第1章 闖入者 ④

「お断りだ」


 荊棘のそんな馬鹿げた提案に即決で返す。


「即断即決。男らしいね――だけどもう少し考えてくれてもいいじゃないか」


「断る。取引は話を聞くことだっただろ。あんたの要求を飲めって話じゃなかった。俺には断る自由があるはずだ」


「まあまあ、そう言わずにもう少し聞いてくれよ。私はね、アタルくん――私と君の間柄を語るにあたって、お互いの命を賭けた全力の死闘を繰り広げた仲だというものの他に、もう一つ重要なものがあると思うんだ。とても真摯で信頼に値するものさ」


 荊棘はそう言って笑う。こいつの笑顔ほど気味が悪く裏を疑いたくなるものは他にない。


「……そんな健全なものを育んだ覚えはないな」


「そうかな? 私はそうは思わない。それは取引――信頼できる取引相手ということさ。天龍寺夏姫を丁重に扱うという条件で君は私との対話に同意した。スカムの一斉検挙を取りやめることを条件に《蛇》と交戦。今後も天龍寺夏姫に手をださないことで私と交戦。君のお友達に手をださないことで私と対話――私と君は、常に互いが同意した条件で取引をしてきた。互いに利を得ることができる素敵な関係なんだよ、私たちは」


「……ほとんどあんたの強迫に俺が条件を出して折れただけだと思うが」


「それでも取引は取引さ。この件だって君に喜んでもらえそうな条件を用意してあるよ」


「断る。県の大半を仕切るような組織を相手にするのはリスクが高すぎる」


「――《蛇》のいた《バーミン》も似たようなものだったじゃないか」


「あれは《蛇》と取り巻きがやり手だっただけで、本体は組織として成立してない愚連隊だったじゃねえか。配下を律して県の異能犯罪を抑制できるような《組織グループ》とは訳が違う」


 俺はそう言うが、しかし荊棘は引き下がらない。


「それでも聞くだけは聞いてもらうよ。取引だからね?」


「わかってる――言うだけ言ってみろよ。応じるつもりはないけどな」


「多分、気が変わると思うよ?」


 荊棘はそう言って、語り出す。


「そもそも、さっきも言った通り私はこの事件の担当じゃなかったんだよ。けど腕利き揃いの公安の捜査官が七人も殺されるのはかつてない大事件だ。すぐに私は本庁に呼び出され、警察庁長官直々にこう言われたよ――私が知りうる最高の能力者とともに現地入りしてことの収束にあたれってね。私は私が知りうる最高の能力者は公安の捜査官ではなく、かつて唯一敗北を喫し取り逃がした異能犯罪者ですと答えたよ――君のことさ、アタルくん」


「過大評価だ。もう一度やれば同じ結果になるとは限らない――あんただって俺に白旗あげたわけじゃないだろう?」


 以前別れ際、荊棘は俺に必ず殺すと宣言した。こいつも言ったことは実行するやつだ。俺との再戦の機会を伺っているだろう。


「それでも私に黒星をつけた唯一無二の人間が君だということは変わりないよ。それに、君がこの取引に応じれば私は君へのリベンジの機会を永遠に失う事になる」


「――なんだって?」


 荊棘の意外な言葉に驚くと、彼女はなんとも言えない表情で言葉を続けた。


「長官は私が最も優れた能力者が犯罪者であると告げると、なんとしてでも仲間として引き入れろと言った。アタルくん――この取引で私たち警察庁が君に提示する報酬は、まっさらな戸籍だよ。私と一緒にこの事件を収束できれば、君は罪のない一般人に生まれ変わることができる。無実の人間が相手じゃ、私も逮捕なんてできないからね。リベンジも挑めなくなるというわけさ」


 ……それは。それは、つまり。


 とあることに思い至ると、それを察したらしい荊棘がにたぁっと笑う。




「そうだよ、よく気がついてくれた。アタルくん――まっさらな戸籍が手に入るということは、君は罪のない一般人として天龍寺夏姫と婚姻関係を結ぶことができる。彼女と、《スカム》の前々会長と本物の家族になれるんだよ。それは君にとって魅力的な報酬じゃないかな」




 言葉にされて改めて考える。俺と、夏姫が――?


