第5章 隻眼の魔女 ⑦

 よろめきながら事務所のドアを開けると、目を赤くした夏姫が駆け寄って支えてくれた。


「――あっくん!」


「ただいま、夏姫ちゃん」


「カメラに公安とやり合ってる姿が映って、私心配で――」


「――ああ、結局荊棘おどろとやり合うことになった。ごめんだけど、止血と手当てしてくんない? あと水。超疲れた」


 夏姫に甘え、ソファに連れてってもらう。倒れ込むように座ると、シオリが救急箱を、カズマくんがペットボトルを持ってきた。


「大丈夫すか、兄さん!」


「大丈夫じゃねえ――悪い夏姫ちゃん、蓋開けて」


 ペットボトルの蓋を開けるのも億劫だ。受け取ったそれをそのまま夏姫に渡すと、言われるまま夏姫は蓋を開け、それを俺の口元に運ぶ。


「飲める? ストロー持ってくる?」


 夏姫は俺の顔を覗き込んでそう尋ねてくる。この夏姫の姿をよく憶えておこう。


「いらない。このまま飲めるよ」


 ペットボトルを受け取って、煽る。冷たい水が口の中の切り傷に染みた。


「……あんたがそんな風になるまでやられるなんてね」


 救急箱を夏姫に手渡したシオリが言う。


「異能犯罪者三人相手にした後にラスボスだよ。四連戦だぜ? その上軽くあしらえる雑魚は一人もいなかったし――痛っ」


「ごめん、染みるよね?」


 銃創を消毒する夏姫は泣きそうな顔だ――いや、これだけ目が赤いのだ。俺を心配して相当泣いたに違いない。


「いや、大丈夫。続けて?」


「うん――」


 夏姫は頷いて治療を続ける。


「でも、帰ってきたってことは勝ったんだろ?」


「なんとかな」


治癒能力者ヒーラーを呼ぶか?」


 と、これは兼定氏だ。


「駄目だ、体力が残ってない――治癒能力ヒーリングはいわば自然治癒の促進だろ? 今受けたら過労で死んじまうよ。少し休んでからでないと。それよりも爺さん、何もされなかったか?」


「ああ、お前が蛇を始末してすぐに連中は引き上げていったよ。電話で夏姫に聞いたろう?」


「まあ、そうだけど。一応さ」


「こちらは問題ない――よくやってくれた」


「おう――これでバーミンの主立った奴は全滅だ。この評判が広まればスカムに手を出そうなんて輩はそうそう現れなくなるでしょ」


 兼定氏が頷き、俺もそれに返す。


「それにしても――」


 シオリが難しい顔で呟いた。


「……公安とやり合った、か……」


「殺しちゃいないけどな。半殺しにしてきた」


「……公安をっすよね、まずくないすか?」


 尋ねたのはカズマくんだ。まずいよ。ってかそれを口にするのが早すぎるんだよ馬鹿野郎。聞かれたら答えなきゃならないじゃないか。


「めちゃめちゃまずいよ。これからは公安にきっちりマークされるだろうね。荊棘おどろに必ず殺すと宣言されたよ」


「え――」


 夏姫が弾かれたように顔を上げる。そんな顔しないでくれ。お前の顔、これで見納めになるんだからさ。


「さすがに公安に睨まれて居直るのは無理だ。捕まるか、最悪荊棘おどろに殺される。さすがにそんなのはごめんだ――だから、この街を出ようと思う」


 シオリは俺の言葉を予想していたようだった。カズマくんと兼定氏は呆然とする。夏姫は治療の手が止まった。その顔に表情らしいものは伺えない。


 カズマくんが狼狽えて言う。


「……そんな、この街を出てどこ行こうってんすか?」


「とりあえず海外かな。シオリ、例の伝手に頼んで帰りの積み荷に乗せて貰えるように手配してくれよ」


「……それはいいけど、向こう海外に戻る便は昨日出たばかりだよ。二、三日は待たないと」


「……それを悠長に待っている余裕はねえな。現地で別の業者を探すか」


「だったらH道かな? あそこは全国で密入国が一番多い」


「――待ってくださいよ! 兄さんなら公安敵にしたってなんとかなるんじゃないすか? 別にわざわざ出て行くことはないすよ!」


「……確かに、あの女も俺が最初から殺す気でいたらもっと楽に勝てたと思うよ。けど、それでどうする? 毎日刺客を送られて殺すか殺されるかみたいな生活をしろって? 無理だよそれは――あの変態みたいにみんながみんな一人で挑んでくるわけじゃない。公安が本気になれば俺はいつか必ず殺される。奴らは俺を生かしたまま捕らえる必要はないんだからな。俺の存在を始末できればそれでいいんだ」


