第1章 婚約 ⑤
「――
「……うん」
「前に――栞ちゃんの事件の後に三人でプールに行ったろ? その時に俺が夏姫ちゃんに話したこと、憶えてる?」
「忘れるわけないじゃん――私に家族って言われたこと、嬉しかったって」
夏姫の言葉に頷く。家族を知らない俺は、その言葉を疎んじていた。しかしあの事件でシオリから俺の生い立ちを知り、家族という言葉への忌避はなくなり、夏姫の言葉を嬉しいと思えた。一年と少し前のことだ、当然俺も憶えている。
「日本を出る前に夏姫ちゃんに愛しているって言われて、俺も夏姫ちゃんが好きだって答えて――自分でも意外だった。最初はさ、飯を集れると思ったから助けて――爺さんの食客になったから、恩人の孫だし危険がないように守ったり、構ってやったりで――危ない目に遭わせたくないだなんて、そんな風に思ってる自分に驚いた」
「……うん」
「
「あっくん……」
夏姫の目からポロリと涙が零れた。
「泣くなよ。泣かせたいわけじゃない――まあ、愛してるってことがどういうことなのかは置いておくとしても、俺だってできるなら夏姫ちゃんと一緒にいれたらいいと思ってるよ。だからちゃんと戻ってくるし、夏姫ちゃんが犯罪歴とか気にするなら、これからは法に触れないような仕事をしよう」
「そんなこと、考えてくれてたの?」
頬を伝う涙を指で拭って、夏姫。
「一応は」
「それって多分、あっくん私のこと相当愛してるよ」
「……全然わからん」
泣きながら嬉しそうに微笑む夏姫。
「とまあ、そんなわけで夏姫ちゃんが喜んでくれるなら結婚ももしかしたらありなのかなって。後から夏姫ちゃんが『やっぱ違うわ』って離婚したら俺はともかく夏姫ちゃんの戸籍が汚れるだろ? だからまあ、あんまりしたくないんだけど。でも前に結婚したいみたいなこと言ってたし」
「いい流れだったのに、プロポーズに誠意がなさ過ぎる……」
がっくりと肩を落とす夏姫。
「プロポーズ? いやそんなつもりは……や、この流れで結婚匂わせたらそういうことになるの、か?」
夏姫の言葉に思わず首を傾げる。俺としては『T市の件が終わったらきちんと帰ってくる』ということを明確に伝えて安心させたかっただけなんだけど。
「よし、じゃあ結婚はとりあえずなしで。ともかくちゃんと帰ってくるから――」
「やだよ」
俺の言葉を夏姫は食い気味に否定して、そして胸元に飛び込んできた。
「あっくんがしてくれるなら、私、あっくんと結婚したい」
そう言って俺の背とソファの間に手を差し込み、夏姫がぎゅうと抱きついてくる。口調こそ軽いものの、夏姫の両目からは次々と涙が溢れて俺のシャツを濡らしていく。
「……気が進まない」
「自分から言い出してそれは酷くない!?」
「や、夏姫ちゃんが嫌ってわけじゃなくて――」
俺なんかが相手でいいのか。そう言葉を続けようとするが、夏姫が甘えるように頭をぐいぐいと俺の首元に押しつける。
「おい――」
声をかけるが、夏姫は答えない――代わりに嗚咽が漏れる。
「泣くなよ」
「ごめんね。でも、嬉しくて――」
ぐすっと鼻をすすりながら夏姫。顔を上げ、真っ赤な目で嬉しそうに。
「そしたらあっくん、高卒認定とろう?」
「あ?」
「勉強は私が教えてあげる。あっくん地頭良いし、きっと大丈夫」
いや、夏姫はアメリカ時代に飛び級で高校卒業して、辞めたとは言え大学にも入ったと聞いている。家庭教師としては十分なのだろうが――
「まったく自信がない。試験科目にワンホールショットってある?」
「あるわけないでしょ! ……あっくんが法に触れないような仕事で私と一緒にいてくれるっていうなら高卒認定とって、大学行った方がいいよ。あっくんには色んな可能性がある。大学で色んな可能性を探して――私も同じ大学入るよ! 二人でさ、勉強して、遊んで、卒業して、就職して――その初任給でね、あっくんは私に婚約指輪を買うの。どう?」
「や、そもそもそんな金はな――くはないか」
かつてバトルアリーナで稼いだ俺のファイトマネーの口座は、恐らく夏姫が管理しているはずだ。俺の分の学費どころか、夏姫の分まで負担してもお釣りがくるだろう。生活費もまかなえるはずだ。
「……まあ、夏姫ちゃんが何でも屋じゃなくてもいいなら、それでもいいけど」
「何でも屋はできることを仕事にしただけじゃん。あっくんが自分でやりたい仕事をみつけて、それでその頃にまだ私のことを嫌いになってなくて、その選んだ仕事で私を養ってくれるって言うなら……」
「……言うなら?」
「もう私、死んでもいい」
そう言って涙で濡れた顔を笑顔でくしゃくしゃにする夏姫。
「や、死なれちゃ困る」
当たり前の言葉を返す俺に、夏姫はしがみつくように抱きついて――
「ねえ、あっくん」
「うん?」
「今日、あっくんのベッドで一緒に寝よう?」
「それはちょっと」
夏姫の提案にNOと答える。
「なんで!? 今完全にそういう流れだったじゃん!」
「や、一応そこはほら、先に爺さんに話通さないと」
「あっくんは変なところで真面目だよね……」
「爺さんには恩も義理もあるからね。まあ、任せるとは言われたし、反対はされないでしょ。それだけに順序は守らないとね。それに――」
「……それに?」
言葉を句切る俺に、夏姫は不安げな顔になる。俺は肩を竦めて――
「俺、今ペナルティで夏姫ちゃんにお触り禁止じゃなかったっけ?」
「だからさっきからされるがままで抱き返してくれなかったんだ!? 我慢できなくなったらアリって言ったじゃん!」
「や、全然できるけど」
「酷い! 雰囲気読んでよ!」
夏姫はそう言って俺の背に回した腕に力を込めた。やれやれ、難しいことを言う。
そう言われたからにはなにかせねばと、涙声のままの彼女のその背に手を回してやる。すると夏姫は再び顔をあげ、上目遣いで俺を見る。
「あっくん」
「うん?」
「大好き。愛してる」
「……それはどうも」
「明日、一緒にお祖父ちゃんのところに行ってくれる?」
「夏姫ちゃんがそうして欲しいなら」
つまり、この話を兼定氏にしろってことだろう。頷くと、夏姫はこれまで見たことがないような、嬉しそうな、幸せそうな――そんな顔をした。
そして、蠱惑的な声で。
「じゃあ、今夜は一緒に寝よう?」
「それはなし」
体を捻り、夏姫の両腕から脱出。そのままソファから立ち上がり、バスルームへ向かう。
「明日爺さんのところに行くなら早めに休もう。シャワー浴びてくるね」
「覗――」
「いていいわけないだろ。お湯張っとくから、夏姫ちゃんも俺の後に入って寝な」
そう告げると、背中に甲斐性なしだの意気地なしなどと罵声が浴びせられる。まあ夏姫の気持ちを考えればそんな言葉も投げたくなるだろう。
ただ、俺としてはまだ終わった話じゃない。額に銃創のある男――あの男を殺して
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