第2章 ベアトリーチェ ⑥

「そろそろお暇しようかしら」


 ベアトリーチェがそう言ったのは深夜もとっくに回った頃だった。


「私は無理、帰れそうにない……」


 へべれけになったキャミィがテーブルに突っ伏したまま呻くように言う。


「アキラ、泊まっていっていい?」


「ああ、俺は戻ったらソファで寝るからベッド使っていいぞ」


 マックスの奴は床でいいだろう。っていうか朝まで起きないだろうし、ベッドとソファは一つずつしかないのでどうしようもない。


「……戻ったら?」


 億劫そうに顔を上げるキャミィに告げる。


「ビーチェを部屋まで送ってくる」


「え? そんな、悪いわよ」


 遠慮するベアトリーチェだが、


「構わないよ。さすがにこんな時間にビーチェを一人で帰らせるわけにはいかない」


「甘えときなさいよ。北区でアキラより頼りになるボディガードはいないわよ」


 のそのそとベッドに這っていくキャミィ。普段は理知的な女だがこうなるとどうしようもねえな……


「でも、この部屋って鍵がかからないでしょう? 水泥棒もくるし」


「この時間は水泥棒も寝てる。来たとしても顔見知りだ、俺の仲間に手は出さない。他の招かれざる客は――……この半年で二回しか来てないから大丈夫だろ」


「ちょっとちょっと」


「マックスも真性のバカじゃねえからヤバイ空気になりゃ起きるさ。や、送り狼を心配してるなら無理にとは言わないけど」


「そんな心配はしてないわよ。じゃあ甘えてもいいかしら」


「ああ――じゃあキャミィ、行ってくる」


 そう部屋に残るキャミィに告げるが返事はなかった。代わりにベッドに横たわった彼女が弱々しく片手を挙げる。もうだいぶ睡魔にやられているようだ。


 ベアトリーチェと二人でそれを見届けて部屋を後にする。階段を降りて表に出ると、俺はマックスから拝借してきたウラルの鍵を取り出して――


「――ねえ、アキラ」


「うん?」


「歩いて行かない? そんなに遠くないし」


「俺は構わないよ、飲んでないし。ビーチェは大丈夫か?」


「大丈夫よ。私もそれほど飲んでない」


「――確かに、あの二人に釣られずにゆっくり飲んでいたよな」


 ベアトリーチェの言葉に俺はキーをポケットにしまい、歩き始めた彼女に並ぶ。ベアトリーチェは夜空を見上げて――


「月が綺麗ね」


「知ってるか? それ、日本じゃ文学的な口説き文句なんだぜ」


「ほんとに?」


「俺は学がないからよく知らないけど、昔の偉い人がアイラブユーをそう訳したんだってさ」


「素敵な話ね。クールだわ――私、日本って好き。子供のころに一度日本に行ったことがあるのよ? ソバ? が美味しかったわ。ヌードルハラスメントはちょっと苦手だったけど」


「蕎麦は啜って食うもんだ。文化が違うから仕方ないけどな――他には?」


「ホテルで見たアニメーションが最高にクールだったわ。ほら、アーケードにディスク屋があるでしょ? そのアニメーションの海賊版があったから買っちゃった。アキラは知ってる? ニンジャが戦う話なの」


「……いや、ごめん。わからないな。あんまり観たことないんだ、そういうの」


「そうなんだね。日本にいた頃余暇はどう過ごしてたの?」


「そうだな――ボスと出かけたがりだったからそれに付き合って――後はトレーニングかな」


 役に立っているかどうかわからない暗い街灯と月明かりでベアトリーチェとスラムを歩く。さすがにこの時間だ、人通りもないし車も通らない。この時間に人が集まるのはアーケード周辺ぐらいだ。


「トレーニング? 勤勉なのね」


「さっきちょこっと話したろ、向こうのケンカ賭博は能力禁止でさ。勝つために必要だったんだよ」


「儲かった?」


「マックスのケンカ賭博よりはな――《グローツラング》や《モンティ家》が仕切ってると思えよ。客も多いし――それに政治家や企業家も一枚噛んでた。掛け金もマックスの賭博より桁が一つ多かった。ファイトマネーも」


「それは素敵ね――その割に今はお金持ちには見えないけど?」


「日本を出るときに持ち出せなかったんだよ」


 ベアトリーチェにそう答えた時、首の後ろに何か冷たいものが触れたような――そんな感覚があった。


「――ビーチェ、振り返るなよ」


「え――」


 声を潜めてそう言った途端、ベアトリーチェは反射的に振り返ろうとした。そうさせないために俺は彼女に身を寄せてその腰を抱く。


「ちょっと、アキラ――」


「我慢してくれ――ウラルで来るべきだったかもな。尾けられてる。多分二人」


「やだ、ホント?」


 怯えた表情を見せるベアトリーチェ。当然だ――彼女の戦闘力は大したことがない。チンピラに襲われたら逃げるのが精一杯だ。


「この手の勘は外したことがない。そこの角を曲がるぞ。曲がったらあんたは走って離れろ。俺が接待する」


「……お客さんに同情するわ」


 言いながら、いちゃつく恋人を装って角を曲がる。背中を押してやると彼女はパタパタと駆けていった。俺は壁を背に気配を探る。ベアトリーチェの足音に釣られたか、静かに尾行してきていた二つの気配が足音を立てて追ってきて――


 角から二人の男が現れた。着崩したシャツに質のいいスーツ――格好を気にするのは各グループの幹部連中か、でなけりゃマフィアの連中だ。となれば東区の連中か――


 まあ、直接聞けばいいか。


 待ち伏せていた俺に目を剥く二人――その片割れの顎に拳を叩きつける。手応えあり――男は膝から崩れ落ちる。一人は片づいた。あと一人――


 そいつが慌てて懐から銃を抜く。


「――抜いたな? 抜いたからには殺されても文句を言うなよ」




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