 告げると、カズマくんは押し黙った。


「……アテはあるのか?」


 これは兼定氏だ。


「ねえよ。けどこの街にきたときだってアテなんかなかったんだ。なんとかなるさ」


「……今、いくらか現金を用意させる。持っていけ。行く先によっては日本円は役に立つだろう」


「あー、それはマジで助かる。俺のファイトマネーを現金化するのはちょっと時間かかるし。口座の名義は夏姫ちゃんだから凍結されたりはしてないと思うけど――あとでそっちから融通してくれ」


「いらんよ。餞別だ。お前には随分世話になった」


「……ありがたく受け取っておくよ」


 逃亡生活をするなら現金はどうしたって必要だ。くれるというのならもらっておこう。


 そして――俺たちの話を無表情で聞いていた夏姫がようやく口を開く。


「そっか――すぐに行くの?」


「……今夜には出るよ」


「大変、急がなきゃ――いくら何でも最低限の物は持っていかないと。それにしばらく帰ってこれないよね? マンションのブレーカーも落としていかないと危ないだろうし――」


 立ち上がって、夏姫はそう言う。


「事務所は鍵預けるから、お爺ちゃんたちで好きに使って良いよ。ねえあっくん、夏の薄着のままより少し着込んだ方がいいよね? 暑ければ脱げばいいけど、寒いのは耐えられないし」


 衣服は欲しくなったら現地で買えば良い。特に最初の行き先は日本より物価が安いし、そんなもので荷物を増やすくらいなら千円でも多く持ち出した方が遙かに有意義だ。


 しかし、それ以前に。


「夏姫ちゃんはそんなこと気にしなくていい」


「や、でも――急ぐなら、あっくんに私の分まで準備してもらうのは――」


「――夏姫ちゃんは連れてかない。出て行くのは俺一人だ」


 言葉を遮ってそう告げると、夏姫は真剣な表情で問うてきた。


「なんで?」


「……爺さんは話を聞いていたと思うけど、スカムはこの街の調停者になることで連中のお目こぼしを受けられる。そして夏姫ちゃんは能力者ではあっても異能犯罪者じゃない。公安の連中にとって夏姫ちゃんの罪状は捕まえるほどのものじゃないんだよ。夏姫ちゃんがこの界隈から足を洗って普通に暮らすようになれば、連中は夏姫ちゃんを捕まえたりしない」


「――そうじゃない!」


 夏姫が叫ぶ。


「私たちは家族でしょう? あっくんが行くなら私も行くよ!」


「……今日までは家族だった。明日から他人だ」


「嫌だよ、そんなの!」


「……夏姫ちゃんはまだまっとうな生き方ができるんだ。俺とは違う。陽の下で生きていける」


「――そんな風に言って、いざとなったら簡単に捨てられるように私のこと抱いてくれなかったわけ!?」


「そうだよ。俺と夏姫ちゃんじゃ生きてる世界が違う」


「――馬鹿ぁ!」


 夏姫が座ったままの俺に抱きついてくる。夏姫の優しい匂いが胸に広がった。


「――行かせない! あっくんが行くなら私も行く!」


「……夏姫ちゃん」


 夏姫の背中に腕を回す。そしてその華奢な体を抱きしめると、夏姫も俺の首に手を回し、きつく抱きしめる。


「――好き! 大好き、愛してる――絶対着いて行くんだから――」


「俺も夏姫ちゃんが好きだよ。だから連れて行けない――俺と一緒にいたら必ず命を狙われる。夏姫ちゃんにそんな目に遭って欲しくないんだ」


「それでもいいよ! あっくんがいなかったら私は今ここにいない――一度助けたんならずっと傍に置いといてよ!」


「無理言うなよ……」


 俺はそんな風に泣き叫ぶ夏姫の首に手を添える。それに気付いた夏姫はびくりとし、少し離れて――唇が触れそうな距離で俺の瞳を覗き込む。


「……ねえ、あっくん……嘘だよね?」


 何をされるか察した夏姫の言葉。彼女の頬を大粒の涙が伝う。


 そんな夏姫に、俺は――




「……さよなら、夏姫ちゃん」




 そう告げて、彼女の細い首に手刀を当てた。




 気を失った夏姫をそっとソファに横にする。夏姫の手首に巻かれたブレスチェーンが目に留まった。いつだったかカズマくんと女遊びをしたことがバレたとき、機嫌取りに買ってやったものだ。