「顔色が変わったよ。良かった、やはりこれは君にとって魅力的な報酬なんだね?」


「ヘイ、姉ちゃん――随分と気持ちよくしゃべりやがるが、新しいIDを用意するだって? マジでそんなことができるのか?」


 思わず言葉に詰まった俺の代わりに――というわけでもないだろうが、俺の横でマックスが荊棘に尋ねる。


「逆になんでできないと思うのかな? 言うなれば国内の司法のトップが決めたことだよ、行政のトップに働きかけてこれを可能にするのは不可能じゃないさ」


「公安に目をつけられるぐらいだ、兄弟は日本でも相当な悪党なんだろ?」


「何をもって悪党と断ずるかにもよるけどね――勿論こんな取引は誰彼構わず提案できる者じゃない。アタルくんだから提示できる報酬さ」


「俺だから……?」


 眉をひそめると、荊棘がそうだよと口にする。


「憶えているかな、公安の君の評価を。異能犯罪者として最高危険度で、かつ一般人に対する脅威度は最低評価――情報部はアタルくんの異能犯罪は生きるための術であり、一般人に限定したモラルは高く、その必要がなければ犯罪に手を染める危険を冒さない――そう分析している。つまりね、我々は君にまっさらな戸籍を与える事が、君自身の更正につながると判断しているんだ。君に戸籍と健全に働くことができる環境があれば、犯罪に走ることはないんじゃないかってね」


「……そいつはどうかな。モラルなんか知ったことじゃないし、人を殺すことに抵抗はない」


「それが異能犯罪者であれば、だろう? 一般人を手にかけたことは?」


「……ない。あんたぐらいだ」


「ほらね。日本で殺人の前科まえがある異能犯罪者のうち、一般人を殺したり、怪我をさせたりしたことがない割合ってどれくらいか知っているかい? なんと脅威の1%――殺人を犯した異能犯罪者のほとんどが一般人を蹂躙することに抵抗がない。けれど、君にはそれがある――君の犯罪は劣悪な成長過程のせいで、君自身のせいじゃないということだよ」


「……甘いんじゃないか? 実刑を受ければ四、五回は死刑になってもおかしくないぞ、俺は。それに異能犯罪者が相手なら、殺人に抵抗はない。そんな奴が陽の下を堂々と歩くのはどうかと思うけどな」


「君がどう自己評価しようが君の自由だけれどね、私は君が天龍寺夏姫と結婚できる環境にあれば、二度と犯罪に手を染めないと確信してるよ。それに――」


 荊棘は薄い笑みを浮かべ、


「実のところ、その点について私はどうでもいいとも思ってる。天龍寺夏姫と結婚してなお君が犯罪に手を染めるのなら、気兼ねなく再戦できるからね。むしろ積極的に罪を犯して欲しいくらいさ」


「……相変わらずの異常者ぶりだな」


「そんなに褒めるなよ」


 質の悪さも相変わらずだ。そんな荊棘にはっきりと告げる。


「それでも答えはノーだ。夏姫を俺みたいなやつの嫁にしてたまるか」


「……そこまで君に愛されている天龍寺夏姫が羨ましいよ」


 大きく息を吐いて荊棘が言う。


「これは困ったな。天龍寺夏姫との結婚には乗ってくると思ってたんだけど。もしかしてもう彼女に飽きちゃった? それとも違う相手が? もしそうなら別の条件を用意するよ? 君が乗ってくれるなら、こちらにはできるかぎり君が望む報酬を用意する準備がある」


「なんで俺にこだわるんだ。俺よりデキる奴なんて公安にも裏社会にもいるだろう」


 言ってやるが、荊棘は首を横に振る。


「少なくとも公安の捜査官に私が勝てなさそうな者はいないよ。裏社会でも君以上の能力者に出会ったことはないな。もし過去に捕まえた能力者たちが君以上だったなら、私にもっと黒星があっていいはずだ」


「――仮に、だ。もしそうだとしても公安の捜査官が束で殺されるような場所に俺とあんたの二人で乗り込むのか? 二人でT県の悪党どもをまとめて相手にしろって? 冗談じゃない」


「ところが実はそうでもない」


 俺の言葉に、荊棘はもったいぶってそう言った。



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