのだろうとしみじみ思う。
兄は、母の特性を上手に引き継いだようで、人たらしのようなところが多々あると思う。友人にも恵まれ、仲良くしている人たちの年齢も職業も多彩で社会的にも立派な人が多い。兄自身も有名な大学を卒業し、現役で弁護士の資格が取れるほど優秀だからこそかもしれないけど。
二人を目の前にすると自分が平凡で何の才能もなく、生きていく価値がない人間だと感じてしまうことがある。母や兄は私のことを大切に思ってくれているのに…。
特に兄は、私のことが気がかりで仕方ないようで、もうすぐ30歳になろうかとする妹をいつも心配してくれる。1週間に1回は電話してくるし、月に1回は必ず食事を共にする。重度のシスコンだと兄自身も自覚しているくらいだ。だから今回の事件も早く兄に相談した方がいいと分っているのだけど…。
◇◇◇
その文書は内容証明で届いた。内容証明って必ず本人が受け取ったことが分かる様になっていて、送った先の人も届いたことが分かるようになっている。とても重要な、そう裁判とかされる場合に届く文書だ。それが、私宛に来ちゃったのよね…。不倫関係にある相手への慰謝料請求、そして請求相手が私ってわけだ。
私は以前IT企業で働いていた時の会社の社長と今も不倫関係にある。『不倫』とう言葉…あー、どろどろした感じが嫌いだ。それに、私自身もそういった関係に自分がなるとは思ってもみなかった。どうしてこんな風になっちゃったんだろう。
IT企業に就職した最初は、慣れないソフト開発の言語を覚えることで精一杯だった。でも、自分が作ったホームページで集客が上がったとか言って下さる顧客の言葉が嬉しくて徹夜を繰り返して身体がボロボロになっても楽しかった。あの頃は、自宅に戻る時間が惜しくて会社に寝泊まりして、グループ皆でアイデアを出して、作り上げた商品を仕上げていくことに喜びを感じていた。会社が中規模だったからこそ、社長との距離も近く、気さくに意見を聞いてくれることが、頼りにされることが誇らしくもあった。背は低いけれど痩せ型で、笑うとえくぼが出る顔が、だんだん上司というよりも好ましい男性として感じるようになり、16歳という年の差も恋愛感情を育てるハードルにはならなかった。そして、私は社長が自分で独身だと言っていた言葉を鵜呑みにして、求愛を受け入れたのだ。
社長である、岡島省吾さんは社員の誰にも結婚していることを話していなかった…。
だから、独身の女性社員から誘われることも多く、私は当時は尊敬というか憧れしか抱いていなかった。当たり前だ、会社の上司なのだから…。酔った勢いだと、徹夜続きで冷静な判断が出来なかっただけだと、恋愛のような気持ちに蓋をしたくて、何度も自分に言い聞かせて諦めようとした。でも、省吾さんは本気で好きだと言ってくれたから、付き合うことになったのだ。
今思えば、本当に好きだったのか…分からない。そう、分からないままただ勢いに流されるようにお食事に行ったり、飲みに行ったりするようなお付き合いを始めて1年が過ぎる頃、既婚者だと伝えられたのだった。この家の権利書を渡されたときだった。
窓の外は、低いビルやマンション、高級そうな家が見えている。東京の渋谷に近いこの祐天寺駅の周辺は、都会の割に人ごみも少なくごみごみしていない。また、古い町並みでもないため、作りが新しい感じがしてごちゃごちゃもしていない。当たり障りのない関係らしく見せている省吾さんと私との関係のようだ。個人の家が多いせいか緑もあり、大人や子どもの服装も洗練されている。私が育った大田区の下町感いっぱいの街並みとは大違い…と思えた。生活してみれば、ほとんど変わりがないのに、勝手に上品な街だと思い込んでいただけということも分かるのに。
省吾さんとお付き合いしたことを後悔はしないけど、奥様やお子様がいることは、先に教えてほしかった。分かっていたら、きっと自分の気持ちをセーブしたのにと思ったり、やっぱり惹かれてしまったのかもと思ったり…。何度自分の気持ちを振り返ってみても答えは出てこない。
内容証明のこの文書、お兄ちゃんに相談しようかな。
きっと怒るよね。そもそも『不倫』とか倫理的な問題には厳しい人だからなぁ。
私は、携帯電話に兄の番号を表示したまま、ずっと考え込んでいた。ふと気づくと足元に猫カフェでは人たらしとなっている四男小夏君がしっぽを立ててすり寄っていた。小夏君は、男の子なのに、顔がかなり可愛いし、『みぃやぁ』と鳴き声も高く短く女の子みたいだ。年配から女子高校生までファン層は広く、誰に抱っこされてもぐるぐる喉を鳴らし、嫌がる素振りもみせない。人気の猫ちゃんだ。私は小夏君の頭を撫でながら、「はぁ~」とため息をついた。ほんと、どうしよう、これ。
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