 そのチェーンを夏姫の手首から外し、自分の手首に巻く。これくらいはもらっていってもいいだろう。


 代わりに着けたままだったグローブを脱ぎ、夏姫の手に握らせる。


「悪いな、シオリ――あんたにもらったもんだけど、俺が身につけて大事にしてるのはこれくらいしかなくてさ――夏姫ちゃんにあげちまってもいいよな?」


「ああ――それはもうお前のもんだ。お前の気が済むようにしたらいい」


 シオリが頷く。


「爺さんと夏姫ちゃんのこと、頼むな」


「はいよ」


「あんたがそう言うなら安心だ」


 シオリは俺にとって最高の仕事屋だ。それは左腕の自由を失った今でも変わらない。今はスカムに籍を置き仕事屋は引退しているが――だからこそ、彼女になら任せられる。


「カズマくんは運び屋ポーターを手配してくれ。急げよ、夏姫ちゃんが目を覚ましたら間抜けだぞ」


「マジっすか、姉さんのこと考えたら俺、兄さんのこと行かせたくないんすけど……」


「今後も俺を兄貴と呼びたいならさっさとしろ」


「――! うっす!」


 強めに言うと、カズマくんはびくりとしてどこかに電話をかけ始める。


「……悪いな、爺さん。こんな別れ方でよ」


「……お前の本意じゃないことはわかっている。今まで夏姫を見てくれてありがとう」


「……まさかあの天龍寺兼定がそんなストレートに礼を言うなんてな」


「……ふん。家に連絡したから寄っていけ。時間が時間だ、金庫にある分くらいしか用意できなかったが」


「サンキューな。多すぎても邪魔になるし、そんなに沢山はいらないよ」


運び屋ポーターへの支払いもあるだろう。持てるだけ持って行け――達者でな」


「爺さんも。あんまり悪いことして夏姫ちゃんを泣かせるなよ」


「お前に言われたくないな」


「それな」


 兼定氏に別れを告げる。丁度良いタイミングで事務所前に人の気配が現れた。


「兄さん、運び屋ポーターが――」


「おう。カズマくんも今まで色々ありがとうな」


「そんな、礼を言うのは俺の方っすよ。兄さんには随分面倒見てもらったっす」


「言うまでもないだろうけど夏姫ちゃんを頼むぞ。あと、栞ちゃんな――今回の件で栞ちゃんには随分迷惑をかけた。怖い思いもしただろう。そうじゃなくたって先月の借りがある――彼女に尽くすのはスカムの最優先事項だ。わかってるな?」


「うっす! 栞さんと姉さんには虫一匹近寄らせないっす!」


「そう言う意味じゃねえんだけどな……まあいいか。カズマくん、元気でな」


「うう、兄さん……」


「スカムの会長様がガキみてえに泣いてんじゃねえよ。別に今生の別れって訳じゃない。お互い生きてりゃどっかですれ違うこともあるかも知れないんだからさ」


 そう言うと、カズマくんは目元をごしごしを手の甲でこすって、


「俺のこと忘れちゃ嫌ですよ」


「――……カズマくんは俺を兄貴って呼ぶけど、俺にとっちゃカズマくんは初めてできた友達なんだぜ。忘れるかよ」


「――、俺も絶対兄さんのこと忘れないっす!」


 言ってカズマくんは手を差し出してきた。俺はそれを握り返す。


「……それじゃあ兄さん、また、いつか――」


「ああ。また、いつか」


 おそらくそのいつかという日が訪れることはないだろう。


 それでも俺はカズマくんに――兼定氏に、シオリに、栞ちゃんに、夏姫にそう告げて――





 そして、慣れ親しんだ街を後にした。



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